まどろみを抱えて

 結奈はゆっくりと起き上がる。目覚めたばかりの意識に浮かび上がったのは、長い間、車に揺られてきたことによる不快な倦怠感だった。車内の窓から外を見ると鬱蒼とした森が見える。道路にはいたるところにヒビが入っていて、裂け目から雑草が生え出ていた。外に人影はなく、ただ車内にこもる仲間の生温かい息が不快感を誘った。


「起きたか、結奈?もうすぐ着くはずだぞ」

と運転席から、西本亮がこちらを見つめてくる。彼の目は虚ろで、強い眠気を感じていることが分かった。彼の顔には特に大きな特徴はなく、見た目はごく普通の青年に見えた。


「亮…私は、どれぐらい眠っていたの?」

「そんなには…な。結奈、マスクの準備はしておけよ。どんなのがいるか分からない」

「分かった……」


 結奈はそう言うと、マスクの画面を開く。目の前に現実には存在しない青い格子模様が現れ、複数のコマンドが表示される。マスクは結奈の脳に埋め込まれたマイクロマシンのプログラムで、特定の言葉や文字、記憶をブロックする機能を持つ。結奈は右上に小さく書かれた更新状況を表す数字を見ると言った。


「マスクのバージョンは最新。サイコシスに寄生される可能性は低いはず」

「それなら、大丈夫か……。まあ、戦闘の準備はしておけよ」


 それからしばらくたち、鬱蒼とした森は晴れ、小さな町が見えてくる。田んぼに囲まれた、いかにも田舎という印象を与えるその町が彼らの目的地だった。


 閑散とした田舎町に車が入っていく。ちらほらと人は見かけるが誰も俯いていて、結奈が乗った車が通りかかると視線を上げるが、その眼差しはどれも不安げだった。この一帯はサイコシスに襲われて、放棄された地区なのかもしれない。それを裏付けるかのように、行きかう人々がブツブツと呟いている言葉や壁に描かれた何気ない落書きがマスクに規制されて、記憶にすら残せないようになっていた。


 しばらくすると検問が見えてくる。木で作られた小さな門の前で数人の男たちが行きかっている。その時、一人の少年が門を離れて走り去った。恐らく人を呼びに行ったのだろう。


 大柄の男が車の前に立ち、その進行を遮る。車が止まるとバンダナを付けた青年が走り寄ってきて、窓ガラスをコンコンと叩くと言った。


 「何の用だ。サイコシスが暴れて街の一部が放棄されたんだ。用がないなら帰ってくれ、サイコシスが伝染しちまう」

と彼が言った時、後部座席に座っていた結奈に気が付く。バンダナを付けた青年は不敵な笑みを浮かべる。結奈はその意味に気が付いていた。サイコシスから身を守るために交通が絶え、インターネットが滅んだ現在、外界からの新たな遺伝子は貴重な資源なのだ。


「何だ?どうしたんだ?」


 そう西本が聞くと、青年は言った。


「その後ろに座っている若い女をくれたら、話を付けてやってもいいぞ。だって、お前らマレビトだろ?コメが欲しいのか、それとも金か」

「たしかに俺たちはマレビトだが、娼婦とは違うぞ」

「じゃあ、何だってんだよ? お前たち、何のために来たんだよ?」


 その言葉に西本は冷静に応えた。だが、心の中では怒りに震えているのだろう。


「俺たちは言葉を売りに来た。外界のニュースに、本、漫画、それにマスクの最新の更新データ、言葉に関連するものなら何でもあるぞ。ここで追い払っちゃ後悔することになる」

「お前たち、まさか……」


 青年は目を丸くして、そう言うと後ずさりする。それを見た西本は言った。


「知ってるだろ、西本書店っていう名前を。俺たちはサイコシスを売ったりはしない、全て情報防衛同盟の最新基準を満たしているぜ」


 そう言って、西本は微かに笑みを浮かべた。その笑みを見ると結奈はいつもほっとする。


 サイコシスによる崩壊を経験した現在、マレビトと呼ばれる旅商人が世界を行き来している。そして彼らは大きく分けて二種類に分類される。一方は芸者と呼ばれるものたちで、彼らは若い男や女を連れて各地に出向き、娼婦まがいの行為で遺伝子と物を交換する。そして、そのもう一方が書店と呼ばれる集団である。書店とは、芸者のように様々な手段で遺伝子を売るのではなく、言葉を売る集団の事である。


 多くのマレビトは半ば詐欺師のような集団で、遺伝子においても、言葉においても、サイコシスに寄生されるリスクのあるものを取引することがある。だが、西本書店はその点でまっとうな商売人だった。青年はマスクを起動して、西本から渡された本のページをめくる。規制される情報があればその部分が黒塗りになるはずだが、どれだけページをめくって、くまなく文字を追っても、そうなることはなかった。


「入れよ……。西本さん」

とバンダナの青年は言い残して、何所かへ行ってしまった。

  

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