血契の巫女と泡沫の都

まとめなな

第1章 血塗られた祭典の幕開け

 星々の輝きがまだ淡く、都の夜空をほのかに照らしている頃、朔家の広い屋敷に続く石畳は早くも人の往来で慌ただしさを増していた。明朝からはじまる盛大な祭りを控え、諸国の使者や地元の名士、さらに商売繁盛を願う各地の商人たちが、この都へ集結しているのだ。屋敷の正門には護衛兵が立ち並び、通行許可証を携えた人々を厳しくチェックしている。高位の貴族や長老を乗せた車馬が行き交い、にわかに喧噪が増してきた。朔家の周囲だけでもその活気はひしひしと感じられ、まるで都全体が華やかな闇を纏っているようだった。


 朔家に生まれた千華は、その片隅で忙しなく指示を飛ばす女中たちの姿を少し離れた場所から眺めていた。自分も明日早朝から、客人の出迎えや案内を手伝わなければならない。しかし今日は一息つける時間を確保できたため、あえて屋敷の裏手に回り、人目を避けているのだ。煌びやかな祝宴の準備に浮き立つ使用人たちからは、どこか距離を置いて眺めていたい——そう思う気分だった。


 都には長く続く伝統行事がある。年に一度、五穀豊穣を願う大祭を催し、そのときは四方の街道から旅人が押し寄せ、都の通りという通りが露店や芸人たちで溢れる。土地のものにとっては一大娯楽であり、遠方からやってくる者にとっては商機でもある。朔家は大商家として、祭りのスポンサー的役割を古くから担ってきた。今夜はその前夜祭にあたる日。人々は祭りの始まりを今か今かと待ちわび、街の路地や広場では賑やかな音曲が鳴り響いている。


 華やかさの裏で、しかしながらどこか陰鬱な噂も絶えない。都は豪奢なきらめきを持つ一方で、古くから“人身御供の伝承”や“巫女の怨霊”といった禍々しい話が囁かれてきた。千華自身、幼い頃から断片的に耳にしてきたが、本当のところはよく知らない。人身御供などという言葉は恐ろしげで、まるで遠い昔の絵空事のようでもある。けれども近年になっても「夜道で白い衣をまとった女が消えた」とか「祟りめいた事件が起きた」という噂が絶えず、祭りが近づく時期には必ず誰かがそんな話を持ち出す。それらを本気で怖がる人がいる一方、「どうせ暇な連中が騒いでいるだけだ」と一蹴する者も少なくなかった。


 千華は祭りそのものが嫌いではない。むしろ、活気ある都の雰囲気を見ると胸が高鳴る。しかし、祭りを取り仕切る朔家の令嬢という肩書が、彼女を窮屈にしている面は否めない。取り繕う笑顔の奥で、なぜか胸にうっすらとした不安が渦巻いている。いったい何が心をざわつかせるのか、自分でもはっきりと言葉にできない。ただ、祖母が語っていた「お前の血は特別だよ」という言葉が妙に引っかかるのだ。祖母は、千華の母が幼い頃に亡くなって以来、彼女にとって母親代わりだった存在。数年前に他界するまで、千華の手を握りながら意味深な言葉を囁き続けた。「いつか、お前は“巫女の業”を背負うことになるかもしれない」。当時は何を言っているのか全く分からなかったが、その声は今も耳に残っている。


 庭を囲む塀に寄りかかりながら、千華は柔らかな夜風を感じ、くぐもった溜め息をついた。前夜祭のどんちゃん騒ぎが遠くから微かに聞こえる。裾を緩めに結んだ薄衣が、そよいだ風でさざ波のように揺れている。彼女の背後には、屋敷裏手の静かな池が広がっていた。小さめの池だが、植え込みや石灯籠の配置が巧みで、昼間は絶景となる。ところが夜になるとほとんど人が寄り付かないせいか、なんとなく薄暗く、不安を誘う雰囲気でもあった。月明かりが水面を照らしてはいるが、視界の端で何かがうごめいているような錯覚を時々起こす場所でもある。


 千華はその池をふと見つめた。水面は静かで、風に揺られてかすかな波紋が広がるだけ。鯉などの魚が泳いでいるわけでもなく、水草の影は深夜の闇に溶け込み、輪郭を失いかけている。祭りのざわめきが遠くなり、一人きりになったような錯覚を覚える。胸の奥で説明のつかない不安が急に膨れ上がり、彼女は池のそばまで足を進めた。なぜか、呼ばれている気がした。まるで水底から誰かが手招きしているような……そんな奇妙な予感だ。


 小石を踏む音と、草葉がこすれる音が妙に大きく感じられる。灯篭の形が池に映り込むシルエットが、妖怪のようにも見える。絶えず広場からは笛や太鼓の音が聞こえるはずなのに、ここまで来ると一切が遠のいてしまう。千華は冷んやりとした空気を吸い込み、そっと息を吐いた。この池の近くは昔から苦手だった。幼かった頃、夜半に目が覚めて、気まぐれにここへ散歩に来た際、池のほとりで人が立っているのを見たのだ。暗がりの中に白い着物を纏った女性が佇み、千華を振り返っていた。その顔がはっきりと見えず、おまけに声も出せないほどの恐怖を感じた記憶がある。両親や祖母は「それは夢だったのだろう」と言っていたが、どうしても夢と思えないリアルさが脳裏にこびりついている。


 立ち尽くす千華の視界に、やがて不可思議な変化が訪れる。どこからともなく漂ってきた小さな光の粒が、水面に吸い込まれるように消えていくのだ。最初はただの蛍かと思ったが、蛍のようにふわふわと漂うというより、明確な意志を持って池へと落ちていく印象を受ける。肩が震える。まるで人魂めいた光が池に集まっているようでもあり、背筋を冷たいものが走るのを感じた。


 次の瞬間、池の中心あたりで水面がさざ波立った。反射的に一歩身を引いた千華は、心臓の鼓動がやけに大きく響くのを感じる。さらさらとした水音が不気味なほど大きく聞こえ、まるで人の息遣いのようだ。違和感とともに千華が目を凝らすと、だんだん水面が赤く色づいていくではないか。濁った朱色がじわじわと広がり、夜の暗さを吸い込みながら、妖しい赤へと染まっていく。火照りを感じるような、その赤の濃密さに、千華は思わず後ずさった。


 心の中に警鐘が鳴り響く。あり得ない光景だ。池がどす黒い血で満たされているのか、あるいは空に浮かぶ月が赤く染まっているのか。何が起きているのか分からない。理屈を超えた現象に直面し、恐怖と好奇心がないまぜになりながらも目を逸らすことができない。逃げ出すのが正しい選択なのかもしれないが、なぜか足が動かなかった。


 赤い水の波紋が静まっていく。その渦の真ん中から、ゆっくりと何かが立ち上がるようにして姿を現した。薄暗い夜の景色の中でもはっきり分かるそれは、人の形をしている。しかし肌が透き通るほど白く、頭部に血塗られた巫女の面をつけていることが見て取れた。面の額には赤い模様が描かれ、鼻から下の部分は赤黒い液体が滴っている。服なのか布なのか、身体を覆っているものは白とも赤とも区別がつきにくく、ただ妖しい色合いに染まっていた。千華の喉がひとりでに引きつり、声にならない叫びがこみ上げてくる。全身が強張り、自分の心臓の音だけが耳の奥でやかましい。


 目の前の存在は人なのか、怨霊なのか。思考が追いつかない。巫女の面の周囲を淡い光が揺らめき、少女にも似た背丈に見える。一歩、また一歩、水面を踏みしめるようにして近づいてくる。その度に波紋が広がり、赤い液体が揺らめく。顔の一部を隠す面の奥で、じっと千華を見つめる視線のようなものを感じる。逃げなければ、と思っても足は動かない。声を出そうとしても、喉はひゅうひゅうと空気を震わせるだけで、言葉にならない。生きている人間に感じる体温や気配とは違い、どこか冷たい死の気配がまとわりついているようだった。


 少女のような姿が水際まで来ると、その巫女の面を少しだけ傾ける。月光が反射して面にかかり、血にまみれたような赤い痕の輪郭がよりはっきりと浮き上がった。千華の瞳にそれが映り込んだ瞬間、頭の中に奇妙なささやきが響いた。


 「汝、血を契りし巫女の末裔なり——」


 それは言葉として聞こえたというより、直接脳裏に焼き付けられたような衝撃だった。千華は思わず息を呑む。理解できない単語が頭を支配する。“血を契りし巫女”“末裔”……。呪文のようなその響きに、心がざわめく。はたしてこの存在は千華を呼んでいるのか。それとも、彼女の存在を試すかのように囁いているのか。


 その声が響いた次の瞬間、巫女の面をかぶった少女のシルエットが微かに揺れ、ふっと姿をかき消した。視界から唐突に、まるで煙が風に流されるかのように掻き消えてしまったのだ。その余韻を残すように、池に漂っていた赤い水面も急速に色を失いはじめる。ほんの数秒で、何事もなかったかのように澄んだ黒い夜の水に戻っていく。その間、千華は動くことも瞬きをすることもできず、ただその異様な光景を見つめるだけだった。


 やがて静寂が訪れる。視界の奥には、元通りになったはずの池がある。だが、さっきまで目の前に確かにいた巫女の面の少女を千華は忘れられない。冷たい汗が背中を伝い、手の震えが止まらない。恐怖と混乱が限界に達しそうな胸の高鳴りを抑えようと深呼吸を試みるが、呼吸が乱れ、うまくいかない。まるで悪夢を見ていたのだろうか。けれど、汗にまみれた手を握りしめると、その感触は現実そのものでしかない。


 ふと我に返り、辺りを見回す。誰もいない。夜風が揺らす庭木の音だけが、ざわざわと耳をかすめる。あまりの出来事に千華はその場でうずくまった。体が鉛のように重い。無理もない。血塗られた巫女の面などという、常識を超えた存在が視界の中で消えていったのだ。気が触れそうなほどの不可解さを抱えながらも、かろうじて意識ははっきりしている。夢ではない、と脳が必死に訴えている。冷たい石畳に手をつき、なんとか立ち上がろうとするが、両膝が震えてままならない。とにかく屋敷に戻らなければ、と心だけが焦る。


 結局、数分ものあいだその場で立ち尽くした末に、千華は意を決して屋敷の方へと足を運んだ。けれど、その足取りはどこかぎこちない。いまの出来事を家の者に話すべきかどうか、頭の中で葛藤が渦を巻く。話したところで信じてもらえるだろうか。自分ですら半信半疑で、混乱しているのに。もし父や兄に告げたら、「祭りの緊張で気が立っているのだろう」とか「夜の池で何かを見間違えたんだ」と一蹴されるに違いない。それともこんな不気味な話、むしろ家族に話してはいけない気がする。そんな迷いが千華の口を塞ぎ、結局何も言わぬまま明け方を迎えることになる。


 夜が明けきらぬうちから、都では早くも慌ただしさが広がりつつあった。市場へ向かう仕入れの馬車の車輪のきしむ音や、若い衆が祭りに備えて掛け合う威勢のいい掛け声が、細い路地まで響いてくる。千華も半ば眠れないまま朝を迎え、重い頭を抱えながら支度を済ませた。床に就いたのは明け方近くで、ほんのわずかだけ意識を落とした感覚があるが、どれくらい眠れたのか分からない。とりあえず朝餉を口に運ぶが、食欲はほとんどない。使用人たちは千華の顔色が悪いことに気づき心配するが、彼女はさりげなく「少し疲れているだけ」と笑顔を作ってごまかした。


 それでも外へ出ると、祭りの喧騒が少しばかり憂いを吹き飛ばす。大通りには露店がずらりと並び、色とりどりの飾りが風に揺られている。加えて笛や太鼓の音が賑やかに響き、周囲の人々は笑顔に満ちていた。普段は寂れた一角ですら、この時期ばかりはどこもかしこも人で溢れている。夜の恐怖を振り払うように、千華は朔家の客人たちを迎えるため、一際立派な門の前で出迎えの役を担う。朝から次々と馬車や輿が来るため、息をつく暇もない。ちょうどよい忙しさだ。考えないようにしていることも、こうして体を動かしていれば紛れる。頭の隅に巫女の面の幻想を追いやり、笑顔を浮かべ、丁寧に頭を下げ、案内をする。それを繰り返すうちに昼を過ぎていった。


 昼下がりになると、ぼんやりと噂話が耳に入ってくる。都のどこかで、人が行方不明になったらしい。それも二人や三人ではなく、今朝からもう数件の報告が相次いでいるというのだ。祭りの日にある程度の混乱は付きものだとしても、少し多すぎる。しかも、行方不明者はまったく関連性のない老若男女。中には朝早く市場に出たきり帰らないという商人もいた。千華は事情を知る近所の男に話を聞いたが、深くは分からずじまい。夜のうちにどこかへ逃げたのだろう、などと憶測する声もある。しかし一部の者は「人身御供を再開するなんていう不穏な噂を聞いた」と語っており、変な憶測ばかりが先行していた。


 さらに、別の番所からは「小さな神殿が荒らされる被害が相次いでいる」という知らせも入った。誰が何の目的でそんなことをしているのか分からない。偶像が壊され、供物が荒らされ、巫女の遺品のようなものが持ち去られる事件が連日発生しているという。あまり気味のいい話ではない。祭りの最中に発生する事件としては異様な雰囲気が漂う。人々の間では、明るい顔をする者と、不安そうな顔をする者が混在している。広場では笑い声が響き、一方で路地裏では怯えた声が交錯する。そんな落ち着かぬ空気が、都のあちこちに流れ始めていた。


 日没が近づき、夕焼けが都の屋根を赤く染める頃、千華はようやく一段落つき、屋敷へ戻る時間を得た。しかし、その足取りはどこか重かった。夜がまたやってくるのだ。あの池を見に行く気にはなれないし、巫女の面の少女が再び現れるかもと思うと恐怖がこみあげる。あれは何だったのか。夢ではないと確信しているが、確かな理由をつけて説明できるものでもない。まるで誰かが「思い出せ」と迫っているような、何か古い因縁に呼び寄せられたような感覚がある。自室に入り、着替えを済ませても手の震えは収まらない。胸騒ぎが絶えず鼓動を速めてくる。こんなとき祖母がいてくれたら……と、幼い気持ちが首をもたげるが、今となっては叶わぬ願いだ。


 夜の帳が下り、都はますます賑わいを増す。宵祭りが始まり、提灯が灯され、踊りの輪がいくつもできているという。屋敷の廊下を歩くと、遠くから笛や太鼓の音が聞こえてくる。華やかさと混沌が入り混じる、まさに祭りの夜。千華は少しでも心を落ち着けようと、薄羽織を身にまとって屋敷の縁側に座り込み、涼やかな風にあたった。月はまだ雲に隠れていて、庭は暗い。あの池の方向を見るのが恐ろしかったが、意識して視線を外すようにしていた。少し離れた場所で、女中が千華に声をかける。「ご気分はいかがですか? あまり顔色がよくないようですが……」。千華は微笑みを返し、「大丈夫」とだけ答える。だが、本当の意味で大丈夫だと言い切れる自信はまったくなかった。


 やがて、庭のほうから地鳴りのような低い音が聞こえてきた。なんだろう、と耳を澄ます。風に乗ってわずかに震えるような、いびつな響き。鼓や太鼓の音にしては妙に生々しい。そっと縁側から立ち上がり、庭を見回すが、それらしき気配はない。あの池のほうなのか、それとも石畳を隔てた向こうなのか。もしかして、また現れるのか——そう思うと、心臓が嫌な鼓動を刻み始める。何もいないことを願いながら、そっと一歩ずつ足を進めてみる。足音を立てぬように気をつけて歩くと、夜の闇がやけに濃く感じられた。


 結局、その低い音の正体をつかめないまま、千華は再び池の手前まで来てしまった。薄暗がりの中、池は深い影を湛え、まるで底なしの闇が広がっているかのように見える。絶対に近寄りたくないと恐れながら、千華は視線を落とした。思わず目を背けようとするが、足は動かない。あまりの緊張で全身が硬直してしまったのだ。目の前には、昼間と変わらぬ風景に見える池。けれど、もしまた赤い水面に染まるのだとしたら……。想像するだけでぞっとする。あの巫女の面が浮かび上がるのではないかと、頭の中で嫌な映像が勝手に再生される。


 しかし、そのときは何も起こらなかった。ただ、池のほとりに古びた小さな祠があることに目が留まる。今まであまり意識していなかったが、灯篭の隣に小さな木製の社がある。柵に囲われ、誰も手入れをしていないのか苔むして暗い色合いになっている。幼い頃はそこに賽銭を入れると小さな鈴が鳴る、と祖母が教えてくれた気がする。気づけば、その祠の扉が半開きになっていた。もしや誰かが手をかけた形跡だろうか。なんとなく嫌な予感がし、千華はそっと近づいてみる。祠の中を覗き込むと、奥に奉納されていたらしき小さな人形が倒れている。それは白衣の巫女をかたどった人形で、幾重にも赤い糸が巻かれていたはずが、いまや糸が切れてバラバラになっていた。


 人形を手に取ろうと伸ばしかけた指を、千華は急いで引っ込めた。あまりにも不穏な空気が漂っている。まるで誰かが故意に荒らしたような状況だ。辺りに誰の姿もないが、暗がりには何かが潜んでいるような、ひどく冷たい空気が流れている。こんな小さな祠、今まで気に留めたことはなかったが、もしかすると朔家の裏手に置かれた重要なものなのかもしれない。どこからか、「やめておけ」という声なき声が聞こえるようで、思わず千華は体を引いた。時折吹く夜風が、祠の扉をぎしりときしませる。嫌な音だった。捨てられた人形のように、そこにあるのは何かの象徴なのだろう。まるで白い服を着た巫女が、行方を見失い倒れているみたいに見え、言い知れぬ不安が増幅する。


 心臓が痛いほどに高鳴る。せっかく賑わいのある祭りを迎えているというのに、この屋敷の裏だけは別世界のように感じた。千華は人形には触れず、祠を元どおり扉で覆おうとした。そのとき、視線の端で池の水面に小さな波紋が生じるのが見えた。思わず身をすくめる。今度こそ何かが現れるかもしれない。けれど数秒ののち、その波紋は跡形もなく消えていった。黒く沈む水面は再び静寂に戻り、風が木立を撫でる音だけが響く。拍子抜けするほどあっさりと何事も起きないのが、むしろ不気味だ。さっきの巫女の面を思い出すと寒気がするのに、今日は影も形も見えなかった。


 その夜、千華は激しい悪夢にうなされた。赤い水に沈む家々と、身動きできずに水底に鎖で繋がれた自分。どこからともなく聞こえる哀しげな笛の音と、白い装束で踊る人々が彼女をぐるりと取り囲んでいる。巫女の面をつけた存在が、何やら呪詛のような言葉を繰り返し囁いてくる。声なき声。それは耳元で「生贄、血契、巫女……」と繰り返し、脳髄をかき乱す。視界がぐにゃりと歪み、何度も悲鳴を上げようとしても声にならない。まるで自分自身の存在がどこかへ連れ去られるような恐怖に苛まれ、必死に逃げようともがくが、鎖が脚に絡みつき逃れられない。たとえ目覚めても、その感触だけは手足にまとわりついて離れない。朝日が昇る頃になって、ようやく激しい動悸と汗で目を覚ましたとき、千華はぐったりと疲れ果てていた。


 夢の内容は断片的で、生々しいイメージしか残っていない。でも、あの呪わしき巫女の面は確実に登場していた気がする。そう思うと、胸が苦しくなる。一体なぜ自分がこんな目に遭うのか。いつもなら祭りの朝は気分が高揚しているはずなのに、今はまるで心が深い穴に落ち込んだようだった。見えないところで歯車が狂い始めている。そう感じるのは自分の被害妄想だろうか。違う——と千華の理性が訴える。何かがおかしい。昨日まで感じていた違和感が、いまや確信に変わろうとしていた。


 それでも祭りは進んでいく。否応なく都は華やぎ、太陽が昇ればにぎわいの音がそこかしこに満ちる。人が消えた、神殿が荒らされたという話は片隅でささやかれつつ、主役はあくまでも豊穣を祝う祝祭なのだ。日中、千華はつとめて明るく振る舞い、朔家を訪れる顧客や使者に丁寧に応対した。地位の高い者には深々と頭を下げ、下層の者にはそれなりに優しい言葉をかける。令嬢として習得した作法で、自分の役割をこなす。そうして周囲に心配をかけないように努めれば、皆「さすが朔家の娘だ」と感心してくれる。そういう生活に慣れてしまったからこそ、誰にも本音を言えない。昼の笑顔と夜の恐怖との間で心がすり減る。


 夕刻、再び宵祭の時間が訪れた。まだ残暑の名残があるが、日が落ちるとやや涼しさも感じられる。空には薄雲がかかり、月はぼんやりとした輪郭で顔を覗かせている。辺りは提灯や行灯の明かりが灯り、通りには踊りの輪ができ始める頃合いだ。千華は少しだけ屋敷を抜け出し、街の様子を見て回ることにした。もしかしたら、何か手がかりになるかもしれない——そう考えたからだ。昨夜の出来事はやはり忘れられず、心のどこかで「あれはただの幻だったのだろう」と思いたい気持ちもある。けれど不吉な失踪事件や神殿荒らしの噂に触れるたび、なにやら胸騒ぎが収まらない。巫女の面が関わっているのでは、と突拍子もない想像を巡らせてしまう。


 街中に足を踏み入れると、そこには祭りの浮かれたムードが充満していた。屋台が並び、焼き菓子や甘味、酒を振る舞う店が立ち並び、人々の笑い声が絶えない。艶やかな衣装を着た踊り子が道化とともに練り歩き、足を止めて見る客たちが拍手喝采を送っている。まるで昨日とは別の世界のような、明るい祝宴。それでも路地裏に入れば、薄暗い中に辟易とした顔をした老人が座り込んでいるのを見かける。祭りに参加する元気もなく、不安げに周囲を眺めているようだ。もしや、最近の事件が影を落としているのかもしれない。


 「人身御供が復活するという噂は、本当なんですかね……」

 ちらりと聞こえた会話に、千華は思わず足を止める。二人の若い男が、低い声で語り合っているようだった。一方は「ありえない」と嘲笑し、一方は「でも昨夜、神殿の奥から血のような跡が見つかったんだぞ」と言う。人身御供とは、都の昔話でしか聞いたことがない凄惨な儀式。巫女を生贄に捧げ、国の安寧を保つ行為だ——という程度にしか知らないが、実際にそんなことが行われていたとしたら正気ではいられない。千華の頭に、あの巫女の面がちらつく。あの血塗れの存在は、ひょっとして生贄に捧げられた巫女の怨霊なのか? おとぎ話のような発想に思えるが、あまりにタイミングが合致しすぎていて無視できない。


 まもなく、千華は人気の少ない細い路地に迷い込んだ。提灯の明かりもまばらで、一歩奥へ入ると真っ暗になる。その場所に何か引き寄せられるような感覚があった。歩を進めるうちに、ひどく古びた木造の建物が目に入る。軒先には朽ちかけた札が貼られているが、何が書かれているかは読めない。扉が少し開いているようで、そこからわずかな灯りが漏れていた。胸の奥で警戒心が蠢くが、なぜか足が止まらない。まるで「ここに何かがある」と訴える声がするかのようだった。


 意を決して扉の隙間に手をかけ、そっと開けてみた。中は想像以上に狭く、古めかしい雰囲気の部屋があるだけ。人の気配は……ほとんど感じない。ほこり臭さと、微かに漂う線香のような香りが鼻をつく。何かの祠か、それとも誰かがここで隠れて暮らしているのか。奥に進もうかどうか逡巡していると、不意に足元でごとりと音がした。驚いて視線を落とすと、そこには転がるように小さな木箱が置かれている。その木箱には、赤黒い染みが付着していた。まるで血痕のようにも見え、その瞬間に背筋が寒くなる。そこから顔を背けようとしたが、箱の蓋が半開きだったせいで、中身が見えてしまった。白い布切れが何重にも詰め込まれ、その上に何やら人形の欠片のようなものが散乱している。しかも、よく見ると布には黒い文字が記されていて……。内容は判読できないが、禍々しい呪詛の言葉のように思えてならない。


 恐怖を感じて引き返そうとしたところ、外から急に人の声が響いた。「そちらにいらっしゃるのは誰だ?」と鋭い声。千華は驚きながら振り返った。そこには役人のような服装をした二人の男が立っている。松明を掲げ、険しい表情でこちらを見ていた。「こんな場所で何をしている?」と問われても、千華は答えに窮する。「あ、ええと、ちょっと道に迷って……」と取り繕い、慌ててその場を後にした。役人らは中を覗き込み、何かを確認している様子だったが、千華にはこれ以上関わりたくなかった。足早に通りへ戻り、祭りの喧騒の中へと逃げ込んだ。


 胸がドキドキと高鳴り、喉が渇いて仕方ない。先ほどの木箱と、血を思わせる染み、奇妙な布に書かれた文字……それらの不穏なイメージが頭を支配する。こんな不可解なものが都のひっそりした路地に潜んでいるなんて。しかも、役人が巡回しているのは、よほど何かの捜査が行われているのだろうか。それは神殿荒らしの犯人を捜しているのか、あるいは行方不明者の手掛かりを求めているのか。いずれにせよ、都は明るく騒いでいる裏で、不気味な事件が続発しているに違いない。


 薄気味悪さに耐えきれず、千華は急いで屋敷へと戻った。幸い誰にも見られず、こっそりと自室に入り込む。軒先の明かりを頼りに鏡を覗き込むと、自分の顔色が一段と青ざめているのが分かった。唇は血の気を失い、頬はやせたようにこけて見える。わずか数日の間に、まるで別人になってしまったようだ。頭の中では次々と嫌な予感が連鎖し、息苦しさを覚える。行方不明者の増加、神殿の荒らし、赤く染まった池。そして血塗られた巫女の面。すべてが点と点で繋がっているような、そんな悪寒がする。にもかかわらず、どうやって繋がっているのかを掴めないもどかしさもある。


 夜はまだ終わらない。外では相変わらず宵祭の最高潮が訪れているらしく、太鼓のリズムが屋敷の壁を通じてぼんやりと伝わってくる。歓声と喧噪で、遠くの空気が熱気を帯びているようだ。けれど、千華の心はそれに追随できない。何かが迫ってきている——そんな焦燥感に囚われている。祖母の言葉が蘇る。「いつか、お前は巫女の業を背負うかもしれない」。あれは単なる迷信や昔話ではなかったのかもしれない。血を契りし巫女——あの少女はそう呼んでいた。自分がその末裔だというのなら、これから何が起こるのだろう。


 部屋の障子を閉め、明かりを落とし、千華は布団へ入ろうとしたが、眠れるはずもない。頭の中は疑問と不安で一杯だった。宵祭の騒ぎがいつ終わるかも分からないし、寝付けたとしてもまたあの悪夢を見るかもしれない。数日前までは何の問題もなく暮らしていたのに、どうしてこんなに急に世界が変わってしまったのか。実際には世界が変わったわけではなく、千華の見る視界が変貌を遂げたのだろう。母親を亡くして以来、祖母にだけは「変わり者」と言われていた自分。血筋がどうのと言われた記憶もある。知らず知らずのうちに、何か特別な宿命を背負わされていたのかもしれない。


 その夜、結局千華は眠りにつくことができなかった。午前の鐘の音が遠くで鳴り、ようやくまどろみ始めた頃に、使用人が慌てた様子で部屋の外から声をかける。「失礼します、緊急のご用件です! 人が……また行方不明になったと……しかも朔家の関係者だと……」。ドキリと胸が揺れる。屋敷内から誰かが消えたのだろうか。あるいは親戚筋か、取引先の者なのか。急いで戸を開けると、使用人の顔には明らかな恐怖の色が浮かんでいる。「どうも深夜のうちに出かけたようなのですが、戻らなくて……まだ情報が錯綜しています。とにかくお客様たちも騒ぎ始めていて、大変です」。その言葉を聞いたとき、千華はたまらない嫌な予感に襲われた。もしや、見えない力が都のどこかで人々を引き寄せているのではないか。どこへ連れていくのか……考えるだけでも震えが止まらない。


 朝焼けが屋敷の庭をかすかに染め始めた。世の中は祭りの二日目へと突入する。だが、浮かれた空気の裏で、この都に漂うただならぬ気配は一層濃くなっていくかのようだった。千華の脳裏には血に染まる池がちらつき、巫女の面がゆらりと揺れる。あの謎の声が告げた「汝、血を契りし巫女の末裔なり」という言葉。いまだ意味は分からないが、そこに重大な秘密が隠されているとしか思えなかった。いつか、すべてが繋がる時が来るのだろうか——そう思いながら、千華は荒れ狂うような不安を押し殺し、再び着替えを済ませる。今日もまた、祭りの来訪客を迎える役目がある。だが頭の片隅には、行方不明になった人物たちのことと、姿を消した巫女の面が深く焼き付いて離れない。


 都の太鼓が高らかに響き、待ちわびた大衆の歓喜が朝の空気を満たしていく。しかし、その祝福の音色がなぜか不気味な呼び声にも聞こえる。千華は朔家の令嬢として笑顔を装いつつ、胸の奥でその不吉な響きに耳を澄ませるしかなかった。もう、あの光景を見なかったことにはできない。自分の血筋が何を意味しているのか、そしてこの都にまつわる伝承がどれほど恐ろしいものなのか。これから先、嫌でも突き止める必要がある——そう感じていた。外では朝日を浴びた人々が華やかな衣装に身を包み、祭りの歓声を上げている。だが、彼女の心は沈み続ける赤い水底に縛られたまま、差し込む光を見失いかけていた。何かが始まろうとしている。いや、すでに始まっているのだ。血に染まる祭典の幕が、音もなく上がろうとしている。

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