第8話【子どもの夏休みは最高の物でなくてはならんのだ】

 石神を見送って管理人室に戻ってくると、悪い妖精とお姫様は我が家のようにくつろいでいた。二人してちゃぶ台に顎を載せ、心根まで安らかに目を細める。

 対して私の目は怪訝に細くなる。

「くつろぎ過ぎじゃない?」

「いやぁなんでこんなに落ち着くかねえ、ここの空気は」

 網島修理はせんべいを口に咥えて団扇みたいに仰ぐ。行儀が悪い。

 けれどもおばあちゃんは意に介さず、金歯の光を放ちながら対面に座る。そのまま手招きされたので私も渋々落ち着いた。じわじわ痛むように、くるぶしから痺れてゆく。

 夕日に少しだけ焼かれた肌が、潤いを取り戻すみたいに冷えてゆく。湛えていたものを放って息を吐きだすと、やっと、激動の一日の終わりが近づいている実感が着いて来た。

「疲れた……」

「おつかれ」

 言っておばあちゃんが差し出した麦茶を一息に飲み干す。

 今日一日で何日分のカロリーを消費しただろう。

 昼前の一番暑さの盛りの頃に、おばあちゃんの家庭菜園に水をやっていたら石神啓が現れて、新しい仕事を依頼されて。

 八木霧乃ちゃんと出会って、網島修理と奇しくも再開して、三人ほど不知時荘の日常の風景が増えた。

 ふと夢想に浮かべていた視線を落とすと、霧乃ちゃんが目に入った。

 果実みたいに丸い頬。蝶の羽のように優雅な睫毛。小川の清流とも違わない黒髪。きっと将来美人になるだろう。

 けれどもその瞼は閉じたり、開いたり忙しない。ちゃぶ台に置いた顎を軸にして、振り子みたいに頭は不安定に揺れる。

「霧乃ちゃん、眠い?」

「……ちょっと」

 ゆっくりと瞬きして、霧乃ちゃんは声を零した。

 よかった。怖がられて返事もされなかったら部屋帰って布団ダイブするところだった。

「いろいろあったしなあ。そりゃ疲れるわ」

「布団用意しようねえ。お母さんが迎えに来るまでは寝てて大丈夫よ」

「あ、手伝います」

 麦茶を飲み干して網島修理が立ち上がる。抜け目のない野郎である。


「夏用の布団出しておいてよかったわあ」

 寝転がって早々に寝息をたて始めた霧乃ちゃんの前髪を撫で付けながら、おばあちゃんはゆりかごみたいにゆらゆら揺れる。見た目は妖怪のようだが、心は優しきおばばなのだ。

 おばあちゃんの齢からしてみれば、私や網島修理も、きっと霧乃ちゃんとそう変わらないのだろう。だから、彼女の甘やかす対象は老若男女を問わない。

『困ってる人を放っておいたら、地獄に堕ちた時嫌じゃない』

 言って彼女が金歯を見せたのは六年前、出会った日。今日とは違って曇天の真下。

 私はそれを言い訳だと思った。

 人を助けるのは自分のため、その人のためなんかじゃない。そう言い訳しておかないと恥ずかしくって照れてしまう。かわいい、人なのだ。

 そんな絹のような静寂を引っ掻いて網島修理の声が鳴る。

「遺書代筆屋」

「……なに?」

 夢想から引き剝がされて、網島修理に視線を刺す。けれども奴の視線もまた、私と同じように霧乃ちゃんとおばあちゃんに注がれていた。だから言葉は半分ほど投げやりなものだった。

 軽い調子で言い放つ。ふと思いついた妄想。

「夏祭りやんね?」

「は?」

 網島修理の突いた頬杖は奴の右頬を支えていて、その人差し指は淡々とこめかみのあたりを叩いていた。きっと頭の中は愉快な想像でいっぱいなのだろう。

 夏祭り。言われて夢想するのは頭の中の暇な部分。目を閉じた先で景色を見ることに疲れてしまって、故に乾いて持て余していた想像力を司る場所が、水を得たみたいに泳ぎ出す。

 寡爛、弧諭と固い音を鳴らして、涼し気な服装に身を包んだ人々が、笑顔を振り撒きながら闊歩する。 

 夕焼けを通り抜けて夜空に響く祭囃子。高く照るのは大神輿。屋台の列は宝物庫みたいに輝いて見えた。永遠の盛りのように、夢の光の珠が潤んだ世界に色を灯す。

 気づけば私の頭まで、綺麗な景色で満帆に膨れていた。

 何やら足の裏がむずむずする。

 進みたいような気持が頭から足先にまで詰まって、抜けてゆかない。

 返してやるのは癪な気もしたけれど、気持ちに急かされて私の口は勝手に問う。

「網島修理」

「ん」

 お互いが互いを見ていなかった。

 けれども話したい事と訊きたい事が、賑やかな幻想を吸い込んで丸くなってゆく。

「それは──私たちが霧乃ちゃんのためにお祭りを開く、という認識で合っている?」

「八割くらいそうかな」

「……残りの二割は?」

「あーたら面白そうな話してるねえ」

 妖怪が横から口を挟んだ。おばあちゃんが座った姿勢のまま、尻を畳に引きずりちゃぶ台の会に合流する。煌めく金歯は沁みもキズも在りはしない。そして妖怪は奈落のような大口で笑う。

「祭りやるって言うならウチの庭貸してあげる。幸い税金苦しいくらいに広いんだからせいぜい有効活用してやってよ」

「マジですか」

 目を剥く網島修理に対して、似合わないウインクをばちこん飛ばして台詞を決める。

「老婆心というヤツよ。文字通りにね」

「おお。上手いこと言うね。おばあちゃん」

 おばあちゃんは『くけけ』と怪鳥のような笑い声を挙げると、ついでに私の背中をばんばん叩いた。多分本気でぶん殴っていたと思われる。背中はジンジン傷んで赤く腫れた。言わなきゃいいのに。

「いやあ、この齢になると友達はぽんぽん死ぬわ、病気で帰ってこないわだし、喋る話題は健康だの年金だの愚痴ばっかでね。わたしはそういうの苦手なのよ。盛り上がるなら明るい話題がいいじゃない。この前も安西さんが亡くなって遺産がどうので揉めたのよ」

「それは……大変っスね……」

「おばあちゃん、お祭りの話しよっか」

 老婆の死ぬ死ぬトークに気軽に突っこめるほど、私たちには人生経験値が足りていない。

 空気を入れ替えるように咳をこんと打って、網島修理に向き直る。

「日程はどれくらいを予定してるの?」

「今思い付いたばっかだから決めてはいないけど……霧乃ちゃんが帰るのが一週間後だからまあ、その辺りにはできるようにしないとな。今週の日曜日とかが理想」

 満足そうに頷いて、続いておばあちゃんが首を傾げる。

「サプライズにするつもり?」

「いやあ……サプライズなんて碌でもないっスよ」

 実感の伴った重い言葉だった。過去に失敗でもしたのだろう。

 しばしの静寂があった。

 この不明瞭な計画の、最後の一押しとなるような言葉を、その場の全員が欲していた。意識的にも、無意識的にも。

 後者であった網島修理は、視線も姿勢も傾いたまま、取り繕うことをまるで忘却した相好で、網島修理は独り言みたいに宣う。

「霧乃ちゃんの夏休みは最高のものにしたいですね」

 笑うこともなく、誤魔化すこともなく。向き合うものに真摯であろうとする時、奴の仮面は容易く壊れる。口にすることが憚られるようなクサい台詞は、しかし詐欺師の口元から零れれば花の香りを含むのだろう。

 空調の音が耳に触れた。その静寂な様に、空気まで肝を冷やしたようだった。

 おばあちゃんの呆けた表情がぴりりと締まる。覇気のある表情なんて滅多に出さないものだから思わず私の目も覚める。

 そしてそのまま網島修理の手を取った。

「いいじゃない」

「ありがとうございますおばあちゃま!」

 先ほどまでの凍った水面のような表情は何処へ捨てたのか、柔らかい仮面を被り直して網島修理は笑う。向き合って赤髪をしゃかしゃか振って、おばあちゃんは満面の笑みで言う。

「ただの詐欺師じゃないんだねえ」

「は、」

 一瞬にして固まった顔面は、仮面は仮面でも夜叉のように激しく引きつっていた。

「あ……え?!」

 網島修理が咄嗟に私を見た。

 首を振る。

 私は一言だって、おばあちゃんに網島修理という詐欺師の話なんかしていない。そもそも話題にだって出したくない。

 齢の功を舐めてはいけない。

 猫が長く生きれば猫又になると言う。ならば人は何者に為る?

 鮎川タエ。曜日で髪色を変える金歯のおばあちゃん。築百年の不知時荘の初代管理人。年齢不詳。

 わかっているのは明治の時代に青春を過ごしたということだけである。


 縁側で膝の間に深く頭を沈めて、網島修理は絶句していた。

 面白かったのでもう少し放置してやろうかとも思ったけれども、せっかくおばあちゃんが淹れてくれた麦茶がぬるくなるのは癪だったので、わざと音をたてて置いてやる。

 網島修理はぼうっと顔を上げた。やる気のない幽霊の様である。

「バレるもんなんだなぁ。見せかけだけは自信あったのに」

 ぺたぺた、頬を触って何事かを確かめて、再び溜息と共に深く沈んだ。

 不知時荘は私の帰るべき場所である。

 帰るべき場所に──因縁の宿敵とも言える網島修理がいるのは大変に苦痛だったし、奴が苦しんでいればいるほど私の気分は高揚する。

 けれども

「しっかりしなさい」

 この場所で。この愉快極まりないささやかな世界で、人間が落ち込んでいるというのは目に悪い。ゴミが入るようなものだった。

「おばあちゃんは貴方を信頼して、場所を貸すと言ったの。それに応えなかったら貴方は詐欺師なんて目じゃないカスよ」

「すっげえ言う」

 網島修理は全身で引いていた。けれども姿勢は前傾とは程遠く軽やかだった。

 背中の後ろに手を突いて、最早暗くなった空に視線を放り投げる。「おっ」と鳴いて、私も釣られて視線を高く浮かべた。

 小さな星。何の変哲もないただの星。

 そんなことを冷めた頭で考えてから、ふと可笑しくなる。

 あの小さくとも輝く星は、天地の開闢からあの座にいて、確かに一個の惑星としての生を続けているのだ。

 見慣れてしまって気づかないこと、思い込んで触れないものが山とある。手を伸ばそうとして、隣に網島修理がいることを思い出し、すぐ仕舞った。

「そうだよなぁ」

 詐欺師は何かに同調したようだった。

 それは年の功を舐めてはいけないということであったり、おばあちゃんや霧乃ちゃんの期待に応えなければならないことだったり、もしかしたら星に手を伸ばしたくなった愚かしい思考のことだったのかもしれない。

 続けては何も語らず、星と交信するように見つめ合って、白蛇が笑う。

「明日から忙しくなる」

 吐く溜息とは裏腹に、その声は高揚していた。拍動はエンジンとも相違なくって、小気味よく足を回す。

「アンタもご協力頼むよ」

 虹色の瞳が私を見た。嘘みたいに綺麗な虹彩は光を放つ。

 私は首を振った。

「明日は無理」

「え、なんか用事あんの?」

 大層意外な風だった。そんなに暇人に見えるかはっ倒すぞ。

 今から荷造りをして、明日一番の汽車に乗る。

 小旅行だ。けれども娯楽とは程遠い。

 私は明日

 八木巴の死を探しに、海へ行く。





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