第3章 夜明け前の鯨神(くじらがみ)の影
都で続く不穏な出来事から逃れるように、あるいは真相へ一歩でも近づくために、千華は屋敷を出る決意をした。次なる手掛かりを求めて向かう先は、都から海沿いの街道を南へ二日の距離にある港町である。この港町は諸国との交易が盛んな一方、古くから海神を崇める伝統が根強く残っているという噂を聞き及んだ。血契と人身御供の影を感じる今、海神にまつわる伝承が何らかの糸口になり得るかもしれない。そう考えた千華は軽装の旅支度を整え、最小限の同行者を連れて出発することにした。
都を出て間もなく、広々とした田畑が続く道を進み、昼頃には山間を抜ける峠道へさしかかる。都の喧噪を離れた空気は驚くほどに澄んでいて、空を見上げれば雲がうっすらと浮かぶだけの清々しい天気だった。ここ最近、心を苛んでいた桜狩りや血塗れの巫女、棺の怪異といった恐怖から少しだけ距離を置ける気がして、千華はほっと息をつく。もっとも、すべてを忘れてしまえるわけではない。むしろ、このまま黙って都に留まっていれば埋もれてしまうような真実が、外に出ることで見えてくるはずだ。その期待だけが彼女を前へ進ませている。
道中、同行の護衛役が雑談まじりに語るところによれば、このあたりは昔から交通の要衝であり、山の向こうへ出れば大小の港町が点在するのだという。海からの潮騒が運ばれてくるようになれば、目的地の港町は近い。夜が更けるころには宿場町へ辿り着き、まずはそこで一泊する手はずだ。千華はうわの空で相槌を打ちながら、心の中で“鯨神”という単語を繰り返す。まだ何の確証もないが、その存在が人柱や生贄に関係する伝承ならば、都の血契と繋がる可能性は十分にある。鯨は巨大な海の生き物で、昔から人々が畏怖を込めて神として崇める地域も多いという話をどこかで耳にしたことがある。ならば、都が昔から行ってきたという人身御供――すなわち生け贄の儀式が、海の神とリンクしていても不思議ではない。
峠道を超えた頃、遠くの視界が開け、うっすらと海のきらめきが見えはじめた。千華は初めて見る光景ではないが、何度見ても雄大な海の青さには息をのむ。日差しが水面を照り返し、その向こうに港町の家並みがかすかに確認できる。少しずつ近づくにつれ、漁村特有の潮の香りが風に混じり、鼻をくすぐった。都はどちらかといえば川沿いの内陸で栄え、海に直結しているわけではない。海産物は商人を介して運ばれてくるものという認識が強いため、こうして海辺に立つと異世界に来たような感覚すら覚える。いっそ、このまま都の闇から逃れられたらどれほどいいだろう――そんな甘い考えが一瞬胸をかすめるが、すぐに打ち消す。ここへ来たのは真相を追うためだ。自分の中に渦巻く恐怖と不安、そして謎を解くために踏み出したのだと、千華はあらためて心を奮い立たせる。
その日の夕方頃には宿場町を通り抜け、目的の港町の入り口に到着した。この町は昔ながらの木造家屋が建ち並び、狭い路地が縦横に走っていて、ところどころに網や桶を干す漁師の姿がある。どこか素朴でのんびりした印象だが、同時に活気も感じられる。港周辺には大きな倉庫や市場があり、船の往来が盛んなのだろう。すでに日は傾きかけているが、海沿いの通りでは夜に開かれる飲食店の準備が始まり、漂う香りが旅人の空腹をそそるようだった。
とはいえ、千華の胸中には浮ついた気分は少しもない。ここで何を探り、誰に話を聞けばいいのか。鯨神の噂をどうやってつかめばいいのか。まずは宿を確保し、地元の人々が集まりやすい場所――居酒屋や茶屋あたりで情報を得るのがよさそうだ。千華は案内役の者に先に宿探しを任せ、自分は港の桟橋へ足を運んだ。潮騒と波の音が耳に心地よく、傾きかけた夕日を浴びた海面が金色に輝いている。だが、その美しさとは裏腹に、この海のどこかに鯨神と呼ばれる存在が潜むかもしれないと思うと、どこか底知れない恐怖も同時に感じる。まるで海の下から巨大な生き物がのぞいているかのような、得体の知れない気配だ。
桟橋には数人の漁師たちが船の整備をしていた。千華は思い切って声をかけ、ここの風習や伝承について尋ねてみる。最初は怪訝そうな顔をされたものの、「都から来たお嬢さんかい? 珍しいな」と、ある年配の漁師が少しずつ話をしてくれるようになった。その男によれば、この町には昔から“鯨神”にまつわる神社があったという。しかし半世紀ほど前に大嵐で社が崩壊し、それ以来ほとんどの信仰が途絶えてしまったそうだ。だが、いまだに沖合で巨大な影が目撃されることがあり、鯨神の怒りを買えば海が赤く染まるという昔話を信じる者も残っている。男は苦笑混じりにこう続ける。「鯨神だろうとなんだろうと、海が荒れりゃ漁ができねえ。昔は何かあるたびに神に生贄を捧げたって話もあるが、それは今じゃあ馬鹿げた伝説って扱いさ」。
千華はそこに食いつく。生贄の話、それは都の人身御供の伝承と符号する可能性が高い。「その昔話について、もう少し詳しく教えていただけませんか」と、わずかに身を乗り出した。漁師は少し考えてから、「そうだな、夜に時間があれば集落の古老に訊くといい。おれたち漁師はあまり詳しくないんだ。けど、浜の奥にある小さな村で、昔の言い伝えを守ってる婆さんがいるって話だ」と答える。千華は丁重に礼を述べ、明日あたりにその集落を訪ねる算段を立てようと決めた。鯨神の生贄の伝説が都の呪いと結びついているなら、どうしても聞いておきたい。
夜になり、町の一角で宿を取った千華は、護衛役とともに近くの居酒屋へ赴いた。地元の海鮮料理が並ぶ賑やかな店で、漁師や商人が杯を交わしている。ここでなら、さらに情報が得られるかもしれない。千華は一見すると若い娘でありながら、品のある服装と雰囲気が漂っているため、店の主も好意的に迎えてくれた。「旅の方ですかな? この町も昔は大いに栄えたんですが、今じゃ海の荒れが多くて苦労してますよ」と嘆く。どうやら最近、天候が急変して波が荒れる日が増え、漁獲が減っているらしい。地元の者たちは、かつての鯨神が怒っているのではないかと冗談まじりに言い合っているようだ。
その話を聞いていると、横合いから酒の勢いを借りた漁師と思しき男が声をかけてきた。「鯨神? ああ、昔は確かにそんなもんが祀られてたんだとよ。海が血の色に染まるって言い伝えは、このあたりじゃ有名だ。もし神を鎮められないなら、生贄を差し出すしかないとか、馬鹿げた伝説もあったとか。もっとも、今じゃ誰も信じちゃいないがな」。男はせせら笑いながら杯をあおる。千華は生贄という言葉に敏感に反応しながらも、表情には出さず、「では、実際に血の色に染まる海を見たことがある人はいるんですか」と聞いてみる。すると、男はぐっと杯を置き、酔いから冷めたような真剣な面持ちになった。「実は、今年の春先にも変な現象があったんだ。夜明け前、浜辺のあたりの海水が赤く濁っていたって話を聞いた。あとで漁に出た連中は波がやけに荒れとったと言ってたが、まぁ、それが本当に鯨神の仕業かどうかは知らんよ」。そうつぶやいた男は、どこか言葉を濁しつつ、再び杯を口へ運ぶ。
それは他愛のない酔いどれ話かもしれないが、千華には無視できない情報だった。春先に赤い海――まるで都で見た血塗れの池を連想させるようでもある。ひょっとしてこの土地でも、何か呪いめいた出来事が起こっているのではないか。その夜は、それ以上の詳しい話は聞けなかったが、千華の脳裏には海の怪異と都の封印、人柱の噂が否応なく結びついていく。
翌朝早く、千華は日の出を迎える前に宿を出た。海辺の空気は肌寒く、まだ薄暗い浜辺に足を運ぶと、潮の引いた磯が露わになっており、波打ち際には海藻や貝殻が打ち上げられている。視界には漁に出る小舟がちらほらと浮かび、夜明け前の静謐な雰囲気が漂っていた。昨夜、赤い海の噂を聞いたことが頭を離れず、実際にこの目でどんな海か見てみたいと思ったのだ。護衛役が少し離れた場所で警戒しているのを横目に、千華はゆっくりと海岸線に沿って歩き始める。暗い海の向こうで太陽が昇る兆しはまだなく、空は濃紺から紫色へ、微かに変化を見せる程度だ。
そのとき、不意に足元の波打ち際でごぼりと泡立つ音がした。ざわりと恐怖が走り、思わず身をすくめる。まるで巨大な影がすぐそばに潜んでいるかのような錯覚だ。しばらくじっと見つめていると、またごぼりと泡が立ち、海面にうっすらと黒い塊がせり出してきたように感じられる。まさか海獣か、それとも大きな魚か。暗い上に波も押し寄せてくるので、はっきりとした形はわからない。それでも、その塊は徐々に近づき、やや盛り上がるようにして海面から姿を現す。まるで巨大な背びれがゆっくりと弧を描き、また沈むような動き。息を呑む千華の耳に、かすかな響きが届いた。
「血に連なるものよ……」
それは耳で聞いたというより、脳裏に直接訴えかけるような低い囁きだった。瞬間、千華の心臓が跳ね上がる。今のは幻聴だろうか。声のようにも思えたが、周囲に人影はない。海面を見つめても、巨大な黒い塊らしきものはさっと波間に消えてしまい、跡形もない。ただ、先ほどまで感じなかった冷たい風が、頬をかすめていく。体が震え、ひどく重苦しい感覚に襲われるのはなぜだろう。もし今の囁きが“鯨神”という存在によるものだとしたら、何を訴えかけているのか。血に連なるものよ――それは千華自身が持つ“血契”に言及しているのか。心当たりは多分にあるだけに、無視できないほどの衝撃を覚える。
慌てて護衛役を呼び、今見たものを説明するが、彼はまるで信じられないと言わんばかりの表情だ。「海の怪物を見たというのですか? この時間に大きな鯨が接岸するなど、まずありえません。もしかしたら波の加減で何かが浮かんだだけでしょう」と諭してくる。だが千華の胸はざわざわと落ち着かない。都で体験した不可思議な現象を思い出せば、海に同様の怪異が潜んでいてもおかしくないように思える。声にならない声で呼びかけられたことを否定できず、頭が混乱していた。
朝日が昇りきる頃、町は日常の活気を取り戻し、港には漁から戻った船が次々と入ってくる。千華はそれらの様子を眺めながら、今日こそ本格的に鯨神の伝承を掘り下げるべく行動を起こす決心を固めた。昨夜、漁師が言っていた「村の古老」を訪ね、過去の言い伝えを詳しく聞きたい。それから、できれば海辺に残されているという鯨神の廃神社の跡にも行ってみたい。運が良ければ、なにか手掛かりが見つかるかもしれない。
午前中、千華は地元の商人に紹介された案内人と合流し、港町から少し離れた漁村へ向かった。そこは港町の賑わいから外れた場所で、こぢんまりとした家々が並び、年配の住民が多く暮らしている。山と海の間に挟まれ、どこかひっそりとした空気が漂っていた。案内人によれば、この村にはかつて鯨神を祀る小さな祠があったが、半世紀前の大嵐で倒壊したという。そのとき、神職を務めていた一族はすっかり衰退し、残された数人が村で静かに暮らしているらしい。その家の当主は今や老女となり、ほとんど人前に出ることはないというが、運が良ければ会えるかもしれない。
村に入り、案内人が尋ねて回ると、目当ての老女が住む家はすぐに見つかった。古びた木造の平屋で、庭には貝殻や網が干してあり、周囲には雑草が生い茂っている。訪問の旨を声に出すと、中からか細い声が聞こえ、「入っておくれ」と言われる。千華が恐る恐る上がり込むと、奥の部屋に通され、そこには白髪で背中の曲がった老女が正座して待っていた。目はしっかりと千華を捉えており、その鋭さにやや圧倒される。「都からわざわざ来たんだって? 鯨神のことが知りたいのかい?」と老女は低い声で問いかける。その声には、長年多くの風景を見守ってきた人特有の重みがあった。
千華は深く礼をして、都で起きている不穏な出来事や、自分が抱いている疑念をできる範囲で打ち明けた。老女はうなずきながら黙って聞き、やがてぽつりぽつりと語りはじめる。曰く、この地の鯨神は元々、海の恵みをもたらす守り神として祀られていた。しかし時代が下るにつれ、鯨神への信仰が形骸化し、大嵐によって社が倒壊すると人々はそのまま信仰を捨てていった。それでも一部の者は鯨神が消えたわけではなく、いずれ再び姿を見せると信じている。なにしろ、鯨神が怒れば海が赤く染まり、漁村に大きな被害が及ぶという伝説が長く語り継がれてきたからだ。そして老女が最も強調したのは、鯨神を鎮めるために生贄を捧げる儀式が、確かに存在したということだった。
「昔はね、神が荒ぶったとき、若い娘を海に沈めたんだよ。そうすれば神が鎮まり、漁が豊かになるって信じられてた。都じゃあ、人身御供なんてものはおとぎ話かもしれないが、この辺りじゃ実際に行われていたかもしれないって、伝承があるんだよ。わしの祖母がまだ子どもの頃、海が赤く染まったことがあったそうでね。そこから数日後に若い娘が行方知れずになった、という話を聞いたもんだよ」
老女は悲しげな眼差しを床に落とし、記憶を手繰るように言葉を吐き出す。それが単なる噂や怪談ではなく、現実の歴史かもしれないと思うと、千華の背中には冷たい汗が伝う。都で言われる人身御供の伝説となんと似通っていることか。血に連なる儀式は内陸だけでなく、こうした海辺でも行われていたのだろうか。
さらに老女は、かつて都の支配者や豪商たちが漁村の利権を握っていたという話にも触れた。海産物の独占や交易路の確保のため、都は陰で漁村にさまざまな圧力をかけていた。そして漁に大きな影響を与える鯨神の存在は、そのまま都の権力に従属させるための道具にもなったという。都の重鎮が鯨神を“支配”するかのように語り、必要とあらば人身御供を行う。そのために血筋の娘が選ばれることもあったらしい。老女は乾いた笑いを漏らしながら、「都ってのは、怖いところだねぇ」と言う。その言葉に、千華は心が痛む。まるで自分が責められているかのようにも感じたからだ。自分は都の大商家の令嬢。祖先がこうした陰の行いに加担していたとしてもおかしくはない。
その後、老女に案内されて見に行ったのは、海辺の岩場にぽつんと残された鯨神の祠の基壇だった。波が荒れるたびに浸食され、いまや礎石のようなものが崩れかけている。そこにはかつて石碑が立っていて、鯨神を象った彫刻が祀られていたらしい。今ではほとんど原形を留めていないが、基壇の角の部分にかすかに鯨を模したような文様が刻まれている。千華は岩の隙間に手をかけて覗き込み、波が打ち寄せる音を聞いた。すると、不意に頭の中で昨夜の声が蘇る。「血に連なるものよ……」。鳥肌が立ち、思わず祠の残骸から体を離す。再びあの存在がこちらを伺っているのかと考えれば、心が落ち着かない。
老女は潮風に白髪を揺らしながら言葉を続ける。「都から来たあんたは、おそらく特別な血を背負ってるんだろうね。わしは詳しくは知らんが、海で行われた生贄もまた、その手の“選ばれた血筋”が捧げられることが多かったと聞く。鯨神は生贄を呑み込むとき、その血から力を得る。赤い海は、神が人の生き血を吸った証なんだよ」。その言葉を聞くや、千華は思わず息を詰める。もしそれが事実なら、都が桜狩りなどで行っている儀式と酷似している。血を捧げ、神を鎮める。それは形こそ違えど、人身御供という点では何ら変わりがない。都と海辺で、同じように血が使われる儀式が営々と続いてきたのだ。
こうして鯨神の伝承を確認した千華は、都の呪いが海へも波及しているというより、むしろ古くから広域で人身御供が行われ、それぞれの土地で“神”を名乗る存在に血が捧げられてきたのではないかと推測する。鯨神だけではなく、桜の儀式も、棺の怪異も、すべて同じ根にあるのかもしれない。海が赤く染まる光景は、千華が池で目撃した血の水面と重なる。生贄を捧げなければならない理由は、都を守るためか、それとも海を静めるためか。しかし本質はひとつ。血による封印と力の維持だ。そんな確信が胸を突き上げ、言いようのない寒気をもたらす。
夕刻、村を後にする頃には、老女の言葉がずっしりと胸にのしかかり、千華は深い溜め息をつく。護衛役もさすがにただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、無言で千華に寄り添ってくれている。もし鯨神が実在するなら、あの朝見かけた巨大な影は確かに何らかのメッセージを送っていたのかもしれない。血に連なるもの、それは千華自身を意味するのではないか。都の祭りや花嫁行列が絡み合い、桜の棺や海の生贄にまで繋がっていく光景を想像すると、いまにも胸が押しつぶされそうだった。
翌朝、千華は再び港の桟橋へ足を運んだ。昨夜は宿であれこれと考え込んで眠れず、ついに夜明け前の海辺へは行かなかった。もし鯨神が再び姿を現すなら、何かしら直接的な示唆を得たいと期待していたが、暗闇をひとり歩く勇気は持てなかったのだ。すでに朝日が昇って町は目覚め始め、漁の出入りで忙しそうな船影がちらちらと動いている。桟橋の先端に立つと、塩の香りが強く鼻をくすぐり、遠く水平線には雲がかかっていた。あの巨大な影はもう見えない。むしろ普通の漁港の朝という風情で、穏やかそのものに思える。
それでも、視線を落とした海面の奥には、何が潜んでいるか分からない。人々が気づかないだけで、深い海底には鯨神が静かに息づき、こちらを見つめているのかもしれない。血に連なるものを呼ぶ声は、いつまた耳元で囁かれるか知れない。千華は波に反射する陽光を見つめながら、決意を新たにする。海辺の伝承と都の呪いを結ぶ点が、少しずつ絞られてきた。都が闇に葬ったものは、桜や巫女だけではなく、鯨神のように別の形で人身御供を要求する神をも内包している。もしそのすべてが“血契”と呼ばれる大きな契約で繋がっているのだとしたら、時代を経てもなお、終わらない祭りを続けているのは誰なのか。
港の裏通りへ戻り、宿の前に立つと、一人の旅人風の男が千華を見つけて声をかけてきた。「あんた、都の者だな? もし海で奇妙なものを見たんだったら、それを都には言わんほうがいいぞ」と意味深な警告を残す。どうやら最近、都から何かしらの役人や商家の手先がやってきて、海の伝承を調べたり、信仰を表立って潰そうとしている節があるらしい。地元の漁師や老人たちは、その干渉に恐怖や反発を抱いているという。「下手に口を滑らせると、あんたも都に連れ戻されるかもしれない。都の権力は怖いからな」と言い残した男は、さっと横路地へ消えていった。
千華はその言葉に背筋を凍らせる。都の手がすでにここにも伸びているのか。桜狩りの行列をはじめ、都が保持している生贄の仕組みを外に知られまいとしている可能性がある。あるいは、鯨神の伝承を消し去ろうとしているのかもしれない。事実、海辺の村の社は大嵐のせいもあったが、その後、立て直しを許されなかったという話があり、都が裏から働きかけていたのなら合点がいく。何か重大な秘密が海の神話にも潜んでおり、都の権力者たちがそれを封じ込めようとしてきたのだとしたら、まさに自分が追い求めている血契の核心に触れかけているのかもしれない。
その日のうちに千華は宿を引き払い、再び山越えの道を辿って都へ戻る算段を立てた。ここで得た情報は大きい。そして、これ以上長居すると都の目が煩くなる危険もある。すでに知りすぎた自分に、都の闇がどんな形で迫るか分からない。桜の儀式や棺の異変があったばかりの時期に、遠く離れた海辺で人身御供の話を探っていたと知れたら、朔家の立場を危うくするかもしれない。気が重いが、帰らねば次の手を打てない。それに、海で体験したあの囁きがずっと耳にこびりついている。「血に連なるものよ……」。都に戻ったとき、これがいったい何を意味するのかが、より明確に浮かび上がるかもしれない。
夕刻、峠道の途中にある高台から、港町のほうを振り返る。遠くかすんだ海が夕日に染められ、まるで燃えるように赤い。思わず息を呑む。ここから見える赤はただの夕焼けだろうが、千華の目にはまるで海が血の色を帯びているように思えてならない。あの巨大な影は今ごろ、暗い海底で静かに眠り、あるいは再び浮上して人を呼ぶのかもしれない。かつて生贄を呑み込んだ鯨神の伝承が、いつまでもこの海辺に潜んでいるとすれば、都の呪いと地続きであることは避けがたい。古老が言ったように、都の権力がここでも生贄のシステムを利用してきたのなら、血契の輪はさらに広大だ。
都に戻り次第、桜狩りの行列だけでなく、他の地域で囁かれる人柱の伝承についても深く探ってみなければ。漁村の老女は言っていた。「都は、人の血を隅々まで搾取する」。それが比喩なのか事実なのか、もう定かではない。けれど少なくとも、鯨神と呼ばれる海の神は血に飢え、それが都の権力者の思惑と重なり、今に至るまで闇の底でささやき続けている。千華が背負う宿命は、その歯車のひとつに組み込まれているのかもしれない。もしそうならば、都を取り巻く一連の呪いを解くには、海も山もすべて含めた広範囲の因果を断ち切らなければならないのではないか。
夜、峠道の山小屋で仮の宿を取った千華は、外の星空を眺めながら思いを巡らせる。鯨神を探してわかったことは、古い時代から人々の血が海に流され、それが神として崇められながら同時に恐れられ、ひそやかに人を生贄にしてきたという現実だ。そして、都はそれを利用して富を得ていたかもしれない。そっくりそのまま桜狩りの儀式に通じる構造だ――花嫁が狩るのは桜だけではなく、実は死者や血を狩っていた。棺の内側で叩いていたものは、鯨神のような“別の神”の分身なのではないか。そんな突飛な推測すら頭を離れない。すべてを繋ぐ鍵は「血契」という言葉に違いない。
翌朝、都へ向けた道程を再開しながら、千華は密かに決意した。都に戻ったら、さらに踏み込んで王宮や古文書を調べ、いかなる形でも真実を突き止めようと。もはや花嫁行列や桜の棺だけで済む話ではない。海へ出れば鯨神が人を飲み込み、陸であれば巫女や桜花嫁が死を背負う。その大本にあるのは、都が長らく隠してきた血の儀式だ。ならば朔家の血を引く自分にこそ、この絡み合った糸を解く責任があるのかもしれない。そして、あの囁き――「血に連なるものよ……」。鯨神が千華を呼んだのだとすれば、次に都で起きるであろう出来事は、これまで以上に大きな影を落とすはずだ。
帰路の最中、山道の朝靄の奥に、ふと幻のように大きな背びれを思わせるシルエットを見た気がした。もちろん山には鯨などいるはずがない。ただの木立の影だと自分に言い聞かせる。けれど、それはまるで暗い深海を泳ぐ巨大生物の背中にも見えて、じっと千華を見下ろしているような錯覚を起こさせた。海と都、どちらにも神を名乗る何かが潜んでいるのなら、その正体は一体何なのか。血を求める理由は何なのか。疑問は尽きず、道はまだ続く。鯨神の伝承が解けたわけではなく、むしろこれからが本番だ。もう後戻りはできない。都の闇を焙り出すためには、この体の中に流れる血が宿命を知り、それを乗り越えなければならないのだろう。
そうして三日かけて帰還した都の風景は、相変わらず華やかな喧騒を保っていた。しかし、千華の目には、どこか薄汚れた帳のようなものが被さって見える。煌びやかな灯火や飾りも、その裏側にある暗部を覆い隠すための偽りの光だと感じるようになったからだ。もし、海と陸の両面で血を捧げる儀式が今も続き、都の繁栄を支えているのだとしたら、多くの人がそれを知らないまま日々を暮らしている。いや、知っていて目を逸らす者もいるのかもしれない。鯨神の影は遠い海の出来事に留まらず、すぐにでも都を飲み込むことができる。そういう前兆が、千華にははっきりと見えるような気がするのだ。
都の門を潜る頃合いには、すでに日が傾きかけ、巨大な夕焼けが街並みを染めていた。人々の往来が忙しなく、屋台や行商が通りを賑やかに横切っている。千華の足取りは重い。鯨神の伝承を胸に抱えたまま、この都の内部に巣食う血の契約を突き止めねばならない。避けては通れない運命を感じながら、朔家の屋敷へと戻ってきたとき、使用人が慌てた様子で出迎えてくる。「お嬢様、大変です……都のあちこちでまた行方不明者が出ているとの報せが……しかも、小さな神殿が荒らされる事件も続いているそうです。これが噂になっておりますが、王宮は沈黙を守ったままで……」。その一言だけで、すべての不安が一挙に顕在化するような錯覚を覚える。海での伝承を聞いたばかりの自分に、今の都の混乱はより切実に感じられた。表向きの祭りの喧騒の裏で、何かが着々と進行しているのだろう。
部屋に荷物を置くや否や、千華は重苦しい胸の内を抱えたまま鏡を覗く。旅の疲れが顔に出ているせいか、やつれた自分がそこに映っていた。あの池で巫女の面を見たとき、桜狩りの花嫁行列に遭遇したとき、そして海で鯨神の囁きを聞いたとき――すべてが繋がって一つの流れを形作っているに違いない。赤い海、血に染まる水面、生贄として捧げられる命。もし、都がそれを裏で統合し、コントロールしようとしているのなら、それはとんでもない闇の仕組みだ。けれど、朔家の娘である自分こそ、その根源に迫れる立場にあるかもしれない。あの声は逃がさない。血の契りを持つならば、必ずやこの手で真相に触れなくてはいけない。
外では街の灯がともり、宵祭の笛太鼓が聞こえる。普段なら華やかに感じる音色が、今ではただ不気味な空虚さを響かせるだけだ。千華は思わず胸を押さえ、ゆっくりと呼吸を整える。鯨神の影は遠くない。海はここから見えなくとも、その底に潜む赤い呪いは都と地続きなのだ。王宮がどう関わっているかは不明だが、何もないはずがない。沈黙の奥には大きな謀略がある――そう直感する。桜狩りや棺の怪異を見た者たちもまた、同様の直感に苛まれているだろう。だが、決して声を上げられない空気が都を覆っている。
夜空を仰げば星がまばらに輝き、風はひんやりとして肌に心地よいはずなのに、千華の心は重く沈む。港町で聞いた赤い海の話は、これから都に起こるであろう惨事を暗示しているのかもしれない。あるいは、すでに都のどこかで動き出しているのかもしれない。鯨神がここに現れることはないだろうが、その力を利用する者たちが水面下で糸を引いている可能性は否定できない。何しろ、この都は血の契約で成り立っているのだから。あらためて、あの囁きを思い出す。海の底から、自分の体の奥深くまで響いたような声――「血に連なるものよ……」。その正体を知らずには、次の一歩を踏み出せそうにない。
こうして千華は鯨神の影を胸に秘めながら、再び都の表舞台へと身を投じることになる。血を求める神は海だけではなく、陸にも潜む。それらを結びつける要が“人身御供”と“血契”だとすれば、都を飲み込むような災厄は時間の問題かもしれない。いまはまだ夜明け前の静寂にすぎない。やがて太陽が昇るとき、赤い水面が都を覆う光景を目にすることになるのか、それとも――。千華は祈るように目を閉じ、こみ上げる不安とともに床に就いた。夜明け前の鯨神。その影はなおも重苦しく、次に姿を現すときにこそ、より鮮明な真実を突きつけるに違いなかった。
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