桜の下に眠る幻
紫冬湖
第1話 桜の咲かない春のこと
その年は、いつもと違う年だった。
村外れにある桜の大木が、とうとう花をつけないまま迎えた春。
村にたった一つの学校に、転校生がやって来たのだ。
「
一学年しかない高等部の教室で、学生服に身を包んだその人は、物腰柔らかにお辞儀をした。
男にしては少し長めの艶のある黒髪が、頭の動きに合わせて肩口でさらりと揺れる。再び持ち上がった顔には、お辞儀をする前と寸分違わない角度の微笑みが張り付いていた。
わたしは教室の真ん中の席で、頬杖をついておさげをいじりながら、転校生の一挙手一投足を目で追った。
こんな小さな村に余所から人が来るのはいつぶりだろう。
「ねえ
小声で囁きながら、隣の席で寝ている幼馴染の腕をつついた。机に突っ伏していた彼は、むくりと腕の中から顔を出すと大きな欠伸をした。
「……ったく、こんな田舎に一体何しに来たんだか」
「親御さんが亡くなったから、この村のおばあちゃんに引き取られたんだって」
転校生が説明していた内容を親切に教えてあげたが、太一は「ふうん」と鼻を鳴らしただけで興味はなさそうだった。
転校生の席は教室の一番後ろだった。彼は背筋を伸ばして颯爽と通路を歩き、席に向かった。
わたしの隣を通り過ぎていった時、彼が巻き起こした小さな風に紛れて、ほんのりと匂いがした。一瞬のことだった。わたしはその匂いに、どこか懐かしさを覚えた。
「――やあ、学級委員長」
休み時間になると、席を立った太一と入れ替わるように転校生がわたしの元へとやって来た。
「君に校内の案内をお願いしたいのだけど――」
彼は主が不在となった隣の席に躊躇いなく腰掛ける。
わたしは改めて、間近で彼の顔を観察した。山奥の小さな集落には似つかわしくない、鼻筋の通った麗人だ。
「――駄目かな?」
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に見つめられ、心臓が跳ねる。わたしは少し躊躇いながらも、彼を連れて教室を出た。
「わたしの名前は
「嗚呼――清志郎、でいいよ」
転校生はそう言って、わたしの隣に並んだ。思っていたより背が高く、清志郎の顔を見るために、わたしは目線をだいぶ持ち上げなければならなかった。きっと洗練された都会で育ったのだろう。田舎育ちではこんな風に縦に細く伸びはしまい。
「じゃあ、まずは職員室から案内するね」
わたしたちは板張りの廊下を軋ませながら歩いた。
小さな村のたった一つの学校だ。木造二階建ての校舎に、この学校のすべてが詰まっている。わたしは職員室や音楽室、美術室を巡ったあと、中等部の教室で下の兄弟たちを紹介した。
「ねえ、清志郎君は、どこから来たの?」
校内を一周するのに、そう時間は掛からなかった。教室に戻る道すがら、わたしは清志郎に尋ねた。
「この村から遠く離れたところから」
「そこはどんなところだった?」
「そうだね……」
清志郎はここにはない景色を長く続く廊下に投影するように目を眇めた。
「……きっと良いことも悪いこともあったのだろうけど――もう、ほとんど忘れてしまったかな」
「そう……」
両親を亡くしたのだ。きっと、忘れてしまいたいほど辛い出来事があったに違いない。
わたしは軽々しく故郷のことを尋ねてしまった自分の浅はかさを恥じて、口を閉ざした。すると今度は、清志郎がわたしに訊いた。
「咲良さんはこの村のことをどう思っているのかな?」
「この村のこと?」
「そう。君はこの村が好きかい?」
わたしは立ち止まって、校舎の窓から外を見た。
眼下に広がるグラウンドでは、シャツ一枚になった男子たちが笑い声をあげながら球を追い駆けている。グラウンドの砂を巻きあげた春の風が、窓際に立つわたしのセーラー服の襟をはためかせた。
「ええ、好きよ。だけど――時々ね、ちょっと窮屈だなと感じたりもするの。村人の多くは、生まれてから死ぬまで村を出ることがないから。特に女はそう。男はまだ、余所の村に出稼ぎに行くこともあるけれど、女は村の誰かに嫁いで、その家で一生を終えるのがほとんど。……わたしも将来そうなるのよ、きっとね。お嫁に行くのは嫌じゃないわ。でも、ほんの少し、つまらないなって気もしちゃう」
「――じゃあ、君はこの村を出たいのだね?」
「それは――」
改めてそう問われて口籠る。
確かに村の中にずっといると、息が詰まることもあるけれど――わたしは本当にこの村を出たいと願っているのだろうか?
「君の本音を聞かせて欲しいんだ」
清志郎はわたしの返答を待たずに言葉を重ねた。
「君は、本当はこの村を出たいのじゃないか? 村から出て自由になりたい。解放されたい――そう思っているのだろう?」
真剣な表情で距離を詰めてくる清志郎に、思わず一歩後ずさる。まるでわたしの口から「村を出たい」という言葉が出てくるのを期待するかのような強い眼差しが、わたしを射抜いた。
「わたしは――」
村を――
「よっ、学級委員長と転校生じゃん」
だが、わたしが答えを出す前に、張り詰めた空気を弛緩させるような、気の抜けた太一の声が廊下に響いた。
「お前ら、こんなところで何やってんの?」
無遠慮にわたしと清志郎の間に割り込んで来た太一は、不思議そうにわたしと清志郎の顔を交互に見やる。
「あ、あのね……」
わたしが説明するより先に、清志郎が口を開いた。
「咲良さんに、校内を案内して貰っていたところだ。転校初日で、分からないことばかりだからね」
「そっか。お前もこんな田舎に越してくるなんてツイてないな。ボロい木造校舎に通うことになるなんて思ってもみなかっただろ。前いたところの方がよっぽどかいいところだったろうにな。男子便所はもう見たか? きったねえぞ」
けらけらと笑う太一に、清志郎は微笑みを浮かべる。斜め下から見上げた顔は、微笑んでいるはずなのに能面のように見えた。
ひび割れた音でチャイムが鳴った。次の授業が始まる。
慌てて教室へと足を向けたわたしに、清志郎が一言。
「また明日も頼むよ――咲良さん」
わたしの隣をすり抜けていく清志郎からは、やはり懐かしい匂いがした。
隙間風があちこちから吹き込むあばら家に帰ると、今日一日の出来事がまるで夢だったかのように思えた。
「ねえお母さん、今日ね、転校生がやって来たのよ」
明りが少なく薄暗い部屋の奥、布団に横たわる母に話し掛けるけれど、返事はない。
母が寝たきりになってから随分と経つ。年だから仕方がない。わたしはもう、母の顔も声も、よく思い出せないでいる。
「珍しいことがあるものね、前に旅の人が来たのはいつだったかしら――ねえ、お父さん」
昔から寡黙な父は、わたしの話に相槌を返したことなどない。わたしは話し掛けるのをやめ、物思いに耽った。
清志郎の端整な顔を思い浮かべながら、胸に手を当てて目を閉じる。
すると鼓動が早まるのを、指先が感じ取った。
この胸の騒めきは恋慕? 期待? ――いや違う。
これは――不安だ。
――君は、本当はこの村を出たいのじゃないか?
まだ嫁入り前の娘だ。毎年変わらず循環する村の生活に、時々、飽いてしまうこともある。未知の世界に憧れる気持ちだってある。
けれどやっぱりわたしは、ずっと変わらずここにいたい。それが、嘘偽りないわたしの本音だった。
それなのに、清志郎はまるで、わたしに村を出て行って欲しいかのようだった。
何故だろう――?
わたしの中に小さな疑いが芽生えた。
学級委員長として清志郎の学校生活を補佐しながら、わたしはそれとなく彼に探りを入れた。
前に住んでいたところのこと、家族のこと、友達のこと――しかし、清志郎はのらりくらりと躱すだけで、きちんとした答えは返って来なかった。
痺れを切らしたわたしは、清志郎がやって来て一週間が経った放課後、家に帰る彼のあとをつけることにした。
両親を亡くし、この村に住む祖母に引き取られたという清志郎。今住んでいる家と、祖母が誰なのかが分かれば、わたしの中の得体の知れない不安も、幾ばくか解消されるはずだ。
そう念じながら清志郎の背中を追い駆ける。けれども、歩いても歩いても清志郎の家には辿り着かない。そのうち、ついに村外れまで来てしまった。春だというのに花びら一つつけていない桜の大木が、痩せ細った枝を晒しながらすぐそこに佇んでいる。
清志郎はようやく歩調を緩めると、一軒の寂れた小屋に入って行った。
わたしは戸が閉まった音を聞いてから、恐る恐る通りの真ん中に出て行って、その小屋を訝しげに眺めた。
ここは、空き家だったはずだ。数年前、家主が病で亡くなったあとからは誰も住んでいない。
雑草が生い茂り、屋根は崩れ、壁が剥がれている。とてもじゃないが、中も人が住める状態ではないだろう。なのに、清志郎は一切の躊躇いなく、確かにこの廃屋に入って行った。
祖母に引き取られたというのは、嘘だ。
わたしは確信した。清志郎は、何かを隠している。
清志郎は、わたしにとって――脅威だ。
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