4章 3話

 扉を開けるのがここまで憂鬱だったこともないだろう。

 ラルディムは廻し手に手をかけ、小さくため息をついた。


 ザミスに会うのも、父に会うのも、穏やかな気持ちでは難しいことだ。この六年間の沈黙はあまりに重い。


 しかしいつまでもこうしているわけにはいかないのだ、憂鬱を抑え、ラルディムは扉を開いた。


 控え室には予想通り彼の後ろ姿があった。


「おはよう、ザミス」


 くるりと振り返った彼は、その青い目でラルディムをじっと見つめ、小さく首を振った。


 それだけだった。


「悪いね、君も不本意な役目でしょう」


 ラルディムは口元に笑みを浮かべる。

 ザミスの答えは簡単なものだった。


「兄上の言いつけですから」

「ジスクにも迷惑をかけるね」

「貴方が迷惑をかけない相手が存在しますかね」

「その物言い、相変わらずのようで安心したよ」

「殿下も六年間お変わりなく」

「さぁどうだろう。君にとってはその方が良いかな」


 心臓が縮むような会話だ。

 ラルディムが言い返すのが意外だったのだろう、ザミスは少し顔を顰めて、しかしそれ以上何も言わず部屋を出た。


「行きますよ。陛下をお待たせするわけにはいきません」

「ああ。心得ているよ」


 自分に大した力はないが、近侍に口論で負けているようではあまりに情けないだろう。


 尊敬を勝ち取れなくても良い、彼には負けてはいけなかった。

 それはラルディムの弱さの証明なのだから。


 気まずい沈黙のまま長い廊下を歩く。


 朝の光の下では、なるほど美しい城だと思う。

 白い石造りの城は細やかな装飾に飾り立てられており、それらが光を跳ね返す。きらきら、きらきらと、その影の恐ろしさなど少しも感じさせぬ輝きを見せる。


 美しいものを美しいと感じられる余裕が残っていて良かったと思う。

 それすらもわからなくなったら終わりだ。


「……貴方はいったい何をしたんです」


 意外にもザミスが口を開いた。


「何、とは?」

「何が兄上を貴方のために動かせるのですか」

「さぁ。権威じゃないかな」


 ザミスが鋭い目で振り返る。

 彼が一番嫌う答えだとわかっていた。


「冗談だよ。そう怖い顔をしないで」

「…………」

「ジスクが何故良くしてくれるのかなんて、私にもわからないよ。本人に聞いてみてくれ。私も興味がある」

「僕には貴方にその価値があるように思えません」

「厳しいことを言うね」


 ラルディムは小さく笑った。

 そんな価値など確かに自分にはないだろう。


 しかし。


「価値あるものにだけ人生を懸けるのなんて、つまらない生き方だと思うけれどね」

「価値のないものに命は捨てられません」

「価値のあるものにも命は捨てては駄目だよ」


 ザミスのことをジスクは幼いと言ったが、本当に真っ直ぐな心を持っているだけなのだろうと思う。


 兵士が王家に何の疑問も持たず命をかけられるような、そんな世界観で生きてはいない。

 それはラルディムにとっても好都合なことだった。


 自分のために命をかけて欲しいとは思わない。


「はぁ。貴方がその綺麗な口で何と言おうとも、我々は貴方のために死ななければならない命運なのですがね」


 ザミスが辛辣な口調で言う。

 ふと思いついてラルディムは首を傾げた。


「父のために死ぬのであれば、君は納得かい?」


 この青年は父のことをどう思っているのだろうか。

 ザミスは面食らったかのように言葉を飲み込んだが、やがてため息と共に短く吐き出した。


「貴方よりはマシです」

「ふふ、聞いているのが私だけで良かったね。君は正直すぎるな」


 あまり良い評価は受けていないらしい。


 ラルディム自身も父を敬愛はしているが、彼の人のために命をかけられるかと言われれば答えは否だった。それほどの情はない。


 厳しい人だ。

 温度のない、冷たい人。


 だが情を用いて命を賭けさせるような王ならば、それもやはり悪だろうと思う。

 そのくらいの距離感がちょうど正義であるかもしれなかった。


 そんなことを考えていれば、いつの間にか執務室の前にまで来ていた。幼い頃は父に会いたくて何度か忍び込んだ部屋だ。


 六年も経てばその扉は小さく感じられて、不思議な心地だと笑みを浮かべた。


「僕は扉の外に。何かあればお呼びください」

「こんなところで何もないよ」

「でしょうね」


 本来は扉の中に立っていても良いはずであるから、彼なりに気を遣ってくれたのだろうと思う。あるいは自分と一緒にいるのがもう嫌だったのかもしれないが。


 ラルディムは扉の前に立ち、息をひとつ吐き出してから、戸を叩いた。


「父上、ラルディムでございます」


 部屋の中からくぐもった返答が聞こえる。


「入れ」

「失礼します」


 扉を開け、そこにいたのは懐かしい父の姿だった。


 記憶よりも少し老け込んだようであったが、濃い茶色の瞳は相変わらず鋭くラルディムを見つめていた。


「お久しゅうございます、父上」


 深く礼をすれば、父ファズレムは重々しく口を開く。


「……六年ぶりか」

「はい。長年の非礼をお許しください、陛下」

「良い。わざとらしく畏まるな」


 ファズレムは面倒がるように手を振り、溜息をついた。


「ロガレルから話し方も仕込まれたか?」


 ラルディムは困ったような笑みを浮かべる。


「彼は私の細かいことには何も口を出しませんでした。もちろん父子のことにも何も」

「彼には恩があるな。あとで礼の一つでも言っておくべきだろうか」

「恩を着せたいと思っての行動ではないはずです」


 言葉一つでも間違えれば、何かが崩れてしまいそうな予感がある。

 ザミスと話すよりも緊迫した会話だった。


「さて、世間話はどうでも良い。お前の今後について決めなくてはならない」

「廃嫡を受ける覚悟もできております」


 ラルディムはあえてその言葉を先に口にした。

 ファズレムの目が少しだけ揺れる。


「長きに渡っての不在、不義理、王家の資格なしと見做されても当然の行いです。全て陛下の意のままに」

「……いったいどこまで本気であるのか、私に測れないとでもお前は思っているのか?」

「陛下がそう望まれれば、私が本気であるかなど何の問題になりましょうか」


 虚勢だ。


 ここで戦うと決めたのだから、廃嫡されれば無論困る。

 王家を外れて生きていくような力も自分にはない。


 だが父が一度そうしようと思えば、誰にも止めることはできないのだ。

 それならば恐れているなどと知られぬほうが良い。


 ファズレムは長いこと沈黙していたが、やがて諦めたように目を伏せた。


「お前を廃嫡するつもりがあるのであれば、六年前にそうしていた。私の真意を測ろうとするのはよせ」

「……感謝します、父上」


 少しだけ肩の力が抜ける。

 父が自分を愛しているというのは、やはり思い過ごしではなかったようだ。


 この様子の人から愛を感じるというのはとても難しい話ではあるのだが。


 少しも笑顔を浮かべない父の様子に、ラルディムは内心で困りきっていた。


 温かい言葉があると思ったわけではない。

 だがこうも儀礼的なばかりでは困ってしまう。


「それでは父上は、私をどうするおつもりですか?」


 ここまでくれば小細工は無用であろう。

 正直に疑問に思っていたことを尋ねてみる。


 ファズレムはまた少し押し黙ってから、静かに口を開いた。


「跡を継ぐ気はあるんだな、ラルディム」


 ここで頷けば、自分の人生はその道に決まることになる。

 だがラルディムは迷わずに答えた。


「はい、陛下」

「ならばお前に求めることは王としての振る舞いだ。そのための道は用意がある」

「私に務まるでしょうか?」


 そう尋ねてみれば、ファズレムは眉を寄せる。


「私はお前のことをあまりにも知らない。それはこれからお前が示すことだ」


 果たしてこの父親を納得させられるほどの生き方が、自分にできるだろうか。


「次の評議にはお前も出席しろ。皆の振る舞いをよく見て学べ」

「ご厚意感謝致します」

「大きな議題はお前の友人の処罰についてだ。余計な口は挟むなよ」

「友人とは、ロガレルのことですか?」


 父親に何かが露見して呼び出されたとは言っていたが、王も交えての評議の議題になるようなことをしでかしたというのは、いささか驚かされることであった。


 ロガレルがそこまでことをしくじるのは珍しい。


「あの青年も少し好き勝手をやりすぎた。もちろん、お前とロベッタの件も含まれていることは忘れるな」

「……もうお耳に入っていましたか」


 もしかしたらまだジスクが報告していないのではないかと淡い期待をしていたが、そんなことはやはりなかったらしい。


 少し憂鬱な気分が増す。


 正直、ロベッタに行ったのは自棄だった。今冷静にそのことの説明を求められても、うまく言葉にできる自信はなかった。


「何がお前をそんな無謀な行為に?」


 父の問いかけにも、ラルディムはしばし言い淀む。


「……世界を見てみたかったのです。自分の目で」

「もっとマシな方法があっただろう。南部領や王都を見て回るのでもお前の好奇心は満たせたはずだ」

「仰るとおりです。長い間内にこもっていた心が、遠い空を望んだだけの話です。その結果生じた責任については、重く考えております」

「得たものはあったか?」


 それは王としての問いかけではなく、父親としての問いかけのようであった。


 ラルディムは目を見開く。


「……ええ。多くを学びました、得難いものを得ました」

「そうか。お前が無事に帰って来て良かった」

「父上……」


 何と言って良いのかわからなくなってしまい、声が震える。


 気を張って、父と息子ではなく王と臣下としての立場を心得てここに立っていたが、その緊張の糸が切れたようであった。


「イミアにも……母にも挨拶をしてやりなさい。あれもお前を気にかけている」

「……はい、父上」

「もう良い。下がりなさい」

「はい」


 深く頭を下げて、扉へと向かう。

 礼儀ではなく、敬意からの礼であった。


 王になるということは、一般的には父のようになるということだろう。

 何にも心を乱されず、肉親にも親愛の情を押し隠し、石のように鉄のように強く生きなければならない。


 それが自分にできるだろうか。

 きっとそうはなれないだろうという予感が、父と対峙した今ラルディムの胸には広がっていた。


 自分なりの道を探すより他ない。


「ザミス、母上のところに寄ってから戻る。もう少し付き合ってくれ」


 扉の外で待っていたザミスが黙ったまま頷く。

 城内で女性の生活区域は男性のものと完全に分かれている。

 王妃が持つ塔へは少し距離があった。


「親子の再会にしてはずいぶん短い会話でしたね」


 ザミスが皮肉っぽい口調で言う。


「私と父は再会を祝して抱き合うような親子ではないからね」

「寂しいことで」

「君はお父上とは仲が良いのだっけ?」


 ジスクと東部領主の確執は有名であったが、ザミスとのことは聞いたことがなかった。

 ロガレルが耳に入れないようにしていたのだろうが。


 ザミスがすっと遠い目をする。


「父上は僕を愛してくださっています」


 それは大分含みのある言葉だった。


「君は?」

「貴方に話すようなことはありません」

「すまないね、不躾な詮索だった」


 敬愛する兄と父の不仲には、彼自身も思うことがあるのだろう。

 皆何かしらの苦悩は抱えているのが家族というものなのかもしれない。


 いつかザミスとも正直に話すことができれば良いのにと思う。

 それは調子の良すぎる夢物語のようで、ラルディムにとっては必要な過程の一つであった。


 沈黙したまま石の城を渡っていく。

 途中見上げた空に、羽ばたく鷹が見えた気がした。


 トジュだろうか。


 眩しさに目を細めながら、ラルディムは空ばかりを見ていた。


 やがて見えてきた母の居室の扉を叩く。

 返事はなかった。


「留守かな」

「さぁ……」


 ザミスが首を傾げる。

 思いついて中庭を見下ろしてみれば、やはりそこに母の姿はあった。


 長い金髪が美しく風に揺れている。


「母上」


 思わず声をかければ、ラルディムと同じ翡翠の瞳がこちらを見上げた。


「ラルディム」

「はい、母上」


 懐かしいその声に頬が緩む。

 階段を駆け降りて母の元へと急ぐ。


 その途中で上へと急いでいた母と巡り会った。

 何か言う間も無く、その細い腕に抱きすくめられる。


「リディ、私の小鳥。よくぞ戻って来てくれましたね」

「ご心配おかけしました、母上」

「ずいぶん大きくなりましたね。もう背丈は私よりも高いのね」


 母との交流は引きこもる前から少なかったが、記憶通りの母の姿がそこにあった。

 胸が詰まるような気がする。


 身を離し、ドレスの乱れを直してイミアは微笑む。


「陛下にはお会いしましたか?」

「はい。お叱りを受けました」

「当然です。そうでなければ私が叱りつけていましたよ」


 怖い顔を作って見せる母に、ラルディムは笑みを深める。


「母上もお元気そうで良かったです」

「あなたに話すことがいくらでもあるんですよ」


 イミアは髪を耳に掛け直し、真面目な顔を作る。

 ラルディムも背筋を正した。


「あなたが王になるための教育は陛下や領主の皆様方にお任せしましょう。私からあなたに話すことは、わかりますね?」

「母上から私に?」


 思いつかずに間の抜けた顔をしていれば、イミアはゆっくりと口を開いた。


「王妃から王子にしてやれることは少ないですが、重要なことがひとつ」

「重要なこと……」

「あなたの結婚です」


 一瞬の沈黙が降りる。


「えっ?」


 素っ頓狂な声が出たが、間違った反応ではなかったはずだ。

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