1章 7話
今日この日の、この選択を、生涯悔やむことになる。
ハクトは鈍った脳でそんなことをぼんやり思った。
雨で髪が顔に張りつく不快感と、それを遥かに上回る不快な現実。
ぱしゃり、とぬかるみを踏んだような足音がした。
右手に握る短剣を音の方に向ける。
「ハクト?」
夜闇と雨のせいで何も見えなかったが、その不安げな声には覚えがあった。
「……リディか」
「ごめん」
気が抜けた。
ハクトは何も言わずに短剣を収めて、それから倒れるようにして地面に寝転んだ。
泥の感触が気持ち悪い。
「どうしたの?」
不審に思ったのか、リディが近寄ってくる。
ハクトは憂鬱を隠さない口調で言った。
「寄るなよ」
「何故?」
「死体がある」
「……尚のこと心配になったよ」
夜闇の中に白い髪が見えた。
夜の中で見る彼はまるで月明かりみたいだと、ハクトはそんな呑気なことを脳のどこかで思う。
目を凝らしてやっと視認できるような距離だったが、それでも今リディがどんな表情をしているのかわかるような気がして、ハクトは彼から顔を背けた。
背けた先で、現実と目が合う。
ハクトは暫し呆然とそれを見つめていた。
「失敗した」
呟けば、リディが慎重な口調で言う。
「……何があったか聞いても良いの?」
「案外こういうのには怯えないんだな」
意外にもリディは、非常に落ち着いた様子で死者とハクトを見下ろしていた。
困ったように眉を寄せてはいるが、その顔からは感情らしいものは見て取れない。
「平気なわけでもないよ。もちろん怖いさ」
「でも冷静だ」
「焦ってもどうにもならないのが死でしょう」
簡単なことかのように言って、リディはハクトの隣に膝をついた。
死体にそっと手を伸ばし、その脈を取る。
「……うん、死んでいるね」
「そう言っただろ」
「これは君が?」
「そうじゃなかったら何でこいつはここで死んでるんだ?」
「それもそうだね」
ハクトは訳がわからない思いでリディの顔を見た。
一人でいた時よりもよほど混乱している。
何故こいつはこんなにも普通でいられるのだろう。
今、目の前の死体を、ハクトを見て何を思っているのだろうか。
初めての殺人だった。
殺すつもりなどなかった、いつものように追い払えば良いと思っていた。
「風邪ひきそうだ、このままじゃ」
空を見上げてリディが不意に言う。
「は?」
「雨がひどくなってる。とりあえず屋根のある場所に行こうよ」
「…………」
「このままでも良いけど」
ハクトの沈黙をどう受け取ったのか、リディはハクトの隣に、ぬかるみも死者も気にせず座り込んだ。
雨音のおかげで夜の静寂がないのが救いだった。
居心地の悪さに顔を顰める。
「銃か」
リディが死体の手に掴まれている物を見て言う。
事実をそのまま口にする、無感情な言葉。
「銃にしちゃ小さい」
ハクトの知る限り、銃というのは腕の長さ程度もある大型の武器だが、この死体が持っているものは精々肘から手首まで程度だった。
慎重に死者の手からそれを持ち上げながらリディが答える。
「最近、クリュソを中心に小型化が進んでるんだ。あの国は何でも先進的だし、戦争のおかげで発展も早い」
「戦争のおかげ、ね」
リディは興味深そうに短銃の銃口を指で撫ぜた。
「そういう面もあるってだけ。火薬の跡があるな。撃たれたの?」
「多分。でも当たってない」
「この雨じゃ不発にもなるか。無事で良かった」
「死んでる奴を前によく言うよ、お前」
「私に関係ないからね」
冷淡にも感じる声でリディはそう言い切った。
「レオラ人は銃を使わないから、この遺体はクリュソ兵だ。私にとっては、君が生きていて良かったという事実以外はないな」
「……冷酷なことで」
「こんなご時世だ、冷酷で構わないよ」
「戦争呆けしてる」
ハクトは短く言い捨てた。
戦争、戦争。
この世界は二言目にはそれだ。
強い国々が勝手にどこかで戦っていて、ロベッタのような小都市が、そこに住む人間が、その皺寄せを食う。
あるいは今夜のように、取るに足らない一人の命が消えるのだ。
レオラもクリュソもその他も、一体何のために戦争なんてしているのだろうか。
ハクトたちにはそれさえわからない。
「……クリュソか、面倒だな」
ハクトは小さく呟いた。
最近クリュソはロベッタに姿を見せていなかったが、これが何かの引き金になるかもしれない。
「そうかな」
リディはそう言って首を傾げる。
白い三つ編みが夜の中に揺れた。
「クリュソは少なくとも今は戦争に踏み切れない。何か余程のことがなければ、ロベッタには手を出さないと思うよ」
「戦争ができない?」
「女王が代替わりしたばかりだって、前に言ったでしょう? 今回即位したのは十七の少女だ。宰相もほぼ同時期に変わったこともあって、今のクリュソは戦争ができるほど安定していないはずだ」
「詳しいんだな」
「それなりには、ね」
リディは銃を死者の手に戻して、それからふと思いついたようにその瞼に手を置いた。
口の中で何かを呟いて、目を閉じさせる。
宗教的な言葉ではないだろうと、根拠もなく思った。
温室育ちの貴族の側面と、もう一つ、リディは何かの顔を持っているようだった。
死を恐れることもしなければ、血や何ともしれない体液が手につくのにも一切頓着しない。兵士でもないというのに。
頭がおかしいのだろうかとハクトは半ば本気で考える。
「お前、変だよ」
頭痛のしそうな現状に吐き捨てるように言えば、リディはいつものように微笑む。
「自分が殺した死者の横に寝転ぶ君だって、大概変だよ?」
「これをただ変で済ませられる精神が変だって言ってんだよ。人殺しとよく談笑できるね」
「兵士だって人を殺してる。私の周囲はそういう人間が多かったから、別に君が誰かを殺したって驚きも困惑もしないよ」
「死体に慣れてるのもそのせいか?」
質問というより、指摘を込めた言葉だった。
お前は何者なのだと、短剣の代わりに言葉を突きつける。
リディは少し迷うように口を噤んで、編んだ髪を指先に絡めた。
綻んで編み目が緩んでいく様は、雨の中に銀糸が少しずつ流れ出していくように見える。彼のことをカロアンが妖精といった意味がやっとわかった気がした。
単に世間離れしているだとか、風変わりな容姿と雰囲気だとか、そんな話ではない。
同じ人間であって欲しくないのだ。
幻想の中にいる生き物だと、遠く離れた存在だと思えば、彼と自分の相違を諦められる。
彼と自分たちの埋められない差が、生まれではなく種族の差であってくれれば良いと思えてくるのだ。
そして何より、そんな思考をしてしまう自分が心底嫌だった。
リディは自分と同じ弱い人間だと、よく知っているのに。
「……やっぱり屋根の下に行こうよ」
長い沈黙の末、リディはそう言った。
夜の底のように翡翠色が揺らいでいる。
「長い話をするなら、雨は良くない」
「……お前がそうしたいなら」
じゃあ、と立ち上がったリディの後を追うようにハクトも地面から身を起こす。
この瞬間を知っていた。
あの日覗き見た未来と同じだ。
泥のついた後ろ姿は、非人間的な彼に何とも不似合いだった。
────────────────────────
「ここ、空き家だったんだ」
西門の隣、元は詰所だった建物だ。
ハクトはなるべくリディの方を見ないようにして答えた。
「今は誰も門の警備なんてしないから」
「君たちがしてるでしょう。使わないの?」
「真面目に常駐なんてすると思うのか?」
「思わない」
リディが微かに笑う。
雨の中で見たのとは少し違う、人間的な笑顔だった。
つられるように口元が緩む。
廃屋とはいえ、濡れていない場所に腰を落ち着けたことで少しずついつもの調子に戻っていくのを感じた。
現在の実感と同時に、現実に直面する。
髪を伝う雨水と泥が気持ち悪かった。
「くそ、面倒事ばかりだ」
何にともなく悪態を吐く。
「落ち着いてきた?」
「最悪なことにね」
「それは良かった」
そう言ってリディはハクトの隣に腰を下ろす。
「ハクトは、人を殺したことはないって言ってたよね」
何を言いたいのか読めず、ハクトはただ黙って頷く。
「殺したくなかったの?」
「……別に。他国の人間を殺せば厄介ごとになるかもしれないと思ってただけ」
言いながら、自分に嘘をついたなとわかってしまう。
カロアンやその仲間が前の守護者の旧世代を始末した時も、ハクトは誰一人として殺さなかった。手を汚さなかった。
理由はいくらでも言える。くだらない勢力争いのためにそこまでする気になれなかっただけだと、自分ではそう思っていた。
だが人を殺した今ならわかる。
無意識のうちに、誰かから何かを奪った代償を受け取ることを避けていたのだ。
殺せば、殺した分だけ生きなければならなくなる。あるいは自分も殺されることになる。
死が怖いわけじゃない。
責任を負いたくなかったのだ。
いつだって、全てのものから自由でありたい。
そんな内側の願いは、今晩脆くも崩れ去ったのだが。
「大丈夫だよ」
リディが微笑む。
「人を殺しても、君の本質は変わらない」
「殺さないで済む人生のほうが良いって言ったのはお前だ」
「そうだね。無辜のままでいられるのは幸福だ。だけど誰しも幸福になれるとは限らない。幸福でなくても人は人だけれどね」
まるで言葉遊びだった。
ハクトはため息をついて、長い髪の毛を弄る。
人を殺してしまったというショックはある。だがそれよりも、その現実を自然に受け入れた自分の方に戸惑っていた。
そしてハクト自身よりももっと自然に受け入れた、リディの態度にも。
「お前も人を殺したことがあるの?」
「私が? まさか」
リディはあっさり否定した。
それから言葉を選ぶように考え込んで、ゆっくりと話し出す。
「人が死ぬ瞬間を見たことがある。それも一度じゃない」
翡翠の目が過去を見るように遠くに向けられる。
ハクトは何となくその先を追ったが、当然ながらリディと同じものを見ることはできなかった。
「……誰が死んだの?」
「毒味役だったり、護衛だったり、あとはまぁ敵だったり。色々だね。それなりに親しい人もいたよ」
つまりそのいずれも、本来死ぬ予定だったのはリディだったということだ。
全くもって笑えない。
その経験がリディの性格に影を落としていることは、ほぼ間違いないだろう。
ハクトは知らずのうちに顔を顰めていた。
「随分な目に遭ってんだな」
「酷い目に遭ったのは私じゃないさ」
軽く発せられた言葉は、何かに封じられたように沈鬱に沈み込む。
夜が深すぎた。
「私の代わりに誰かが死んで、私は何もなかったかのように生き残る。いつもそうだ」
「……貴族ってそういうものなんだろ」
「そうかもね。でも私は……耐えられないかもしれない」
少し寂しそうにリディは目を伏せた。
「人は死んで永遠になるというけれど、それはずっと生者を追い詰めるということだ。彼らはずっと、情けないままの私を見ている。彼らの代わりに生き延びたというのにね」
ここにいるのは、ただの一人の少年だった。
先ほど見せたような冷酷さはもう欠片もない。
もっと完全に、冷淡になって仕舞えば良いのにとハクトは思う。
自分の命は他より重いのだと自分の生を手放しに喜べる、強くて冷淡な人間になれば良い。
そうなれないなら、いっそ逃げて仕舞えば良い。
こんな期限付きの家出ではなく、人生と運命の全てから逃げて、弱いままの自分を守れば良いのだ。
「逃げれば良い」
そう言ってみれば、リディは微かに首を傾けた。
「君もこの街から逃げてない」
事実をただ突きつけられる。
ハクトは耐えきれず顔を伏せた。
「逃げるのは怖いよ。そんな強さは、大抵の人間は持ち合わせていない」
「……オレがここにいるのも臆病の結果だって言いたいのか?」
「みんなそんなものでしょう」
その声色には軽蔑も自嘲もなかった。
事実を読みあげるかのような無感情。
一体どれだけの諦めが彼という人間を作り上げているのだろう。
「オレはお前のそういうところが嫌いだ」
だろうね、とリディは頷く。
「私も私が嫌いだ」
強い風が壊れかけの窓を揺さぶる。
がたがたと不穏な音がしたが、リディの言葉ほど恐ろしくは聞こえなかった。
深く暗い、自己嫌悪。
「昔ね、近しい人にまた生き残ったのかと詰られたことがあるんだ」
気まぐれのように紡がれた言葉から、リディの根幹が浮き上がる。
それは酷く些細で残酷な開示だった。
「その時は傷ついたけれど、今ならわかる。何も成せないくせに他人の命に寄生して生き残るなんて、疎まれて当然だ」
「それはお前のせいじゃないだろ」
「私が守られなくても良いほど強ければ、彼らは死ななかった。そうでなくてもせめて、守られるに足るだけの価値があれば良かった」
価値、と言う言葉をハクトは思わず繰り返した。
馬鹿らしくて、しかし笑い飛ばせはしない、根本的な言葉だ。
ハクトは自分が価値ある人間だと、そう信じている。信じる一方で、自分が持っている価値では自分は満たされないと理解していた。
リディが我に返ったように目を開く。
「ごめん、ハクト」
「なんで謝るんだよ」
「こんなこと、話されたって困るでしょう?」
別の話でもしようよと、リディは窓の外へと顔を向けた。
相変わらずの大雨で、夜の先は何も見えない。
「そういえば雷は止んだのかな」
リディが何気なく呟く。
ハクトは身が引き攣るのを感じた。
「君に会う前に雷を見たと思ったんだけれど、一回きりだった」
「よく見てるよ、お前は」
自分でも声の震えに気がついた。
振り向いたリディが心配そうに眉を寄せる。
「ハクト、どうしたの? 大丈夫?」
「ああ」
「酷い顔してるよ」
伸ばされたリディの手を払う。
一瞬、閃光が走った。
ハクトの顔からさっと血の気が引く。
青白い、鋭い光。
雷。
リディは驚いたように目を見開いた。
隠し通したかったのに。
さっと顔を背けて、ハクトは拳を握りしめた。
「ハクト?」
脳がばらばらになるように思考がまとまらない。
言葉のひとつも浮かばなかった。
何か言わなくてはいけないというのに。
「……怪我してないよ」
ひどく呑気な言葉が渡される。
「大丈夫。何も問題ない」
そう言ってリディはひらひらと手を振ってみせた。
ハクトは嘲るように笑おうとしたが、頬が引き攣るだけで思うような笑顔は浮かべられない。
「問題ない? 問題しかないだろ」
「問題ないよ。君が何をできようと、何を隠していようと、私に何か問題がある?」
その言葉は利己的すぎて、あまりに彼らしくない。
リディは他人のための言葉と本音を器用に使い分けられる人間なのだと、もうよくわかっていた。
彼が何を言ってくれようとも、何の意味があると言うのだろう。
ハクトは沈黙に顔を埋めた。
感情を鎮めるために、ただ呼吸のことだけを考える。
雨音だけが二人の世界を支配していた。
一分、あるいは一時間。
もしかしたらほんの数秒だったかもしれない。
気が遠くなるような沈黙の末、リディが口を開いた。
「ハクトは、魔術が使えるのか」
質問ではなく確信の言葉だった。
ハクトは目を逸らしたまま緩々と首を振る。
「わからない」
「……雷の魔術と、それから予知の能力も持っているから、今日何が起きるか知っていて雨の夜の外出禁止を出した。違うかな」
「…………」
「良いことなんじゃないかな。隠す必要なんてない。君は君の才能を役立てているだけだ」
「才能?」
吐き捨てるように言う。
「そんなものじゃない、呪いだ」
「でも君のそれで助かる人がいるのだから。私にはそう悪いものには思えないな」
「オレは他人のために生きたりしたくない」
誰かのためになるならそれで良いと思えるほど、ハクトは綺麗には育っていなかった。
リディが困ったように眉を下げる。
「でも君は誰にも秘密を話さないで、自ら犠牲を引き受けているじゃないか」
「望んだことだろうって? それ以外に生き方なんてなかったんだ。何も自分で選べなかった」
「生まれを呪うのはわかるよ」
「そりゃどうも。でも同じことを思っていたって現実は正反対だ。わかるんじゃなくて、わかるだけなんだよ」
現実は残酷だ。
リディはハクトではないし、ハクトもまたリディではない。
どれだけ互いに共感を示そうとも、理解しようとも、それ以上の何かがあるわけではなかった。肩代わりも、共に背負うことだってできはしないのだ。
傷つけたかと思ったが、リディは納得したように頷いた。
「……確かにそうだね。おまけに私は君のことを知らなすぎる」
「……お互いに。オレだってお前のことを知らない。お前は正体不明なうえ、自己開示が下手すぎるから」
「自己開示が下手なのは君もだよ。それに私の正体なんて、今更どうでも良いでしょう?」
知って何が変わるのだとリディは笑う。
彼がどこの誰であろうと、ハクトはもう彼のことを外敵だとは見做していなかった。リディも同じだろう。
敵でないなら、何だって良いじゃないか。
「君の前にいる私が、君にとっての本当ではいけないかな?」
翡翠の瞳を細めてリディが言う。
「言葉には裏があって、違う顔を持っていて、君の知らない私も在って。でも何もかもが嘘なわけじゃない。私も君の全てを知ろうとは思わないよ。私の見る君だけが、私にとっての君だから」
それでは駄目かなと言うリディに、ハクトは何も言葉を返さなかった。
言おうとすれば、何だって言えただろう。
ただ、言葉にするまでもなかった。
「お前にオレはどう見えてるわけ」
笑い混じりにそんなことを尋ねてみる。
リディはそうだねと、悩むように窓の外を見遣った。
「……主人公かな」
真剣な声で、思っても見なかった言葉が紡がれる。
「なんだよそれ」
「誰しも自分の人生の主人公ではあるのだろうけど、君は中でも特別に見える。運命力って言うのかな、この世界の主人公のようだと、私は思う」
「運命ね」
「そういう話は嫌い?」
「オレは神ってやつが嫌いだから」
ハクトは肩を竦めて言った。
「……神が本当にこの世にいるって言ったらお前は信じる?」
「私はね、この目で見たものしか信じない。神秘とは無縁に生きてきたから」
リディが無神論者なことはハクトも気がついていた。
神を信じる人間にしては、あまりに悲観的だ。
でも、と続けて彼は言う。
「君の言葉なら、信じてもいいかもしれない」
「……それじゃあまるで盲目だ」
「信じられる人の言葉は信じるものでしょう」
そう答えたリディは全くの本気のようで、ハクトは少し笑って、自分のためにもう一度口を開いた。
「……ずっと昔、その神ってやつから魔術を押し付けられた」
ハクトは遠い昔を思い出しながら言った。
長い黒髪と、夜のように底がない真っ暗な目を覚えている。
それ以外は靄がかかったようだった。
確かなことは、ソレが神を名乗ったことと、その邂逅で自分の人生が一変してしまったことだけだ。
「あれが本当に神なら、確かに運命ってやつにオレは組み込まれたのかもしれない。でもオレは、そんなものに縛られて生きたくない」
「……なるほど、君らしいや」
「お前はもっと、神の存在に抵抗すると思ったけどね」
「私にそんな強い自我はないよ」
本気か冗談かわからない調子でそう言って、リディは何かに触れようとするように宙に手を伸ばした。
「神がこの世にいたってね、本当は関係ないんだ。信じるものは自分で選べるから」
「強い自我だろ、それ」
「はは、そうかもしれない。でも自分にとって揺らがないものがあるなら、何に抵抗する必要もないんだ。私はそうなりたい」
自分の核として身を委ねられるほど確かな何かを、この人生が終わるまでに得られるのだろうか。
特別を、大切を持つことができるなど、思ったこともない。
思ってはいけないと知っていたから。
でももしかしたら、それは大きな間違いだったのかも知れない。
ハクトは自嘲のようでどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「自分のことを人間じゃないと思ってた。あいつらと同じにはなれないって」
化け物か、神の人形か。どちらにせよハクトは、神に出会ったあの日以降、自分が変わってしまったと思っていた。
カロアンやアニエ、他の皆を拒むのもそのためだ。知られたらここにはいられなくなると、本気で思っていた。
あまりに、臆病。
「良いんじゃない、人間じゃなくても」
とん、とリディの肩が自分の肩にぶつかる。
「誰も気にしないよ。君が君であることは変わらないんだから」
「……あいつらは気にするよ」
「そうかな? じゃあ、私は気にしない」
大丈夫だよと笑うその顔が、夜空のようだと思った。
夜は何もかもを引き受ける。
「元々君は、私にとっての神様みたいなものだしね」
笑いながら紡がれたその言葉に、自分勝手だとハクトは思う。
どうせすぐこの街から、ハクトの前から消えるというのに。
主人公だの神様だの不相応な言葉でハクトという存在を肯定して、そのくせすぐにどこかに消えてしまうのだ。
全く酷い話だった。
「私、本当はこの街に来る前から、君のことを知っていたんだ」
自惚れでないならそうだと思っていた。
ハクトは微かに頷いた。
「……どうしてロベッタに来たのか、もう一度聞いても?」
「うん……君に会って、自分がどう見えるか知りたかったんだ。私は自分というものを持っていないから」
リディの口調から、本気でそう思い込んでいるのだろうとわかる。
少なくともハクトには、彼が自分を持たない青年には見えなかった。強い、自己否定の呪いがかかっているようだ。
リディは夢見るような語調で続ける。
「私よりも歳下の少年が、自分の街のためにレオラの兵士を追い払ってしまうだなんて話、聞いたときには何かの物語だと思ったよ。だから髪を切る前に、大人になる前に、君に会ってみたかったんだ」
「会えて良かった」
そう口を挟めば、リディはふっと微笑んだ。
「私もそう思う。私は本当に弱くて、君に会わなかったら。きっとずっとそのままで良いと思っていた」
「オレに会わなくたって、お前は弱くないよ、リディ」
彼が弱いなんて、そんなはずがない。
しかしリディは首を横に振った。
「また生き残ったのかと言われた話、したでしょう? あの日以来、私は人が怖いんだ。多分もっと前から心の底で恐れてはいたのだろうけど、それがきっかけになって、六年間だ。六年もの間、私は自分の部屋に閉じこもっていた」
「六年……」
「笑っちゃうよね。本当に臆病で、弱くってさ……」
どうして笑えるだろうか。
聡明な少年を、過度な自己卑下と自己嫌悪に陥入らせてしまうだけの恐怖を、六年というその長すぎる影を、どうして笑えるだろうか。
ハクトは言葉よりも先に、リディの頬に手を伸ばした。
涙の雫が指先に広がる。
「笑わないよ。お前もオレを笑わなかった」
「……君は優しいね」
リディが戸惑ったように言う。
「……ずっと死に場所を探していたけれど、君といると、何故か生きていても良いように思えてしまう」
「良いよ、オレが許してあげる」
難しいことは何も考えず、ただ思ったままを口にする。
肯定する。
自分の前にいる相手だけが自分にとっての本当だと、リディは言った。
今この瞬間、リディだけがハクトの本当で、ハクトだけがリディの本当だった。
「やっぱり、君は私の神様だ」
リディが笑う。
疑うまでもなく、その言葉も笑顔もハクトにとっての真実だ。
ハクトは緑の目を細めて笑い返した。
「うん、なってやる」
過去に呪われている。
自分では自分を肯定できない。
信じられるものなどなかった。
二人とも、どうしようもないほどの同じ孤独を持っている。
それでもいつかは一人きりで歩き出さなくてはいけない。
リディがそうしたように。
「オレも、いつかこの街を出るよ」
ハクトは自分に言い聞かせるように、そう言った。
「ずっと遠くまで、逃げてみたい」
逃げることと戦うことは、きっと同じだ。
どこにも行けないと言う前に、どこかへ行ってみたかった。
「……ねえ、ハクト」
リディが悩むような表情で口を開く。
翡翠色の瞳と目があった時、ぱちりと何かの予感がした。
予知とは違う、未来への強い確信。
リディもそれを感じたのか、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、なんでもない」
ハクトは黙って頷く。
今日のような日は二度と来ない。
二人の人生が同じ場所に置かれることは、きっともう二度とない。
「雨が止んだら戻ろうか」
飲み込んだ言葉の代わりのようにリディが言う。
「きっと皆も心配してる」
ハクトは目を伏せて頷いた。
「知ってるよ」
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