4章 1話

 数ヶ月ぶりに帰ってきた自室は、まるで死んだように静まり返っていた。


 ラルディムは埃を被った書棚を払って、ぼんやりと窓の外を見遣る。


「明日の午前、陛下に謁見の予定です」


 ジスクが淡々とした口調で言う。


「私もロガレルも付き添うことはできません。お一人でお会いになってもらう予定です」

「うん……そうだね。変な気分だ」

「変な?」

「まるで家にいるという気がしなくてね」


 嫌な話だと苦笑をこぼす。


「この部屋もまるで死人の部屋のようだ。血が通っていない」

「……温かい家庭をお望みですか?」

「いや、まさか」


 そこまで夢見がちではない。

 だが実の父に六年ぶりに会うというのに、感じるものが緊張感と圧迫感ばかりというのも寂しい話であった。


「私の実家も同じようなものですよ」


 ジスクが言う。

 その表情がいつもより少し柔らかなものに見えた。


 ラルディムはふわりと笑った。


「君には良い弟がいる」

「手のかかる弟ですよ」

「でも良い子だ」


 ラルディムの真意を図りかねたのだろう、ジスクは黙り込む。

 全く慎重な人だと思う。


 ザミスと同じように自分のことを思っていたとしても、怒りも傷つきもしないというのに。ましてや二人の関係性に思うところなどなかった。


「ザミスは生きづらいだろうね」


 窓に身を凭せながら言う。


「ああいう真っ直ぐな正義感は、この古い国では通用することばかりではない」

「……子供なんですよ」

「でも彼が変わらず大人になってくれたことは希望だ。私はこの国をもう少しばかり新しくしたいと思っているからね」

「私怨がないように振る舞うのは如何なものかと思いますが」


 ジスクが居心地が悪そうに言う。

 ラルディムは黙ってその続きを待った。


「何も思っていないというのは嘘でしょう。貴方には恨む権利も、処罰する権利もある」

「……何も思っていないよ」


 ラルディムはゆっくりと首を横に振った。


「何か思っていたとしても、そういう私は六年で消えた。あるいはロベッタで死んだ」

「人はそう上手くできていません」

「時々思うんだ。私はもう個ではないのだと。そういう感覚だよ」


 個人的な感傷は時間の中に捨てた。

 ザミスのことを恐れる気持ちはあるが、それはもう身に染みついた反射のようなもので意味はない。


「心を置き去りに前に進むと、いつか行き詰まりますよ」


 ジスクの忠告に、ラルディムは小さく頷いてみせた。


「行き詰まるその時までが私の時代だね」

「……長生きしてください」

「もちろん、頑張るとも」


 伝わってないと思ったのだろう、ジスクは呆れたような困ったような顔をして、曖昧に首を振った。


 とはいえラルディムの言葉には嘘はない。


 早々と死ぬつもりなどないし、意地汚く少しでも長く生きながらえてやろうと思っている。ロガレルもジスクも、どうもその辺りを誤解しているらしかった。


「ともあれ、明日の朝は愚弟を寄越します。それまでゆっくり休まれてください」

「ああ、よろしく頼むよ」


 去っていくジスクの後ろ姿を見ながら、気に入ってくれたというのはあながちロガレルの軽口でもないのかも知れないと思う。事情は知らないが、ジスクの態度は想定より遥かにラルディムに好意的だ。


 喜ばしいことだ。


 だがジスクの思う自分と、実際の自分には齟齬があるような気がしてどうにも居心地が悪い。それも仕方のないことなのだが。ロガレルですらラルディムのことを正確に捉えてはいない。


 本当の自分などを知っているのは、ロベッタのあのみんなだけかも知れないと思う。


 しかしその本当の自分からも離れていくのだ。

 ジスクやロガレル、彼らが思う自分に近づかなければならない。

 自分を騙してでも、変わっていかなければならないのだ。


 それはひどく窮屈なことだった。


「……散歩にでも行こうかな」


 外套を羽織り、扉を押し開ける。

 ラルディムの部屋は庭園にすぐ出れるような場所に作られていた。


 ふと、一人で行動するなというロガレルの警告が頭を掠めたが、少しの息抜きくらいならば問題にならないだろうと思う。

 誰かと常に一緒にいるというのは息が詰まる思いだった。


 足音を潜め、庭園の石の道を踏む。

 夜風が長い髪を揺らす。

 心地良かった。


 幼い頃からこの庭は好きだった。

 よくこうして風に当たりに出たものだ。


 白い石で作られた道と、咲き誇る季節の花。少し歩けば小さな噴水もある。今の季節は終わりかけの薔薇と百合の花が庭を飾っていた。


 この庭はラルディムが生まれた時に作られたものだと聞いている。

 共に育ったとは言い難いが、それでも気詰まりな自室よりはいくらか思い入れのある場所だった。


 美しい庭だ。


 そんなことにぼんやりと思いを馳せつつ、東屋に向かって木々の梁を抜けた時、ラルディムは驚いて足を止めた。


 人影がある。


 思っても見ないことだった。


 ここはラルディムの庭だ。立ち入り禁止というわけではないが、皆ラルディムのことを尊重して、あるいは忌避してここには寄りつかない。


 まさか母や父かと思ったが、そこにいるのは若い男のようであった。


 気づかれる前に立ち去ろうか。


 少し迷って、そうする方が賢明だと確認する。

 そっと背を向けて足を踏み出す。


 しかしその場所が悪かった。


 乾いた枝を踏みつけ、ぱきりと小さな音が鳴る。小さな音ではあったが、静かな真夜中の庭園ではその音はよく響いた。


「誰だ?」


 東家にいた男が立ち上がってこちらへと歩いてくる。

 走って逃げようかとも考えたが、どうせ逃げ切れはしないだろうとラルディムは黙って足をとめた。


 後ろから首筋に剣を当てられる。


「子供か? ゆっくりこちらを振り向け」


 言われた通りに振り返る。


 近くで顔を見たが、知らない男だった。そもそも知ってる人は多くはないのだが。


 男の方もラルディムに見覚えはなかったのだろう、首を傾げる。


「見ない顔だな。こんなところで、こんな時間に何を?」


 敵とは見做していないのだろう、男の質問は穏やかな口調だった。


「…………」


 どう答えたものかと思い、沈黙してしまう。

 適当な嘘が咄嗟に思いつかなかった。


「怪しいな、名を名乗れ」


 男の声が険を帯びる。

 いっそ本当のことを言ってしまおうかと考えたところで、もう一人の声が飛んできた。


「何してる、ソジット?」


 その声を聞いて全身から力が抜ける。

 ラルディムは安堵の声を漏らした。


「ロガレル」

「ラルディム様?」


 現れたロガレルは、その状況を見てさっと顔を青くする。


「何をしてる、ソジット! 剣を下ろせ、誰だと思ってる!」

「はぁ、ラルディム様って、まさか?」


 ソジットと呼ばれた男も驚いたように声をあげて、剣を下に向ける。


「この人がお前の秘蔵っ子か?」

「馬鹿言え、お前の主君になる御方だぞ」


 ロガレルが硬い口調で言う。


「さっさと剣を納めて、その方から離れろ」

「はいはい。これは失礼しました、ラルディム様。まさか貴方とは思わず」

「良いんだ」


 ラルディムは額の冷や汗を拭いながら首を横に振った。


「こんな時間に一人でこんなところにいる私が悪い」

「全くですよ、ラルディム様」


 ロガレルが険しい顔をする。

 こんなに怒っているロガレルを見るのは初めてのことだった。


「一体どういうおつもりなのか、ご説明いただけますね?」

「……ただ、風に当たりたくなって」

「一人で行動するなときつく言い含めたつもりでいたのですがね。貴方の判断力を信じたことをがっかりさせないでください」

「すまない、言い訳のしようもないよ」

「言葉ほどにでも反省してくれていれば良いのですが」


 確かに軽挙だったと言わざるを得ない。

 反省は大いにしている。


 だがラルディムの関心は、自分の身よりこんなところにいる二人へと向けられていた。


 ここで待ち合わせていたのだろうが、一体なんのために?


 しかし疑問に思っても聞くわけにもいかず、ただ黙っていると、恐らくは顔に出ていたのだろう、ロガレルが大袈裟にため息をつく。


「全く、本当に反省していますか?」

「大いに」

「じゃあもう少しくらい好奇心を抑えてください。平時なら貴方の美点ですが、今晩はそういうわけにもいきませんよ」

「……私の庭で君たちが何をしているのか、気にするのは当然のことではないかな?」

「怒られて落ち込むとか、反省して気落ちするとか貴方にはないんですか」


 ラルディムは少し考えてから、ゆっくりと首を横に振った。


「殊勝さは君から教わってない」


 教えた記憶もなかったのだろう、今度はロガレルが黙り込む。

 声をあげて笑ったのはソジットだった。


「残念だな、ロガレル様。アンタの負けだ」

「勝ち負けじゃないね」

「いいや勝ち負けだよ。口の巧さで全てを決めるのがアンタ流なんだから、大人しく負けを認めなきゃなるまい」


 ソジットが笑いながらラルディムの肩を叩く。


「それにしても俺で良かったですね。いきなり殺してくる異常者もいないとも言い切れない城ですから」

「本当に、その通りだよ」

「ま、世界は貴方の敵ばかりでもないので、こいつほどピリピリすることもないんですがね」


 ここに来てから楽観的な言葉を聞くのは初めてだった。

 変わった人だと思う。


「……ところで貴方は、ロガレルの臣下?」


 ふと気になって尋ねてみれば、忘れてたと言いたげにソジットは手を叩く。


「そうだ、紹介すらもされてなかったじゃないか。俺はソジット、ロガレル様の忠実な部下であり、目であり耳であり手足です」

「そこまで高評価しているつもりはないけどね」


 ロガレルが不満げに鼻を鳴らす。


「精々幼馴染というところです」

「君に友人がいたとは」

「友人じゃあないですね」


 ということはまぁ、友人なのだろう。

 なんだか微笑ましい気持ちになって頬を緩める。


「しかしなんだ、アンタはラルディム様に俺のことも話してなかったのか。間諜としてだいぶ良く働いたと思うんだがね」

「必要のない情報はお耳に入れていないんだ」

「全く。幼い子を狭い世界に閉じ込めて何がしたいんだか。アンタの臣下たちにくらい引き合わせても良かったんじゃないか?」

「それが良い結果を招くと考えれば、そうしただろうね」


 ロガレルの返答はにべもないものだった。

 言っても埒が明かないと思ったのだろう、ソジットがラルディムの方を向く。


「貴方だってこいつとばかり顔を突き合わせてるんでは退屈だったでしょう。それこそご友人の一人や二人欲しい時期なのに」

「ロガレルは私の良き隣人だよ」

「ま、友達作りはこれからでもできますがね。俺も貴方の良き隣人であれるよう努力しますよ」


 差し出された右手を握れば、大仰な仕草で手の甲にキスをされる。

 面白い人だ。


「お前とラルディム様の交流を認めたと思うなよ」


 ロガレルが釘を刺すように言う。


「お前はご友人にするには素行不良だ」

「悪い友達の一人くらい必要さ。ねぇ?」

「どうだろう。でも貴方のことは好きだよ」


 ロガレルが彼に似合わぬ無表情でため息をつく。


「こうなるだろうから嫌だったんですよ」


 その一言には様々な含みがあるような気がして、ラルディムは首を傾げた。


 今日のロガレルの態度は妙だ。

 怒っているからかと思ったが、そもそもこうして明らかに怒るのは彼らしくない。


 何か別件で気を揉んでいるのだろうか。

 だとしてもラルディムにそれを知る術はなく、どうすることもできなかった。


 じんわりと無力感が指先に広がる。

 結局のところ、城に帰っても身分に戻っても、自分にできることは何もないのだ。


「さて、ラルディム様。明日もお早いんでしょう。戻りますよ」


 ロガレルが気を取り直したように言う。


「君たちの用事は良いのかい?」

「貴方の前で話すようなことは何もありませんよ」

「なに、ちょっとした報告会ですよ。お気になさらず」


 ソジットがにこりと笑う。


「俺は普段諜報活動でレオラを開けがちですから、時々こうして報告を。人がいない便利な場所ですからね」

「なるほど」

「まぁロガレル様の耳に入れることを貴方に聞かれても問題はないんですが、こいつが良い顔しないだろうから、今日はお帰りくださいね。また今度お話ししましょう」

「よくわかったよ、ありがとう」


 ロガレルが自分に多くの秘密を持っているのは、結局のところ自分を守るためだろうとわかってはいるが、それでもこうして事情まで話してくれると心が落ち着くような気がした。


「ラルディム様」


 ロガレルが真剣な顔で何かを言いかけたような顔をして、それから首を横に振る。


「……いえ、なんでもありません」

「そうかい?」

「明日は頑張ってくださいね」


 そう言ってにこりと笑う顔はいつも通りのロガレルで、それ故に先程まで感じていた違和感がより強くなる。


 ロガレルは自分に何を秘密にしていて、何をしようとしているのだろうか。


 知らなければならない、と思う。


 彼が秘密にしようとも、彼の隣に並び立って生きると決めたのならば、知らなければならない。


 ラルディムはこっそりと手のひらを握り込んでいた。

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