雨女郎

夏目夜半

第1話 蔑む顔

 机の上に置かれたスマートフォンのバイブレーションが鳴る。机の表面の透明なガラスと反響し、少々耳障りな音が響いた。ベッドに寝転がったまま、横目でそちらへ視線を寄越す。少し傷のついた画面が、母からの着信を知らせている。ゆっくりと手を伸ばし、応答のボタンをタップした。

「はい、もしもし」

『もしもし優ちゃん?』

「はい、どうしたの?」

『お金、さっきお父さんが振り込んでおいたから』

「ああ、いつもありがとうございます」

『お米はまだあるの?』

「あー、うん。たぶん」

 母の問いかけに対し、ろくに確認もしないまま適当に反応する。が、やはり思い直しようやくベッドから上体を起こすと、開いたままの扉の隙間からキッチンを見た。

冷蔵庫の横、キッチンの隅に置かれたペットボトルに、少しの空気も入らないほど米が詰められている。計四本。

「あと四本あるよ。米びつにもまだ半分残ってる」

『そう、ならしばらくは持ちそうね。次帰って来るときにまた持たせるから』

「うん」

 力なく丸まった背中を壁に預け、どこを見るでもなく遠くに視線を飛ばしていた。

今年の春に大学三年生になってからもう五カ月ほどたった櫻井(さくらい)優(ゆう)華(か)は、既に一人暮らしの快適さに魅了されており、母から頻繁に寄越される連絡を些か鬱陶しく感じ始めていた。米の残量の確認ならわざわざ電話をかけてこなくてもLINEで済ませてくれたら楽なのに、と思わず心の中で呟く。

『ああ、それとバイトは始めたの? まだ?』

「……ああ、まだ」

『うちはお父さんもお母さんも働いてないんだから、そろそろバイトしてくれないと』

「またその話?」

今年に入ってから幾度となく繰り返されている話に、正直面倒な気持ちを隠せないまま反応した。通話音声をスピーカーに切り替えると、スマホを耳から離し枕の上へ軽く放った。父は還暦を超えており、数年前まで勤めていた郵便局を既にリタイアしていた。母は結婚当時から専業主婦をしている。優華は、学年が上がる少し前にカフェの皿洗いのバイトを辞めたきりになっていた。

現在の櫻井家唯一の働き手は、兄の優(ゆう)翔(と)が研修医として勤務していることであった。ただ優翔も、高校時代から交際している彼女と半同棲状態にあり、実家に給料を入れているという訳ではなかったはずだった。

『しょうがないじゃない。お姉ちゃんもこんなことになっちゃたし』

「こんなことって?」

母の言う〝お姉ちゃん〟とは、優華のちょうど十二歳上の姉、遥(はる)華(か)のことである。

『あれ、言ってなかったっけ? お姉ちゃん離婚したの』

「え、離婚⁈ お姉ちゃん離婚したの?」

 突然告げられた衝撃の内容に、反射的にスマホをもう一度手に取り握りしめた。

 遥華は四年ほど前、当時交際していた六歳年上の男性と結婚していた。優華にとって義理の兄という関係性ではあったものの、姉夫婦の住所が実家から遠い場所だったことや、姉の旦那さんがかなり無口な人であったことが手助けし、優華や優翔とはそれほど深い親交はなかった。優華がまだ実家にいた時も、両親とは何かあれば少しは連絡を取っていたのだろうが、それも年に数えるほどしかなかったと記憶している。特別便りがないのは良い便り——。そんな風に考え、てっきり順調に結婚生活が進んでいるものとばかり思っていた。

『正確にはまだ話し合い中だから、離婚になるまではまだちょっとかかるみたいなんだけどね。離婚が決まったら、こっちに帰って来るから。ほらお姉ちゃん、鬱病とか色々……働けないでしょ? だから、お母さんたちでまた面倒見てあげることになるから、ちょっと家計が厳しくなるの』

母は少々困ったようにそう告げた。しかしそんな言葉とは裏腹に、どこか語尾の調子が軽快で、さほど悩んでいる様子ではない。母のことだ。どうせ娘が自分の手元に返って来るのが嬉しいのだろう。「それ、もうちょっと早く教えてよ」

『とにかく、こうなった以上優ちゃんも家族のこと助けてね。よろしくね』

「うん……」

姉の離婚という事実に狼狽(うろた)えながらも、いつまでも経済的な面で父に負担をかけてばかりではいられないのだと、現実を受け止めようとする冷静な自分も生まれていた。

詳しく聞けば、離婚になる一年ほど前から夫婦関係が悪化していたらしかった。それに伴い、両親は姉からのSOSの連絡を受けるようになっていたそうだった。夫婦関係の悪化というのは、主に旦那さんからのモラハラを指していた。姉が準備していた料理が気に入らなければ、食べずにこれ見よがしにカップ麺を食べて放置、少しでも家事が行き届いていないところを見つけると姉を怒鳴り、弁当にひとつでも冷凍食品が入れば手抜きだと罵倒——。

『抱き着こうとしても、思い切り力を込めて体を突き放されたりしてたって。結婚する前はあんなに優しい人だったのにって、遥華泣くのよ……』

その内容のあまりの酷さに、優華は暫く言葉を失っていた。愛し合って結婚したはずの二人の姿はもうどこにもなかった。

『あんな男と一緒にいさせるぐらいなら、早くこっちに帰ってくればいいのよ。一生お母さんとお父さんの傍にいてくれたらいいのに。優ちゃんだって、結婚なんかしないでずっとお母さんの傍にいてくれるわよね』

母はそう言った後も、電話口でまだぶつぶつと何かを言い続けていた。

〝結婚しないでずっとお母さんの傍にいて〟

母の昔からの口癖の一つであった。もう何度も聞いているため、今更何かを思うこともない。初めて聞いた時は驚くような言葉でも、何度も言われているうちに、徐々に慣れていく。だんだんと慣れていき、優華の身体に蓄積し、やがて優華の一部として馴染んでいく。何も感じなくなっていく。優華は母の言葉に、ぼぅっ……と遠くを眺めながら意識が遠くなるような感覚がした。左手でゆっくりと下腹部を撫でる。ゆっくりと円を描くように手で腹を撫でていたが、暫く経ったところで腹がギュルリ、と嫌な音を立てた。その瞬間、優華はようやくはっと我に返ると、嫌な感覚を払拭するようにこれまでとは全く別の話題を切り出した。「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」

『何?』

「……あのさ、来年の春休みに彼氏と広島に旅行に行こうと思ってるんだけど、いいかな?」

『旅行? そんなのどうやって行くの? 広島なんて遠いし』

旅行、彼氏という言葉を聞いた母は、明らかに怪訝そうな様子で答える。電話の向こうでどのような表情を浮かべているのか、手に取るように想像が出来た。

「レンタカー借りて行こうって話になってて」

『車で⁈ 広島まで子どもだけで行こうとしてるの⁈ そんなのダメに決まってるじゃない! そんな危ないこと考えて……』

先程まで聞こえていた声色とはまた一変した声が、スマホの向こうから優華の耳に突き刺さる。怒号に限りなく近い声に思わず怯みそうになるが、必死に次の言葉を紡ぐ。

「子どもだけでって、二人とももう成人してるんだよ。今年二十一歳になるんだし……。それに、旅行なんてみんな友達とかと一緒に行ってるんだよ」

『十分子どもなの! 何を言い出すかと思ったら……。そんな危ない事させるために一人暮らしさせたんじゃないわよ』

 激昂している母は、電話口で良かったと優華を安心させるほどの迫力を有していた。対面していれば平手打ちを食らっていたかもしれない。少し震える手でスピーカーの音量を下げる。

「彼氏もすごく楽しみにしてくれてて、沢山考えて計画してくれてるんだよ。それに、費用はちゃんと自分たちのお金で賄うから」

『費用の問題じゃないの。それにその彼氏ってのも大丈夫なの? まだ子どもじゃないの! なのにそんな車で旅行なんてこと考えだすような危ない子なの? どうしてもって言うならお母さん、その彼氏と話すから』

捲し立てるように早口でそう話す母に、優華の口から困惑と焦りが混じったような弱々しい声が漏れる。

「話すって……どういうこと?」

『一体何を考えてるんだって、うちの娘を危険に晒す気かって。そもそも優華が彼氏なんて作るからいけないのよ!』

「だって……」

 元々弁が立つ方ではない優華であるが、母の前ではそれがひと際顕著であった。真っ白になり酸素の行き届いていない今の優華の頭が咄嗟に考え付くような言葉や意見は、母の常識の下では何の意味もなさなかった。無力であった。

『とにかく、そんな子どもだけで旅行なんて絶対だめよ。旅行に行きたいならお母さんたちが連れて行ってあげるじゃない。彼氏なんかと行くより、家族で行った方が楽しいに決まってるわよ』

「……そうだね。ごめん」

『わかったらいいのよ』

優華の言葉に母はようやく少し落ち着きを取り戻し、普段の穏やかな様子で答えた。

それから電話を切るまで一体何を話したのか、正直あまり覚えていない。母の機嫌が穏やかに戻ったことへの安堵から全身の力が抜け、半ば放心状態になっていた。いつの間にか電話は切れており、放置した画面は電気が消え真っ暗になっていた。

真っ黒な画面に優華の顔が映る。これほどまでに自分の情けない表情を見たのは久しぶりであった。こちらを蔑むような、憐れむような眼をしていた。画面に映る自分と目が合った瞬間、体がビクッと大きく震えスマホを咄嗟に遠くへ放り投げた。

 不快感を拭おうとベッドから立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫から冷えた缶ジュースを取り出すと、体へと流し込む。ジュースを飲みながらふと玄関の内ポストに目をやると、何やら封筒が届いていることに気が付いた。優華は缶ジュースを手に持ったままポストまで歩を進め、封筒を取り出した。封筒には「YAMASE文藝館」の文字が記されている。

 その文字を見た途端優華は缶ジュースをキッチンの台に置き、急いで封筒の口を開けた。少々乱暴に破かれた封筒から、丁寧に三つ折りにされた一枚の紙を取り出す。

「厳正なる審査の結果、残念ながら今回は落選というかたちで——」

 優華はその一文だけを読むと、深いため息をついた。がっくりと肩を落とし、リビングに戻るとまたベッドへと沈み込んだ。

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