2章
28. エリシェの異変 (1)
エリシェは、アルヴァレスとクレオリシスという二つの大都市を結ぶ交易路の中間にある町である。多くの旅人や商人が立ち寄る町には様々な商店が並び、珍しい品物の取引も盛んだ。町は都市を行き来する人々の宿場町としても機能し、数多くの宿屋や食事処が旅人の疲れを癒していた。
オリストティア王国の中心部に広がるこの町は、交易だけでなく戦略的にも重要な場所に位置しており、防衛の拠点としての役割も担っている――と、アユハは大通りを歩きながら語る。町を囲むのは堅固な防壁で、その内側には防衛組織“
そうした多様な役割を担うエリシェは、常に活気に満ち、人々の往来が絶えることのない町――本来なら、陰りなど一つもないはずだった。
「人……まったくいないな」
「アルヴァレスの影響かな……? お店もほとんど閉まってるけど……」
閑散とした繁華街を、アユハとリシアの二人だけが歩いていた。かつてアユハが訪れた時には人々で賑わい、客の声と笑いが絶えなかった店々も、今は軒並み扉を閉ざしている。生活の気配は跡形もなく、通りを満たすのは空虚な沈黙だけだった。
「あ、猫……」
店主が慌ただしく逃げ去った痕跡だろうか。店先には食べ物が放置され、すでに傷み始めている。それを一匹の野良猫が器用に攫っていた。乾いた風が砂埃を巻き上げながら通りを吹き抜ける。雲一つない晴天の下だというのに、空気は妙に冷たく、肌を撫でるその感触に不気味さが滲んだ。
「……とりあえず華影ノ盟に行ってみる?」
「そうだな……町中で情報を集めるのは難しそうだ」
早々に当初の予定を諦め、二人は次の目的地へと歩みを向ける。華影ノ盟――あの組織であれば、エリシェを覆うこの異様な静寂の理由を知っているはずだ。石畳を打つ二人の足音だけが、並び立つ店々の間にやけに大きく反響していた。
―――
“華影ノ盟”――それは、世界各地に拠点を構えるケモノ専門の防衛組織である。主力となるのは“連盟員”と呼ばれる戦闘員たち。彼らは時にケモノとの戦闘に臨み、時に人々を護衛し、時に黒喰病の調査に従事する。黒喰病に関わるあらゆる依頼を遂行する、その姿はまさに巨大な傭兵団にも似ていた。
近年、黒喰病の拡大とともに組織の勢力は急速に膨れ上がり、今では民間の依頼だけでなく、国家からの支援要請をも引き受けるまでに成長している。つまるところ、北のアルヴァレス支部、南のクレオリシス支部と並び、エリシェ支部は騎士団と肩を並べて王国の防衛を担う守護の要であった。
「うわ、こっちは混んでる……!」
「受付もすごい列だな」
エリシェの繁華街の突き当たりを曲がり、いくつかの民家を抜けた先に、その建物はあった。三階建ての堂々たる木造建築。扉を押し開けると、広々としたロビーが目に飛び込んでくる。
華影ノ盟エリシェ支部――そこは、先ほど歩いた閑散とした大通りとは打って変わり、町中の人々が集まったかのような賑わいに包まれていた。
「少し待つしかないか。これだけ依頼者が多いと、手の空いてる連盟員なんていないだろうし」
「そうだね」
支部の受付窓口は、どこも人で溢れ返っていた。華影ノ盟には日々ケモノに関する多様な依頼が持ち込まれるが、それにしてもこの混雑ぶりは尋常ではない。
王都アルヴァレスの異変以降、機能不全に陥った騎士団に代わり、華影ノ盟が防衛の多くを担っている――そんな話をアユハは耳にしていた。黒喰病が猛威を振るう今、彼らの存在は人々にとって心の拠り所なのだろう。
普段とは大きく様相の異なるロビーを前に、アユハとリシアは立ち止まる。身を寄せてしばらく支部を訪れた人々を観察していると――書類の束を抱えた連盟員が駆け足で前を通り過ぎた。ごった返す人波を縫うように進んだかと思えば、彼はふいに立ち止まり、慌てた様子で二人のもとへ引き返してくる。
「も、もしかしてアユハ・コールディル様!? “冬の騎士”の……!」
「ええ、そうですが……」
突然のことにリシアは目を丸くするが、一方のアユハは平然と応じる。慣れているのか、ただ感情を表に出していないだけなのか――切り替えの早さは、いつ見ても舌を巻くものだ。
そんなリシアの姿は、興奮を隠そうともしない連盟員の目には映っていない。重要なのは目の前の人物が“冬の騎士”であるという一点だけで、彼は子どものように瞳を輝かせてアユハに迫る。
なるほど、そういうことか。リシアは即座に理解した。尊敬と憧れ――アユハを見る者が宿す光だ。王城での複雑な人間模様を知らない人々にとって、“冬の騎士”は純粋な憧憬の象徴である。
「アルヴァレスの混乱、自分も耳にしております。本当にご無事で何よりです……! 自分、数年前のケモノ掃討作戦で、連盟員として遠くからあなたのお姿を拝見したことがありまして。それ以来ずっと――ああ、いけない、失礼しました! 興奮してつい……」
気恥ずかしそうに咳払いを一つ挟む。今度は声の調子を落とし、彼は静かに切り出した。
「失礼ながら、エリシェにはどのようなご用件で?」
「各地の状況を見て回っています。……アルヴァレスの異変以来、町の様子はいかがですか?」
「実は……ご覧の通り、エリシェは今いくつか厄介な問題を抱えておりまして。もしよろしければ、相談に乗っていただけませんか?」
朗らかな挨拶から一転、連盟員の声が深刻さを帯びた。ただならぬ様子に、アユハは思わず隣のリシアへと視線を送る。彼女が小さく頷いたのを確認し、アユハは再び連盟員に向き直った。
「伺いましょう」
「ありがとうございます。では、落ち着いた部屋へ。詳細はエリシェ支部長からお伝えいたしますので」
連盟員の先導に従い、二人は混雑したロビーを後にする。人々の喧騒が遠ざかり、通路に満ちるひんやりとした空気が肌を撫でた。
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