第15話
「陽菜先生、娘の……ひまわりのことについて、事前にお伝えせず申し訳ありませんでした」
そう言って佐原さんはいっそう頭を低くした。本音を言えば、事前に知り得ていれば失声症について下調べもでき、心構えもできていたことだろう。その点について一言申し上げたくなる。でも、そうできなかった理由も理解できる。
「お子様の病気というセンシティブなことについては、話しづらいと思われるのは当然のことです。しかも、オンラインで一度話しただけの相手になど」
「いえ、正式に契約を結ぶにあたり、このことは予めお伝えしておかなければならないものです。もっと言えば、求人を出す際に明記しておかなければならない内容です。ちなみに『失声症児童の家庭教師』という求人でしたら、先生は応募されましたか?」
返答に困り、私はぐっと息を呑んだ。佐原さんの悲痛な表情を見ると「はい」と言いたいところだが、なぜか身体がこわばって言葉が出ない。佐原さんは小さく「……ですよね」と呟く。そして言葉を続けた。
「陽菜先生、もし先生が契約をキャンセルされたいのでしたら、今すぐ遠慮なく仰ってください。本日分の賃金もお支払いしますし、要した諸経費も全て私のほうで負担いたします」
……正直、返答に困る。家庭教師の契約の「継続」か「破棄」かの即時回答を求められているこの状況、周囲の空気の重さを感じる。通常学級の児童の指導すらままならなかった私が、ケアの必要な子の指導管理が務まるだろうか。どう考えても十分な経験と知識を有する教職者が扱うべき児童に、こんな半人前教師が関わってもいいのだろうか。コーヒーの芳醇な香りが立ち込める室内で、私は意を決して声を発した。
「あの、佐原さん。2点ほど質問をしてもよろしいでしょうか」
質問に質問で返す不作法となり申し訳なく思うも、やはり確認しておかなければ結論は出せない。佐原さんは真剣な表情を私に向け、大きく頷いてくれた。
「まず、今回の家庭教師の募集にあたり、どうして養護教諭ではなく一般教諭の免許を応募要件とされたのですか。彼女の指導は、養護教諭あるいはケアを要する児童を受け持った経験のあるベテラン教員が扱うべきだと考えるのが定石ではないでしょうか」
佐原さんは居住まいを正し、そしてゆっくりと口を開いた。「仰ることはごもっともですが……」と前置きをし、次のように話し始めた。
「娘の失声症については、かかりつけのお医者様と言語聴覚士さんにすべてお願いしております。以前、娘の回復時期に関して質問をしたところ『わからない』としか回答を頂けませんでした。数ヶ月後かもしれないし、数年を要するかもしれない。とにかく長いスパンで向き合っていかなければならない、と」
佐原さんは大きく呼吸をした。そして私の目をじっと見つめながら話を続けた。
「娘の回復時期が不明だというのはショックでした。ひまわりと、そして私のライフプランを立てられないというもどかしさもあります。でも、私には娘のことを最優先にする生き方をしていくことは決めています。そこで未来を茫と考えているとき、ふと回復後の娘の状況について想像しました。言語能力が回復したことで一般学級に放り込まれた娘は、まず同年代との子との社会的コミュニケーションの遅れに戸惑い悩むことになるでしょう。それは仕方のないことですが、そこに学習の遅れまで存在すると娘のストレスは倍加するではないのだろうかと。思い悩むことばかりで学校自体を拒絶してしまうのではないかと」
苦しそうに話し続けていた佐原さんは「失礼」と断りを入れ、お手元のブラックコーヒーを口にした。
「娘については、医療の面のみならず、学業の面でも十分な環境を用意しなければならないと思ったのです。医療は、かかりつけのお医者様に全面的にお願いするとして、それとは別に学業面で支えとなってくれる方が必要と感じました。それが今回募集した経緯であり、学業メインのために養護教諭ではなく一般教諭の有資格者の方にお願いした次第です」
娘様の置かれた状況、そして佐原さん考えがひしひしと伝わってきた。この人は父親として真摯に娘様に向かい合い、何をすべきか懸命に模索されているのだろう。その想いが私の胸を打つ、できれば力になりたい、私ができることがあるのならば力になりたい、でも……
目の前の薄茶色のコーヒーをじっと見つめ、2つ目の質問をする気持ちを固める。
「もうひとつお伺いしますが、私という存在は、佐原さんのご期待に応えられるとお考えでしょうか」
じっと佐原さんの顔を見据える。強張っていた表情がだんだんと緩み、空港や車内で見せてくれた柔和な表情に戻っていった。そして穏やかな口調で「はい、もちろんです」と答えてくれた。その言葉が決め手となった。もう惑わない。
「鈴木陽菜、至らない点も多々あるかと存じますが、全力を尽くします。どうぞよろしくお願いいたします」
私は声を振り絞り、この契約の継続の意思を示した。
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