第2話 母の欠片

 通い慣れた道を進む。見慣れたアパートの前に着くと、ポケットからスマホを取り出し、「ついたよ」とメッセージを送る。待ってましたとばかりにものの数秒で既読が付き、「あけるね」と返事が来た。共用玄関のオートロックがガチャリと音を立てて開くと、急ぐ必要もないのにドアノブを力いっぱい引っ張り中へと進む。

はやる気持ちを抑えながら小走りで目的の部屋へ向かう。

玄関の扉が開くと、彼氏である洸(こう)太郎(たろう)がするりと顔を覗かせた。

洸太郎は優華の顔を認識した瞬間、優しく顔を綻ばせた。何度繰り返しても飽きない、愛おしい瞬間。

「いらっしゃい。入って」

「お邪魔します」

 丁寧に靴を脱いで部屋に入り、荷物を置く。テレビの前に置かれている机に手をつきながら、どかっと腰を下ろした。

「お腹空いてない? 納豆とか卵とか、軽いものならあるけど」

「いいの? じゃあ納豆貰おうかな」

洸太郎は冷蔵庫を開けると中を確認し始め、「あ、豆腐もあった」と呟いた。スポーツで鍛えたガタイの良い背中が、小さな冷蔵庫の背丈に合わせて丸く縮こまっている。

優華はその背中に目線を注ぎながら、ゆっくりと重い口を開いた。

「あのさ、旅行のことなんだけど」

「ああ、候補地浮かんだ?」

「うん……考えてたんだけどさ、旅行行っちゃダメだって。お母さんが」

「うーん、そうかぁ」

そう答えながら屈んでいた体勢を元に戻し、静かに冷蔵庫を閉めた。手に持った納豆のパックを優華の前に置くと、すぐ隣に腰を下ろした。

「ふたりとも免許取りたてだし、子どもだけで行くのは許さないって」

「俺ら二十一だけどな」

洸太郎は可笑しそうにふっと笑みをこぼした。

「ごめん……ほんとに」

「いいよ。優華のお母さんは心配性だからね」

「あとね、どうしてもって言うなら洸ちゃんと連絡をとらせろって」

「おお、そうくるか」

穏やかな表情を保ちながら答える。これだけの無理な要求に対し、その態度が穏やかさを保てば保つほど、どうしようもない罪悪感が募っていく。情けなさと恥ずかしさが込め上げ、優華はそれ以上の言葉を発することが出来なかった。

「俺は良いけど、LINE繋げればいい? それとも電話番号とか教えてくれたらこっちから連絡するけど」

洸太郎は全く声色を変えず当然のように言葉を続けた。それはあまりにも自然で、一度は優華の耳を通過しようとした。が、通過しきる直前優華の中の校閲が待ったをかけた。慌てて洸太郎の方に向き直り、腕を強く掴んで揺さぶる。

「だめだめ、だめだよ! そんなことしたら洸ちゃん、お母さんに何言われるか……本当にきつい人だから。常識とか通じないから」

「そんな違う星の人じゃないんだし、同じ日本人なんだから話せばわかるよ。ま、流石に独特な人だとはもう理解してるけどね」

「そんな簡単じゃないの。絶対に自分の思う通りにしないと気が済まない人なんだから」

 テレビに視線を向けながら、一度もその表情を変えることなく話す洸太郎に、徐々に焦りを膨らませていった。何とか理解させねば、母に何か暴言を吐かれてからでは遅い。状況によっては、優華と洸太郎の仲にも影響を及ぼす可能性もあった。二人の仲に亀裂が入るようなことは絶対に避けたい。

テレビに映し出されているお笑い芸人のコントなどそっちのけで、

優華は洸太郎の腕を掴んだまま必死に訴えかけた。

「ね、だから直接洸ちゃんが連絡取るのはやめて」

すると、ようやくテレビから目線を外した洸太郎は優華の顔に視線を移し、次にゆっくりと机の上へと移していった。

「納豆食べないの?」

「あ」

 少々熱くなりすぎてしまったせいで、せっかく出してくれていた納豆を忘れていたことに気が付き、気の抜けた声が漏れた。

「まあ食べなよ。お腹減ってると余計かっかしちゃうぞ。ごはん好きなだけついでいいから」

「そうだね、ありがとう」

 優華は必死になり過ぎたことを少し恥ずかしく思いながら、ご飯をつごうと食器棚へ向かった。

旅行を検討している時期まで、まだしばらく期間がある。今すぐに決めることではないと、ひとまず呼吸を落ち着かせた。母の話になるといつも、鼓動が早くなり体中が激しく脈打つ。

母の口癖は「だめよ」「こっちにしなさい」

優華や姉の遥華、兄の優翔は皆、その口癖と共に育って来た。何かやりたいと言っても、友だちとどこかに遊びに行きたいと言っても、いつも返ってくる言葉は「だめよ」「だめに決まってるじゃない」。

何かを選ぼうとしても、洋服や靴を買おうとしても、いつも返ってくる言葉は「そんなのよりこっちにしなさい」「お母さんが選んであげる」。

母は、好きなものを選んだらいいと言う。その度に優華は、どうせあってないような選択肢の中にかろうじて自分の好み、意思を探し出そうとする。だがそれを見つけて手に取っても、最終的に選ばれるものは何故か大抵、瞬きをしている間に母親の選んだものへと変化している。

そんなものを選ぶの?

本当にそれでいいの?

だめよこっちじゃないと

こっちにしなさい

優華の母はそんな人であった。何かを選んでも結局何だかんだと違うものにされているうち、やがて一旦でも〝自分の選択〟を真剣に考えることの意味がわからなくなっていた。

初めは嫌でも、やっぱり慣れていく、当たり前になっていく。母の言葉が、口癖が、優華の中に溜まり最後は溶けていく。母と過ごす時間は、そんな風だった。

「あとね、小説だめだった」

「ああ、この前言ってたやつ?」

「そう、あっけなく落選」

 納豆が茶碗から零れないよう注意しながらご飯をかき混ぜていたのに、一粒だけぽろっと茶碗の側面を沿って零れ落ちていく。箸で何とか戻そうとするが、粘り気が邪魔してうまく戻らない。

「直接食べちゃえ」洸太郎がいたずらっぽく言う。

「えいっ」

 茶碗の側面に口元を近づけ、ぱくっと納豆の粒を口に入れた。またかき混ぜる作業に戻り、先ほどの続きを話し始める。

「今回で三回目だよ。『母を想う』いい話になったし、今度こそ行けると思ったんだけどなぁ」

 はあ、とため息を吐きながら半端に混ざった納豆ご飯を口にかき込む。からしを入れ忘れたことに今更気が付き、また小さくため息が漏れた。

 優華の数少ない趣味の一つが、小説を書くことであった。高校時代は、同じ趣味を持つ友人と書いている内容について話したり、交換して読みあったりして楽しんでいたことを思い出す。大学入学をきっかけに、せっかくなら趣味の範疇から抜け出して挑戦してみたいと思い始め、条件に当てはまりそうな賞があれば応募してきた。

「小説の話聞いてるとさ、つくづく優華ってお母さん大好きだよね」

「え?」

 洸太郎からの予想外の言葉に、静かに食べる手が止まる。口に残ったご飯を飲み込むと、洸太郎の顔をまじまじと見つめた。

「だって優華、いっつもお母さんの小説ばっか書いてんじゃん」

「いや、でも、〝母親〟ってのをテーマにしてることが多いだけで、実際の私のお母さんとは全然違うじゃん」

 答えながら、腹の奥がざわざわと沸き立つのを感じる。洸太郎の言う通り、優華の書く小説には必ずと言っていいほど母親という存在が登場していた。しかしそれは、優華の母親をなぞらえたものではなかったはずであるし、少なくとも優華にはそんなつもりはなかった。

「確かに小説に出てくるどのお母さんも、百パーセント完全に優華のお母さんの特徴と一致するわけじゃないんだけど、ひとりずつちょっとずつ、優華のお母さんなんだよね、なんか」

そう言うと、洸太郎はまたすぐにテレビへと視線を戻した。その横顔は相変わらず温和な表情を浮かべている。実は優華が見えていない向こう側のもう半分の顔は、もしかしたらもの凄く恐ろしい表情をしているのではないか、そうでないと釣り合わないのではないか、と訳の分からないことを考えてしまうほどに、洸太郎はずっと穏やかな顔を浮かべている。洸太郎の言葉の真意を掴むことが出来ない。

「どういうこと? 意味わかんないんだけど」

 ははっ、と少々大げさに笑い飛ばすと、誤魔化すようにまた勢いよくご飯を口に押し込んだ。

「まあ募集してる賞なんてこれからもたくさんあるだろうし、まだまだこれからだよ」

「そうだね、頑張るね」

 お笑いの番組がいつの間にか終わり、ニュース番組へと切り替わっていた。その日はそのまま、二人ともいい加減な体勢で眠りに落ちた。

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