4章 2話

 目を覚ます。


 ハクトは宿舎の木造りの壁を見つめて、ぼんやりとため息をついた。

 何か夢を見たような気がするがよく思い出せない。


 無意識のうちに疲れていたのか、深く眠りすぎたと反省する。


 夢は大概何かの暗示だ。覚えておくに越したことはない。ましてやこんな場所では、見る夢にも意味があるというものだろう。


「ハクト、起きてるか?」


 扉が叩かれる。

 ロルフの声だった。


「何?」


 扉を押し開ければ、いつも通り生真面目な顔をした彼が立っていた。


「サハト様がお呼びだ。いつでも良いから準備ができたら聖堂に来いと」

「あぁ、昨日のね」

「……気をつけろよ」


 ロルフが神妙な顔で言う。


「あの方も油断ならない御方だ」

「アンタらからしたら敵?」

「事はそう単純じゃないさ」


 確かに油断ならない雰囲気の男ではあったと思う。

 だがまぁ、神に関わる人間と親しくなるつもりも、油断するつもりもなかった。


「じゃあ気が向いたら行くよ」

「なるべく早く訪ねろよ」


 それだけ言ってロルフは姿を消す。

 面倒だなとハクトは舌打ちをした。


 自ら選んだことだが、好き勝手ができないというのは想像以上に神経のすり減るものだった。これまでの自分の立場はずいぶん恵まれていたのだなと思い知る。


 ロベッタはどうしているだろうかと思う。

 クリュソの属領になったという話はもうレオラにも届いているだろう。レオラがどう出るかだ。


 考えても仕方がないなと首を振る。

 なんにせよハクトにできることは早くロベッタを自分のものにすることだけだった。全く癪な話ではあるが。


 適当に髪を結い上げて、聖堂へ行こうと部屋を出る。

 どこもかしこも同じような造りのこの城は迷いやすいことこの上なかったが、幸いにも強い気配のおかげで迷うことはなかった。


 ぴりぴりと指先を刺激するような強い気配。

 やはりハクトの魔術は神由来なのだろう。神にまつわるものに強く反応するようであった。


 となると不思議なのはあの女王だ。

 なんの反応もなかった。

 考えてもわかることではないが、確かな違和感としてハクトの中に積もっていた。


 聖堂の扉をじっと眺める。


 入ってしまえば何か、一つ人生が動くような気がした。

 そのまましばらく時間が過ぎる。


「入らないの?」


 声をかけられて振り返れば、そこには一人の少女がいた。

 赤毛に明るい茶色の目をした、背の低い少女だ。質の良さそうなドレスの上に、黒いローブを羽織っている。


「聖堂は怖いところじゃないわ」

「……怖がってるわけじゃない」

「そう? なんだか緊張しているように見えたから。お祈りに来たの?」

「神に祈る趣味はないね」

「あら、私はお祈りが趣味よ」


 そう言って彼女は聖堂の扉を押し開けた。

 しん、と澄んだ空気が流れてくる。


「あら、伯父様」


 少女が嬉しそうな声をあげて、聖堂に駆けて行く。

 見ればサハトがそこにいた。


「おや、ファラン。それにハクト君も」


 柔和な顔に胡散臭い笑顔を浮かべ、サハトはゆるゆると手を振る。


「おはようございます、良い朝ですね」

「伯父様もお祈りですか?」

「私はここにいるのが仕事ですからねぇ」


 ぽんとファランと呼ばれた少女の頭を撫でて、サハトはハクトに向き直る。


「こちら、姪のファランです。ファラン、こちらはハクト君。最近この国の仲間になった子です」

「ハクトくんって言うのね。よろしくね」

「どうも」


 ぶっきらぼうに返せば、何がおかしかったのかファランはくすくすと笑う。


「さて、朝早くから呼び出してすみません。ハクト君にはお話があるので、別の部屋に行きましょう」

「あら、忙しいんですね」

「ファラン、お祈りならついでに花を変えておいてください。あなたの趣味に任せますよ」

「はい、心得ました」


 ファランは機嫌良く頷くと、祭壇の方へと行った。

 元気の良いやつだなと思う。


「さて、ハクト君。行きましょうか」


 サハトが歩き出した後を、そのまま着いて行く。

 聖堂の奥の扉を押し開けると、そこにはまたもう一つ建物があるようだった。


「神官たちが働いている場所です。宿舎もここにありますね」

「へぇ」

「普段は神官以外は立ち入らないのですが、まぁ君は特例ですね」


 どういう意味なのか測りかねて、別の話題に逸らす。


「さっきの子も神官なの?」

「ファランですか? この国では神官になるのは男だけですよ」


 サハトが説明するように手を広げる。


「女性で神術の適性がある子供は、神の端女と言って女王陛下の側仕えになります。ファランもその一人ですね」

「端女ねぇ」

「ふふ、あまり良い言葉ではありませんね」


 含みを持たせて呟けば、意外にもサハトは賛同を示す。


「とはいえ、扱いが悪いわけではありません。神の端女たちは次の女王候補ですから」

「王族から選ぶんじゃないの?」

「クリュソに王族はいませんよ」


 知らないことばかりだと思う。


「神の端女の中から、最も神力の強い適齢の女性が次の女王に」

「じゃあ女王って強いんだ」

「ええ、とても」


 サハトがにこりと笑う。


「特に当代の女王陛下はお強いですよ」

「ジラーグとどっちが?」

「二人は幼い頃からよく修練の相手になっていましたが、今はどうなのでしょうねぇ。幼いときはいい勝負だったとだけ」

「クリュソの女はみんな戦うの?」

「女性の兵士や士官は少ないですが、別になれない規則はありませんよ。クリュソは初代の女王が戦士でしたからねぇ、女性も戦う文化ではあります」


 ロベッタにいたせいで、戦う女というものには馴染みがなかった。

 カロアンはよく女子供と一括りにしていたが、大概庇護対象であり、仲間や敵ではなかったし、ハクトはさらに無関心だった。


 自分の人生にあまり関わりのないもの。


 しかしそうも言ってられなくなるのだろうなと予見できた。


 自分と違うものは厄介だ。煩わしくて、理解できない。


 サハトがハクトの顔を見てゆっくりと微笑む。


「しかしですね、人間なにも剣を握るだけが戦うことではありませんよ」

「へぇ?」

「各々の人生の戦いというものがありますから」


 そう言ったところで、一つの扉の前に立ち止まる。

 サハトはその扉を開く前に、しばらく考え込んでから、静かに口を開いた。


「……そうですね、ハクト君に一つ提案が」

「何?」

「君、神官になる気はありませんか?」

「はぁ?」


 予想外の申し出に変な声が出る。


「嫌だよ、オレは神なんて嫌いだ」

「そう言うとは思いましたが……」


 サハトは苦笑を浮かべ、しかし諭すように言葉を継ぐ。


「神を信じていなくても神官にはなれますよ。そもそも神官というのは仕組みなんです」

「何の?」

「特別な能力を持つ人を悲しみから守るための、そういう仕組みです」


 サハトが小さく手を振る。

 その手の上には、白い炎が揺らめいていた。


「この力を人を殺すために使うのは、あまりにも悲しくありませんか?」

「……そんなこと考えたこともないけど」

「人と違う変わった能力を持つ人間が、誰にも傷つけられず、そして誰も傷つけなくて済むように守るのが神殿の勤めです。神官になればあなたも人を殺さず、戦争とは無縁で生きられるようになる」


 ハクトは一種のめまいのようなものを感じていた。

 全く違う世界で、全く違う価値観で生きてきた人間の言葉だ。


 戦いたくないなど、人を殺したくないなど、考えるにも値しない。現実は迫ってくるのだから。ハクトにとって世界とはそういう場所だった。


「君のような年若い子供が、戦争に行くのは見てられません」

「……子供ね」


 子供として取り扱われたのなど、いつぶりのことだろうか。


「生憎、オレはもう子供じゃない。人を殺したこともあるし、自分の力だけで自分の人生を決められる」

「まだ子供でいても良いのですよ。その権利がある」

「そういう世界で生きてないんだ」

「……そうですか」


 サハトが諦めたように笑う。


 それを見て、自分はこの男のことを誤解していたのではないかとハクトは思った。食えない男ではあるが、その真意は言葉通り、何の裏もないのかもしれない。


「まぁ君には断られると思っていました。あとは君の人生に幸多からんことを祈るだけです」

「そりゃどうも」


 人生の選択だったな、とハクトはぼんやりと思った。


 ここでサハトの手を取っていれば、いくらか安らかな人生を送れたかもしれない。

 彼のいう通り、誰も殺さず、誰も傷つけず、小さな世界を守っていけたかもしれない。


「でもさ、オレが戦争に行かなくても誰かは行くんだよね。それならオレがいいよ」


 そう言って笑って見せる。

 サハトは少し驚いたような顔をして、それから目を細めた。


「おや、君はそんなふうに笑うんですね。悲しい覚悟ですが尊重しましょう」

「ありがとう」


 自分でも珍しく素直に言葉が出たと思った。

 照れ臭くて顔を背ければ、サハトが楽しそうに声を上げる。


「さて、では本題に入りましょうか」


 扉を二、三度叩く。

 中から短く、しかし不機嫌そうな返事があった。


「何です?」


 扉が開かれ、背の高い男が姿を見せる。

 白い髪が柔らかに揺れていた。


「おはようございます、ディアード。あなたにお願いしたいことがありまして」

「厄介ごとは嫌いなんですがね、サハト様」


 深い青の目が、ハクトを写す。

 その顔に見覚えがあるような気がして、まじまじと見返してしまう。


「それから礼儀のなっていない餓鬼も」

「まぁそう言わず。あなたが子供好きなのは知っていますよ」

「……帰れとも言えない身分なので中には入れてあげましょうか」


 そう言ってディアードと呼ばれた男は億劫そうに部屋の中へと引っ込む。

 サハトはハクトに顔を寄せて小声で言った。


「口は悪いけれど優しい人ですよ」

「そうは見えないけどな」


 部屋は殺風景なものだった。そこまで酷いわけではないが、本と必要最低限のものしかないその様子に、ロベッタの自室を思い出す。


「さて、もてなすことはできませんが、ご用件を」


 窓辺に佇み、手を組んでディアードが尋ねる。

 サハトはわざとらしく首を傾げてから、まるでとっておきの提案をするかのように口を開いた。


「簡単に言えば、この子の先生になってもらいたくてですね」

「お断りします」


 返事はにべもないものだった。


「おや、決断が早いですね」

「言ったでしょう。礼儀もなっていない餓鬼を躾けるのは嫌いです」

「難しいことを教えて欲しいわけではありません。次の試験までに領主の権限が得られるように、基本的な政治のことを少しと、礼儀作法と、それから神術のことを教えてあげてください」

「神術のことも?」


 ハクトが口を挟めば、サハトはにっこりと笑う。


「そういうのにも先生がいた方が良いでしょう。ルジームでは教えられませんし、キトさんも先生向きの性格ではないですしね」

「残念ですがどの先生にもなる気はありませんよ」


 話は終わりだと言わんばかりのディアードに、サハトが微笑みかける。


「引き受けてくれれば、これを最後の仕事にしても良いですよ」

「……というと? この国から出て行っても良いと?」

「流石にレオラに行かれては困りますが、国の中枢を離れてどこか好きな場所で余生でも。あなたももう疲れたでしょう」

「一考の余地が生まれましたね」


 ディアードが考え込むように顎に手を当てる。


「その子、読み書き程度はできるんですよね?」

「簡単なものなら」

「小難しい文書にも触れてもらわなきゃ困りますよ」


 ディアードの中で何やら利害を計算しているようであった。

 サハトがのんびりとした口調で言う。


「お願いしますよ、ディアード。子供の教育はあなたの得意とするところでしょう」

「たまたまそういう星の巡りだったと言うだけです」

「彼をこの国で生き延びられるようにしてあげてください」

「……結果の保証はしませんよ。その子の素質次第です」

「素質なら見込みのある子ですよ」


 勝手なことを言ってくれると思う。

 ディアードは深いため息をついてから、「わかりました」と首を縦に振った。


「良いでしょう。少しの期間なら先生ごっこをやってあげましょうか」

「ありがとうございます、ディアード。あなたなら引き受けてくれると思っていました」

「少年、名前は?」


 声をかけられ、改めて彼に向き直る。


「ハクト」

「古言語由来の名前とは優美ですね。歳は?」

「知らないけど十五くらい」

「十五? 十七くらいにはなってるでしょう」


 ディアードが怪訝な顔をする。

 ハクトは首を傾げた。


「なんでわかるの?」

「骨身の造りを見ればわかりますよ。小柄ではありますが十分に身体は完成しているでしょう」

「気持ち悪」

「本当に礼儀のなってない餓鬼ですね。敬語の一つくらい覚えなさい」

「親がいないもんで」


 肩を竦めて見せれば、妙に気まずい沈黙が降りる。

 神妙な二人の顔を見て、ハクトは顔を顰める。


「何、同情とかしないでよね」

「不幸は不幸として感じなさい」


 ディアードが言う。


「ろくでなしの親がこの世にいることは、親のいない不幸を軽減するものではありませんから」


 ロベッタに生まれている時点で、どうせろくでもない親だったのだろうということはわかりきっている。生まれた時からそもそもないものの不在を悲しめというのは、どうにも感覚的に理解できなかった。それならば離別の方が余程、悲しい。


「アンタは親に愛されて育ったようで良かったよ」

「ええ。愛情深い父母でしたね」


 ディアードはしれっとした顔でそう言うと、何事もなかったかのように別の話を始めた。


「それで、私に話を持ってきたということは、この子、神官にはならないんですか?」

「残念なことに」


 サハトが微笑む。


「ま、気が変わればいつでも」

「変わらないよ」

「だそうで」

「仲が良さそうで何よりですとも」


 ディアードがため息をつく。


「どこの国にも血の気の多い餓鬼はいますね。自ら戦争を選び取ろうとは」

「それ以外の生き方を知らないもんでね」

「ついでに教え込んであげましょうか」


 ディアードが笑みを浮かべる。ここまでの会話で初めてのことだった。


「教師になるのなら徹底的に教えますよ。正しい教育は人の世界を変えますからね」

「どうぞご自由に」


 ハクトは首を振った。


「自分の世界観なんぞにこだわりはなくってね」

「ここでは己を持っていないと食い殺されますよ」


 ディアードが忠告するように言い、サハトが苦笑する。


「そんな脅すようなこと」

「ですが事実です」

「否定はしませんが」


 この国がどんな魔窟なのかは知らないが、戦ってやろうじゃないかという気になる。あの気に入らない女王の鼻を明かすことも、まずは戦いの一つだった。


 そのやり方をこの男が教えてくれるというのであれば、しばらくは言うことを聞くのも悪くない。


 誰かに従うことが何よりも嫌いなハクトにとっては、自分の中にない決断だった。

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