29. エリシェの異変 (2)
通された応接室の窓からは、整然としたエリシェの町並みが見えた。一見すると何の変哲もない穏やかな光景だが、そこに人の姿はない。
その理由を確かめるため、アユハとリシアは机を挟んでエリシェ支部の支部長と向かい合っていた。
「お時間をいただきありがとうございます。
丁寧な挨拶に、アユハとリシアもつられるように頭を下げる。半分ほど開いた窓から吹き込む風が、マルセルの白髪を優しく揺らした。
「アユハ様の日々のご活躍、かねがね耳にしておりました。こうしてお目にかかれたこと、大変嬉しく思います。そして……失礼ですが、そちらの方は……」
「リシア・ナイトレイです。アルヴァレスでの出来事を受けて、一連の調査に同行してます」
「そうでしたか……では、早速本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか」
部屋の扉を控えめに叩く音がした。会話を一旦切り上げ、訪れた連盟員を迎え入れる。連盟員は丁寧にお辞儀をすると、慎重な手つきで三つのカップを運んできた。机の上に次々とカップが並び、立ち上る湯気とともに、ふわりと甘い香りが室内に広がる。
連盟員が退出すると、マルセルはすぐに口を開いた。
「お二人は……“ユノリア族のケモノ”を見たことがありますか」
「ユノリア族のケモノ……? 俺は……ありませんね」
アユハの視線が記憶をたどるように宙を彷徨う。リシアもその隣で首を振った。
「実は、ここ数日――アルヴァレスの事件から少し経った後くらいですか。魔術を使うケモノの目撃情報がエリシェ周辺で相次いでいるのです」
「……珍しいですね。魔術回廊を持つ人間――特にユノリア族は黒喰病にかかりにくいと聞きますが……」
ユノリア族――かつてヴィシュヴェルデ帝国と争い、終末対戦の火種を生んだ強大な魔術師の一族。長い戦火の末、ユノリア王国は敗北し、領地ごと帝国に吸収された。その歴史はすでに遠い過去のものだ。
彼らは魔術によって世界を混沌に包み、黒喰病を生み出した元凶とされた。現代を生きる数少ないユノリア族は“悪魔の末裔”と呼ばれ、世界中から忌避される存在となっている――魔術師狩りの発端となった一族だ。
「よくケモノの正体がユノリア族だと分かりましたね。ケモノに何か特徴が?」
アユハは問いながら、ユノリア族の特徴を思い浮かべる。雪のような白銀の髪。炎のように様々な赤に揺らめく瞳。型の定まらない魔術回廊がもたらす、属性に縛られない魔術への適性――彼らの“血”は、容姿や技で判断しやすい。
しかし、アユハの思考を否定するかのように、マルセルは首を横に振る。その顔には困惑とも恐怖ともつかない、曖昧で険しい表情が浮かんでいた。
「それが……よく分からないのです」
「分からない?」
「“黒い影に赤い瞳”、“白髪で痩躯の魔術使い”、“人間離れした俊敏さで動く老人”、“炎と水を操る巨大な怪物”――など。目撃者によって証言がバラバラで……」
「どういうこと……?」
リシアはわけが分からない、といった様子で顔をしかめる。目撃者の話があまりにも食い違っていた。
「つまり……“ユノリア族のケモノがいるかもしれない”、というのが正しい?」
「調査を進めてはいるのですが……現在の国内の状況では、どうしてもエリシェと周辺地域の防衛に多くの人員を割かざるを得ません。そのため、ケモノの存在を突き止める調査は、なかなか思うように進展していないのです」
「……アルヴァレスの異変以降、各地のケモノが活性化していますからね。仕方のないことではありますが……放置するわけにもいきません」
「アユハ様のおっしゃる通りです。不測の事態が重なったことで……エリシェの民は極度の不安に怯えています」
マルセルの話を聞き、アユハはある事実に思い当たる。人の気配がない町。静まり返った繁華街。反対に、大層賑わう防衛拠点。町の異常が物語るのは、つまり――。
「もしかして、エリシェ支部がやけに混んでいるのは……」
「避難してきた町の人々です。エリシェの外壁近くに住んでいる人が多いかと」
王国中のケモノが活性化していることに、アルヴァレスの異変が関与しているのは疑いようのない事実だろう。そして、華影ノ盟の混雑も、町の静寂も、全てはエリシェの置かれた状況が拍車をかけているらしい。
マルセルの話で町の現状は把握できたとはいえ、内情は想像以上に思わしくない。アユハは頭を抱えたくなる衝動を必死に押し殺し、カップの紅茶を煽った。爽やかな花の香りが、口一杯に広がる。
「……リシア」
「いいよ。ここまで聞いて君が無視するわけないもんね」
「ありがとう」
多くは語らず、アユハは彼女の名だけを呼ぶ。しかし、そのたった一言に込められた意味を、リシアは十分に理解していた。
彼女がしばしの旅の相棒に選んだのは、人を救うために命を燃やす騎士だ。マルセルの話を聞いた今、このまま町を立ち去る選択肢など彼の中には残っていないだろう。
「……“ユノリア族のケモノ”となれば、本来は騎士団が動くべき事案です。しかし、現状ではそうも言っていられません」
リシアの返事を待つまでもなく、アユハの答えは最初から決まっていた。――彼が、民の声に耳を傾けないはずがないのだから。
「何か、お力になれることはありますか」
「……エリシェ支部は既に支援要請のあった地域へ連盟員を派遣している状態です。王都の事件の影響によるケモノの襲撃も頻繁に重なり……満足にケモノの調査に人手を割くことができません」
現在のエリシェ支部は、普段よりも少ない人員で町を守るのに精一杯だった。王国内の状況は平時と大きく異なる。緊迫した日々の中、誰もが極限の生活を余儀なくされていた。
――そこに現れたオリストティア随一の剣士。冬の騎士と呼ばれる魔剣使い。彼の訪問は、華影ノ盟にとってまさに渡りに船である。
「恥を忍んでお願い申し上げます。アユハ様、リシア様。エリシェの防衛にご助力いただけないでしょうか。どうか、我々にお力添えを」
二人であれば、“ユノリア族のケモノ”の調査で生まれる戦力の穴を埋められる。加えて、あの冬の騎士が連盟に協力していると知れ渡れば、疲弊した連盟員たちの士気も必ず持ち直すだろう。
そして、マルセルの意図を、この若い騎士は正しく汲むはずだ。王女の騎士にまで上り詰めた人間の実力を、マルセルはとうに理解していた。
「協力しましょう。詳しい話、お聞かせください」
アユハの言葉を聞きながら、リシアは机上のカップに手を伸ばす。紅茶の香りに満足して二口目を味わう頃には、彼女の心もすっかり凪いでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます