4章 4話
「報告に来るとは君も殊勝になったものだね」
ルジームが面白がるように言う。
ハクトは肩を竦めた。
「お勉強は夕方かららしいから暇でね」
「それにしてもあのディアード君が引き受けるとは思わなかったよ」
「あいつ、何なの?」
あの場にいたからには神官なのだろうが、会話の端々からどうやら単純ではない事情のようなものが感じられた。
そうだな、とルジームが目線を遠くにやる。
「詳しいことは本人の口から聞いた方が良いと思うが、彼はポレット人でね」
「クリュソの人じゃないんだ」
「ポレットの神官、神兵であったから今も神殿に所属しているが、厳密にはこの国の神官ではないし、色々複雑な立場なわけだ」
ポレットの神兵というのは以前聞いた名前だ。気軽に交戦してはいけないという相手。
弱い人間の言うことを聞くのは癪であるから、好都合だと思った。
「ポレットってのはどんな国なの?」
「それこそディアード君に聞いた方が良いだろう。まぁ、話してくれるかはわからんがね」
「ふぅん?」
「事情は複雑なんだ」
ルジームが薄い笑みを浮かべる。
この男もなかなか掴めない男だと思う。
情に薄い人間だとは思わないが、人としての温かみはまるで欠けている。酷薄そうにも見える。
ルジームがどのような人間であろうと、もはやハクトは問題視してはいないのだが、やはり腹の底に何があるのかは気になるというものだった。
「しかしまぁ、神官たちと関わるのであれば気をつけなさい」
「何を?」
「神秘を用いて戦争をするというのは神官の基本理念に反することであるからね、君をよく思わない者は多いだろう」
「別に、好かれようとは思ってないさ」
よく思わないからといって、いったい自分に対して何ができるというのだろう。
「どちらかというと、オレが神官たちに靡くとアンタに不都合があるからって意味に聞こえるけど?」
言葉を選ばずにそう言ってみれば、ルジームは声をあげて笑う。
「はは、君は賢いな。そろそろ君を御せると思うのは改めた方が良いか」
「何、図星だったってこと?」
「君に神官たちと親しくされては困るからね。せっかく見つけた君なんだ、牙を抜かれてしまっては仕方ない」
「ご心配なく。オレは平和主義者にはなれないさ」
今更戦いのない人生に馴染めるはずがない。
ハクトの世界は単調で荒んだものだった。
「サハトは君を庇護しようとするだろう。私にはそのつもりはない。後ろ盾程度にはなってやれるが、君の安寧を願うような心はないからね」
ルジームが真面目な顔で言う。
「君が自身の平穏を望むというのであれば、サハトの手を取るのが賢いだろう。あれは食えない男だが、守るものは必ず守る」
ルジームの指摘は事実だろう。
平和に、幸せに生きたいのであれば、神官にでもなれば良かったし、彼らと親しくするのは有効な手段だ。
しかしハクトは首を横に振った。
「平和に生きるのは難しくてね」
穏やかな世界に自分の居場所はないと思う。
そんな世界では生きられはしない。
それは生まれつきの業であり、自分の中で育ててしまったどうしようもなさだった。
「それに誰かが戦っている時に安全地帯にいるのは性に合わない」
「なるほど。君とは気が合いそうだ」
ルジームが微笑む。
「ディアード君は君の良い教師になると思うよ。よく学びなさい」
「はいはい、それなりに真面目にやりますよ」
ハクトは適当に手を振って、ルジームの部屋を後にした。
ここの大人たちと話すのは肩が凝って仕方ない。
皆真剣に色々と考えすぎなのだ。もっと気楽なのが良い。
ここで暮らしていれば、いずれ自分もそうなるのだろうか。
ふとそんなことを思ったが、くだらないなと首を振る。
自分は自分だ、なるようにしかならない。
薄曇りの空からはまた雨が降っていた。
────────────────────────
夕方の聖堂は薄暗く、厳かな雰囲気に満ちていた。
「本当にここでやるの?」
嫌だと思ってることを隠そうともせずそう言えば、「仕方ないでしょう」とディアードは言う。
「私の仕事は聖堂の夜の管理です。ここを空けるわけにはいかないので、お勉強会はここで」
言いながらディアードは指先から燭台に小さな光を灯していく。
それは火ではなく、雷の光のみを映し取ったようであった。
「昼間にやれば良いじゃん」
「誰もが君みたく不眠症だと思わないことです」
言ってないはずのことを指摘され、首を傾げる。
「わかる?」
「酷い顔してますからね」
こんなやりとりを別の立場でした気がする。
ハクトはこっそり笑みを浮かべた。
「眠ると夢を見るから嫌なんだ」
「悪夢ですか?」
「というより、予知夢かな」
「変わった能力ですね」
ディアードが不思議そうな顔をする。
「予知の能力は特別ですよ。あまり観測されてはいません」
「でも時々はいるんだ」
「星の精霊術師をご存知で?」
ハクトは首を横に振る。
知るわけもなかった。
「精霊と契約を交わす、精霊術師という人たちが昔いましてね。中でも星の精霊と契約を交わした人間は未来予知ができるとかなんとか」
「でもオレは星の精霊なんて知らないよ」
「生まれつきですか?」
どこまで話したものかと思案する。
この男に信用がおけるかどうか、判断がつかなかった。
知識のある人間ではあるだろう。だがそれと、個人的なことを明かすかは別の問題だ。
黙り込んだハクトに、ディアードがため息をつく。
「秘密主義ですね。良いでしょう。なんでも話せとは言いませんよ」
「そうなんだ」
「私もお前に私のことを話すつもりはありません。平等でしょう」
「ポレットのこと聞こうと思ってたんだけど」
「全く、誰から聞いたので?」
ルジームの名前を出せば、二度目のため息をつかれる。
「あの男は……」
「仲悪いの?」
「あの男と仲の良い神官なぞいませんよ」
「なんで?」
「質問の多い子供ですね。戦争屋を好きな神官がいるとお思いで?」
戦う兵士と、戦わない神官。
その間の確執は深いのだろう。
「でもアンタは神兵ってやつなら、戦争やってたんでしょ」
疑問に思って聞いてみれば、ディアードは微妙な表情を浮かべる。
過去を懐かしむような、それでいて軽蔑するような表情だった。
「でも戦争は嫌いです」
「オレも嫌いだけど」
「その気持ちを忘れないことですね。慣れると人は簡単に忘れますから」
戦争なんてのは必要だからあるもので、あるから仕方なく加わるもので、好きでやっている奴がいるなどとは思えなかった。
ましてやルジームがそうだとは。
「ルジームも別に戦争は嫌いだと思うけどな」
「あれは怨みに取り憑かれた亡霊のような男です。仮に戦争を終わらせることができたとしても終わらせない、そういう男ですよ」
「……へぇ?」
それはハクトの知らないルジームの話だった。
裏に、陰に、何かあるのだろうとは思っていたが、そう言われるような側面があるとは思ってもみなかった。
ディアードは肩を竦める。
「まぁ他人の悪口はよしましょう。私があれを嫌いというだけです」
「戦争のことで意見が合わないから嫌いなの?」
「……ポレットは美しい国でした」
ディアードが目を伏せる。
「侵略者たちを好きにはなれませんよ。この国の人間は皆嫌いです」
複雑な立場、ということだ。
だがその立場は、今の自分のものに似ていると思った。
ロベッタにとってクリュソとは侵略者だ。ハクトには彼らを恨む理由も権利もある。
ディアードと同じように彼らを拒絶しないのはなぜだろう。
故郷への愛が薄いからか、それとも牙を抜かれたと感じたあの瞬間で終わってしまっただけか。
「さて、無駄話はこのくらいにしましょう」
ディアードが手を叩く。
「クリュソの政治体制については少しくらい理解はあるんでしょうね」
ハクトは頷く。
ロベッタからクリュソに来るまでの道中で、簡単な説明はルジームから聞いていた。
「よろしい。では領主の試験までに身につけなくてはいけないのは行政法の辺りですかねぇ」
「思ったけど、外国人なのにこの国の制度に詳しいの?」
「そりゃあ生きるために身につけましたよ。君と同じです」
ディアードが口元を少し持ち上げる。
「だからサハトも私を君につけたんでしょうね」
「同じ立場同士仲良くなれるって?」
「さぁ。君次第ですよ。優秀な子供ならば好きですからね」
嫌われるのは面倒だが、好かれようとも思えない。
まぁなるようにしかならないだろう。
目の前のことをやるしかない。
ハクトは手渡された本を開いた。
────────────────────────
聖堂を出たのは夜も更けた頃だった。
真っ暗な城内には誰もいない。
元々人気のない場所ではあるが、暗闇の中で見るとなんとも不気味だった。
ここは神の気配が強すぎる。
いるだけで頭が痛くなりそうだった。
ふっと耳元に雨の音が響いた。
空を見上げても星は瞬いている。
嫌な話だ。
ハクトは廊下にぐずぐずと座り込んだ。
目をきつく閉じる。
黒く、しかし光を反射して紫に光る鱗。
雨のように降り注ぐ黒。
冷たい手。
薄暗がりに差し込む光。
小さな青い花。
「どうしたの、お前」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
乱雑な像は掻き消えた。
そこに立っていたのは女王だった。
黒い面布の奥は何も見えない。
「アンタは……」
「酷い顔ね」
女王が顔を覗き込むようにしゃがみ込む。
うっすらと、その向こうに顔が見えたような気がした。
「……眩暈がしただけ」
目線を逸らすように立ち上がる。
「ふん、不健康なのね」
女王はからかうように言うと、小さく笑声をあげた。
「こんな夜に何をしていたの?」
「女王陛下がこんな夜に何を?」
「別に、ただの散歩」
「一人で? 不用心なんだな」
「侍女を連れて歩くのは好きじゃないの。自分の身くらい自分で守れるわ」
大した自信だと思う。
だがあのジラーグと同等に渡り合えるというのなら、その自信もただの過信ではないだろう。
「ちょうど良いわ。不用心と思うなら、お前、少し私に付き合いなさい」
「はぁ?」
「着いてきて」
そういうと後ろを確認もせずに女王は歩き出す。
ハクトが着いて来ると確信しているようであった。
それも癪なのでこのまま帰ってやろうかとも思ったが、さっきの後で自室に戻る気にもなれずその後を追う。
長い黒髪が風に揺れていた。
「アンタ、名前は?」
思いついて尋ねてみる。
女王は振り返ってまた笑った。
「馬鹿ね。この国の女王は、即位するときに名前を捨てるのよ」
「前の名前はあるでしょ」
「もう誰にも呼ばれぬ名前よ、要らないものだわ」
それは何だか、酷く悲しいことに思えた。
ハクトは黙って女王の後ろ姿を見つめる。
夜がそうさせるのだろうか、その姿は普通の少女のものに見えた。
「名前がわからないんじゃ、なんて呼んだら良いのかわからないな」
「陛下と呼びなさい。私はお前の王よ」
「恭しく接されるほうが良いの?」
「……確かにお前に慇懃にされてもむしろ無礼に感じるわね」
少し考えてからそう言うと、女王は良いことを思いついたとでも言いたげな様子で指を立てた。
「じゃあこうしましょうか。お前、私の研究に付き合いなさい。そうすれば名前を教えてあげるわ」
「別にそこまで知りたくもないけど……」
「良いじゃない。遊びみたいなものよ」
「研究って?」
「魔術の研究」
秘密を明かすかのような声で女王は言う。
意外な言葉だった。
「神術じゃなくて?」
「その二つに本気で違いがあると思っているの?」
そう言われると黙るしかなかった。
ハクトと神官たちの違いは洗礼を受けたかどうかだ。
だが神の手に触れたあの瞬間を洗礼と呼ぶのならば、同じものだと思うこともできるだろう。
「魔術と言っても色々あるわ。精霊術、死霊術、召喚術、象形術なんかが有名な話ね。クリュソではその全てを神術と呼んでいる、それだけよ」
「オレのはなんて分類されるわけ?」
「好きに呼びなさい。でもレオラに上がっていた報告書では、妖術と呼ばれていたそうよ」
確かにジスクもそう呼んでいたと思い出す。
何故クリュソの女王がレオラの報告書の内容を知っているのかは、聞かないほうが良いのだろう。
「ね、お前も興味あるでしょう。共同研究者になるなら、私の個人的なことを教えてもいいわ」
「別にそんなにアンタに興味があるわけじゃないんだけど」
「私は研究対象としてお前に興味があるわ」
ありがたくない言葉だ。
「共同研究者なのか研究対象なのかはっきりしろ」
「どっちもよ。私は研究者だし、自分自身も研究対象だわ」
ここで彼女の提案を受ければ、面倒なことになるだろうというのは予知がなくても予見できた。
だが正直に言って魔術の正体には興味がある。
自分自身の正体についても。
「研究って何するの?」
「気まぐれに色々と。今はお前が殺したあの魔獣の輸送を待っているところね。届いたら解剖してみるわ」
「個人的に研究してるわけ?」
「魔術の研究なんて公的には認められはしないわ。私の趣味よ」
「趣味ねぇ」
いい趣味をしてると思う。
「一人でやってるの?」
「侍女の何人かと、ジラーグは知ってるわ。お偉方も勘付いてはいるでしょうね。でも協力は要請したことないわね、あの子たちの信仰に傷をつけるのは可哀想じゃない?」
「お優しいことで」
「その点、信仰もない、正体不明の魔術を持ってるお前は私にとって好都合というわけ」
確かにその通りだろう。
この国で神に属していない神秘は、知る限りではハクトとキトしかいないようであった。ならば立場も軽く、女王の好きにできるハクトは都合の良い存在なはずだ。
女王が楽しそうに言う。
「さて、ここまで聞かせたのだから、協力しないなんてのは許さないわよ」
「協力するなんて一言も言ってない」
「質問好きの代償と思いなさい」
「協力ねぇ」
ハクトはゆるゆると首を横に振る。
「知っての通りオレは学識も何もないし、ろくに役に立たないと思うよ」
「自尊心が高い割に自分を低く見積もるのね。矜持を傷つけないための防衛策かしら?」
「嫌なこと言うね。自分を冷静に見てるだけさ」
「能力がないのなら身に付けなさい。自尊心に見合った人間になるべきよ」
できないことも、知らないことも多い。自分の力なんてものはちっぽけで、世界や社会に通用するとは思えない。
ここで生きていくことは決めたが、どうなりたいのかは未だに曖昧だった。
一生兵士として生きるつもりも、領主として生きるつもりもない。
だが何になれるというのだろう。
育ちすぎた自尊心を満たせるような何かになれるのだろうか。
ハクトは小さく首を振った。
「良いよ」
今できることは全てやろう。
何か掴めるなら、何も掴めないとしても、前に進むにはそうするより他ない。
「研究、手伝ってやるよ」
「良いお返事。さあ、ちょうど着いたわ」
女王が扉を押し開ける。
そこは展望台のようになっており、小さな庭園が作られていた。
夜風が強く吹き付ける。
女王はハクトの手を取って、その端まで歩いて行った。
手すりから外に大きく身を乗り出す。
「美しいでしょう。私の国よ」
眼下には街の灯が広がっていた。
きらきらと、目の中を光が駆ける。
「ああ、綺麗だ」
言葉がそのまま口から溢れる。
彼女は白い手をハクトの頬に添えた。
その冷たさに目線を戻す。
「ユシレよ。私の名前。よく覚えなさい」
そう言ってユシレが面布を捲る。
「私の目を、顔を、忘れないで。お前が命を懸ける相手よ」
真っ黒な美しい瞳だった。
綺麗だと。
海を見た時のように、街を見た時のように、そう思う。
意志の強そうなはっきりした顔立ちに、両の目が真黒に光っている。
二人の顔が近づく。
何の間違いか、衝動かわからなかった。
今自分の目に、最も美しい瞬間が映っているのだと確信する。
ただ自然に、そうすることが当然のように、唇が重なった。
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