第10話【私を嫌わないで】
霞さんは柔らかい表情をも跳ね上げんと喜んだ。
両手を組み合わせて、しかし祈ることとは程遠く、目の前の事実に幸福な感情を抱いたのだ。
私は耐えられなくなった。
自分の吐いた言葉が人を幸福にした。
ただし、嘘を以て。
──締め切った螺子を、更にと無理やり押し込むような不器用な音で、頭蓋の中身は満たされていた。音に質量があるならば、きっと溢れ出んとしただろう。膿のように生臭く、どろりと窒息に運ぶ。
迷うような、溺れるような心地だった。吐き気にも近しい渦が頭も体も混ぜてしまって、何処を見つめることが正しいことなのか、わからない。
そんな不安定の中で旋を巻いてどれくらい惑ったのだろう。
霞さんと目が合った。
やっと視線が繋がったものだから、霞さんはもっと喜んだ。間延びした言葉で私に訊く。『どーしたの?』
歯が。
神経を持たぬ、歯の肌が痒かった。
歯を見せて笑うという当然の行為が、全ての罪にも勝る最悪にしか思えなくって、唇の裏で撫でられた歯が、歯が、その表面が痒い。
生易しい幾千の指先が、微かに触れてくすぐるように。不快な感触が集って痺れに姿を変えてゆく。そんな幾億を踏みつぶさんと嚙みつけて、血の味が沁みた。
言わなければならないことがある。告げねばならない事実がある。
貴女の笑顔とその幸福を。私の甘さ故に預けたその真っ当な光を。私は塗りつぶさなければならない。
奪った責任があるように、この世界には与えた責任もまた存在する。
塩辛い唾が舌下に溜まる。こみ上げるのは腹の底で湧いた涙。
へら、と。
頬がとろけた。骨抜きとばかりに柔らかく、仮面の裏で舌を乾かす。
逃げ道を探そうと、私の顔はだらしなく緩んだ。人を傷つけることは自分を傷つけること。それは直接的であっても、婉曲的であっても変わりない。事実として他人は鏡なのだ。
思考の外で嗚呼気づく。思い出すのは網島修理。白蛇の詐欺師。
他者は鏡。自分の態度を映す鏡。人は偽らなければ生きてゆくことも難しくって、けれども偽ることと嘘を吐くことの嫌いな私は、黒白の冴えた正反対に対して
ガを剥き出しに対立できることが心地よかったのではないか──?
振り返れば私が手を添えた笑顔と泣き顔が、花のように連なり軌跡を飾る。如何に清き水であろうと一滴でも毒を落とせば頭が拒むように、四重想の絶叫は不協和音で耳を傷めて、けれども混沌の中に手を伸ばせば人の温度が重なっている。
綺麗な色の混ざった渦は、私の生きた証だった。
そして同時に──侵した罪の墓標でもあった。
此処で
この十字の路から、日の差す方角へ。
無限の墓標の整列、その影から目を背ければ──
そうやって幼稚な方向へと逃げれば、どれほど楽に為れるだろう。
──けれども一歩。その重力に縋れば、私のしてきた全てのことが嘘になる。それは築き上げた世界を破壊する一歩なのだ。そんなことは、一度だって許されない。【甘える】ことと【甘え】は違う。
重く行動を支配されたこの形而下の世界において、思考ですら重力に首を垂れてしまえば、それは即ち何物も立ち行かなくなる。
それに私の墜落は、最早私だけの責任ではない。人の生は他者と重なって構築される。
だから諦観なんてものは──自死とも相違ないのだ。
私は知っている。誰よりも重く知っている。死が人を傷つけること、裂くこと、泣くことを。
私が死んだら泣く人がいる。
それは──絶対に在ってはならない。
私は遺書代筆屋。
『救われれば嘘でいい』なんて戯言は書き潰す。
真実を綴る筆は、何時だって黒き墨を吸う。
「霞さん」
震えを全て噛み殺す。遺書は後で書いてやる。
だから今は、その満身を私に寄越せ。
私に青い勇気を寄越せ。
「嘘を吐いて申し訳ありません。私は天伊。遺書代筆屋です」
突然の事態に呑み込めなくって、霞さんは首を捻る。
心根が傷んで、けれども此処で止まる道理は無い。後退と停止のギアは踏み潰した。これから私は地面を視ない。
ただ目の前の貴女のために言葉を吐く。
「八木辰正さんは自分の首を絞めて自殺を図られました。幸い命に別状はありませんが、同時に彼は言いました『自分は妹を殺した』と」
一息に捲し立てる。
最早眼中に霞さんの姿はない。彼女を通り抜けた万象と見つめ合って、汗とも涙ともつかない水分を零す。
「私は知らなきゃならない。私は警察でも探偵でもありません。けれども辰正さんと、その家族を真に助ける為に知らなきゃいけない。だから、お願いします」
こんな舌は千の紐に分かれたようだった。焦って絡まって、言葉も躓いた。私に張れるのは火勢だけだった。信念は言葉に宿る。意気に灯る。──だから
目を逸らすな。心を逸らすな。どれだけ失望の風を吹きつけられても、吐いた息の厄介な熱は、私がここにいる証なのだから。
「教えてください。巴さんが亡くなった日に、何があったのか」
私に力を貸して。
私に貴方を救わせて。
私を嫌わないで
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