第9話【鬼水町】

 吹く潮風は、やすりみたいにごわごわと、肌触りも悪く抜けてゆく。髪を引っ張られるようで煩わしい。

 干からびたヒトデの死骸から顔を上げれば、日本海は青黒くうねった。そんな波にも負けじと連なって並ぶ舟屋は、怪物の舌に乗るように揺れていた。

 炎天は灰色の雲に圧し潰されて威力を失った。風の音は波よりも派手に鳴り、健全な酸素を裂いて、肺も窮屈に縮こまる。

【鬼水町】

 のしかかるような湿度の染み込んだ灰色の港町。

 海と崖に挟まれた逃げ道のない町。

 八木辰正の生まれの町。

 その妹である八木巴が死んだ町。

 八木辰正が殺した町。


 視線を傾ければ緑は大いに栄えていて、嗚呼豊かな土地なのだと理解させられる。

 それは強制的な感覚だった。

 実感としてこの空間には自然が満ちているというのに、なに故か鬼水町は平面に見えた。何処へも向かわない絵画が感動を齎さないように、夜の砂漠の匂いがした。

 そうして噛み締めていた唇から、すと味もしなくなってきた頃に、気づく。

 命の気配がしない。

 町はまるで置いてゆかれたように停滞していた。それは知っている空気、知っている常識。

 八木夫妻が、霧乃ちゃんを祖母の元へ預けなかった理由が察せられた。

 

 継接ぎのような駅を出ると正面には交番があった。澱んだ緑に汚れた外装は、あまり健全な風を感じさせない。

 電気は付いていなかった。

 交番の中には頭の禿げあがった中年の警察官が一人、折りたたんだ新聞紙を片手に携えて俯いていた。齢は六十くらいだろうか。よれた白シャツにあまり元気な印象は受けない。

 ドアの閉まる固い音に、男はやっと顔を上げる。睨みつけているように見えたのは、下向きの角度故か。

「こんにちは」

 可能な限り整えた声で呼びかけると、男はやっと新聞を放った。

「アンタ見かけない顔だね」

「ええ、今さっき着いたんです」

「厄介ごとはゴメンだよ」

 それだけ言い放って、また新聞に目を落とす。

 愛想なんて期待していなかったけれども、それでも横柄な態度だった。

【厄介ごと】

 時間の止まったこんな極小の世界でなお、些細な異変も望まない。それは正義の徒としての責任感に依るものではなく、ただ単純に波風なく、この一日が早く終わることを望んでいる態度に見えた。

 此処に来るまでの、列車の車掌の言葉を思い出す。

『あんなところ、行くもんじゃない』

 その目は諫めるものではなく、心から私を心配しているようだった。眉毛はしなりと垂れ下がる。

 海と山に挟まれた小さな町。人口は年々減少し高齢化も止まらない。発展することは見込めず、何時か地図から消えることが予定調和となった町。

『何故でしょうか。ただの観光ですよ。海が見たくなったんです』

 私は車掌に問うた。

 意味は何となくわかっていたけれども、答え合わせがしたくなったのだ。

 彼は私の問いに答えなかった。ただその憐れむような表情は、今も瞼の裏に焼き付いて剥がれない。

 彼は毅然として

『貴方に帰る場所があるなら送り届けよう』

 そう、静かに叫ぶ。

 ただ職務に忠実で在り続けようとする大人の姿がそこにはあった。

 過剰な音など、不要だった。

【私の帰る場所】

 ただこの瞬間は、目の前の車掌のことも忘れて、私は私に問うていた。刹那頭を掠めた暗い山の麓の村の景色を、意識的に首を振って引き千切る。

 代わりに、この両手に載せて浮かべたのは、古くぼろぼろのアパート、そしてその黴臭さに負けぬ輝きを放つ私の大切な人たち。

 懊悩の時間は千倍に圧縮されて、弾けるように答えは光る。

 私は車掌の言葉に頷いた。重く、強く。

 ──そう、私には帰るべき場所がある。

 こんな煩わしい世界を切り捨てて、賑やかな円環の中に帰りたいって、贅沢な我儘がある。

 だからさっさと顔を上げろ。声を上げろ。落とし穴は跳び越えるくらいに、高く夢を見ろ。

「八木さんのお宅を御存知ですか」

 私は白々しく問うた。

 無視されたら、その時はその時である。情報を集めるために手段を選んでいては何時まで経っても帰れない。

 けれども新聞をめくる男の手元が止まったことに気づいて、私は心中安堵した。

「なんでアンタがそんなこと知りたいの?」

「私は八木さんの息子さん、辰正さんの知り合いなんです。事情があって訪ねる必要ができまして」

「……ふうん」

 決して信用している風ではなかった。けれども彼にも話したいことがあったのか、その視線はやっと繋がる。

「あのドラ息子、今もいけしゃあしゃあと生きてるのか」

 思っていた通りに、愉快な言葉は吐いてくれない。

 けれどもそれもまた情報であるし、人の口というものは愚痴を語るときばかりは整備された下水道のようによく流れるものだ。

「あら……彼がご迷惑を」

「俺にじゃないよ。お母さんの霞さんにだよ」

 的外れなことを言えば、人は正しいことを教えようとしてくれる。

 人間は皆教えたがりだ。それは幼い頃から捨てられない、人の根幹に近しい性質でもある。

 警官は唇をひん曲げて、八つ当たりに机を新聞紙で何度も叩いた。

「年老いた親を置いて都会に出て行って、そのまま孫の顔も見せやしない。此処が嫌いなのはわかるけどね、霞さんなんか見てられないよ。今でも息子のことを想ってる」

 広がり始めた発疹のように、小粒な隔意は弾丸となって壁に撃ち付ける。今しがたまでまるでやる気の無かった男は、どうにも感情を込めて顔面を歪める。人間の輪郭が崩れて、まるで怨霊のように歯を尖らせる。

 嗚呼嫌だ。悪寒が背骨をなぞる。

 この『周囲の人間が全員当事者である』感覚。

 悪事を為した者には容赦なく隔意を向けて良いという、歪んだ共感性。時間を忘れた田舎の人間の特徴だ。

 警官は、黒い波が渦巻く瞳で私を見た。

「アンタくらいの齢じゃわからないかもしれないけどね。親って言うのはそう簡単に子どもを嫌いになれないんだよ。可愛そうに」

 その言葉は

 明確な鈍器となって、私の頭を殴り付けた。

 刹那暗中で血の色に爆ぜるのは灰と為った兄、無駄に広い家、べたついた髪、破かれた遺書。半狂乱の親が二体。嗚呼そうだ。

 手は、意識と離れて髪を掴む。

 つ、と引っ張って、ぴりりと鳴る。その弦の振動は指先に薄く響きを含ませた。

 私の代わりに泣いてくれた髪を一本、ぷつんと断って慰みに指に巻き付ける。締め上げるように、斬るように。糸に絡めとられて、窮屈にも肉の丸みを肥大化させた指先が、赤い跡を付けて冷えてゆく。

 破壊的な意図を、しかし叶えられない脆弱な髪に込めた。

 黒い雨が降り注ぐ。

 感情を押し殺すように髪を垂らす。

「私、謝りたいんです」

「あ?」

「辰正さんの代わりに、お母さまに謝りたいんです」

 男は呆れたような顔をして、けれどももう面倒くさくなったのか適当な紙に雑な地図を書いて渡した。そして息を吹く。

「……最近認知も入ってるから、行ったって良いことなんて無いよ」

 それだけ言って満足したのか、男は呆れて背を向けた

 最後に一度頭を下げて交番を出る。曇天は未だ天頂を覆い、まるで晴れる気配はない。

 無意識の中に丸めて握りつぶしていた地図を広げて灰色の日に透かす。

 目的地は随分と近かった。



 ──────────・・・



 八木辰正の母に案内されて、家の土間に上がる。

 懐かしい香りがして鼻が鳴った。

 山と海は正反対の属性だけれども、人の命が還る場所という共通点があって、それが私に黒い郷愁の意を抱かせたのだろう。

 そして私は、随分と痛く面食らった。

 八木辰正の母は、こんな干からびた町とは程遠く、美しい鶴のように立っていたからだ。

 彼女の名前は八木霞と言った。流石に(どこかの婆と違って)髪は白かったけれども、背筋は元気に疲れを知らない。けれども苛烈な印象とは程遠く、柔和な表情を常に漂わせるかわいいおばあちゃんだった。

 あまり広い家ではなかったけれども、掃除は隅々まで行き届いていた。何時誰が訪ねて来たって──帰って来たって、問題ないくらいに。

 私はその瞬間、八木辰正の部下だった。

 自己紹介なんてするまでもなく、霞さんは私をそう断じたのだ。

「息子はねえ、優しいからねえ、いやな上司にいじめられたりしてないかしらねえ」

 客人は久しぶりなのだろう。大層楽しそうに語りながら、霞さんはお茶を淹れる。

 小さな背中を居間から眺めながら、しかし仄暗い青色が腹の底で重なってゆく。事実を言い出すタイミングを完全に損なっていた。そして同時に、彼女の幻想を破壊したくないという甘ったれた思考が膨れてゆく。

 私が八木辰正の部下ではないこと、それどころか直接の面識すらないこと。遺書代筆などという仕事をしていること、彼が自殺を図ったこと。何も──

 冷えた緑茶の香りが、氷の鳴る音と共鳴して染み込んでゆく。俯いて降りる髪の帳は私の表情を隠して、その瞬間だけ世界に一人になれてしまう。

 そうして自分と見つめ合えば、嫌でも愚図な部分が見える。

 ──何度やっても、何度やっても。

 こんな仕事は慣れないし、何時か慣れる気もしない。

 死に纏わる仕事をする以上、そこに感情の波は必ず存在する。憤怒も悲壮も、深紅も真蒼も、猛々しい威力を帯びて襲い掛かる。

 霞さんの嬉しさに細くなった目は、私の所作を著しく縛り付けた。

 それは柔らかい絹糸の結界で、指先の微かな振動でさえも許されないような心地があった。一瞬の間違いで、この暖かな陽だまりの破壊に繋がる亀裂が生まれると、私は盲目的に信仰した。

 その瞬間、背筋を伝う洞窟の一滴は悟る。彼女の幻想を守ることは、私の信念を貫くことよりもずっと大切に思われた。

 信念、即ち真実を以て虚構を超えること。

 網島修理に突きつけた、私の銃口。

 そんな形を持たない宝物に後ろ髪を引かれて立ち止まる。思い出さねば、捨ててはならぬと振り返って、けれども随分と白黒に遠い。踏んで音の鳴らない鍵盤は、芸術や美学といったキレイから離れて静かに眠る。

 霞さんは両腕で頬杖を突いて、頬を傾けた。

「息子は元気?」

 訊かれて。訊かれてしまって。

 喉の骨が折れる。

「はい」

 真実の骨は砕け散った。故に私が音を吹いたのは虚構と幻想の笛。

 何を述べることが正解であって、その正解が何者の為の正解であるのか。対立する二つの思想に類するものであった場合に片方は、もう片方とは形相を変える。

 だから私は誰にとっての正解を選べばいいのか、大変に迷ったのだ。

「八木さんは──みんなに好かれてます」

 信念の道を蹴る。足裏ではなく、爪先で。

 私はハリボテを被った。

 薄皮を肌の火で炙ってから纏って見せた。


 襖の向こうで仏壇が啼いた。





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