1章 6話

「そんなところにいたんだ」


 夕暮れ時、西門の上にハクトを見つけたリディは、見上げるようにして手を振った。


「ああ、何か用?」

「暇だから探してただけ」 

「じゃあ上がって来いよ」


 機嫌が良いのか、ハクトが門の上から手招きをする。


「どうやって?」

「裏に梯子がある」


 柱の裏側を除けば、長いことそこで風雨にさらされていただろう、古びた梯子がぶら下がっていた。

 木製の格は見るからに痛んでいるし、綱も擦り切れそうだ。

 リディは困ったようにハクトを見上げる。


「これで登るの?」

「壊れやしない。まぁオレは使わなかったけど」

「じゃあどうやって上がったのさ?」

「あの家の屋根から跳んだ。梯子の方がまだマシだろ」


 ハクトが指差した家は、おそらく元は見張りの詰所用に作られたと思われるものだった。そのため門に隣接はしているが、それでも跳んで渡れる距離とは思えない。そもそも家の屋根に上がる方法だってわからないのだ。

 リディは諦めたように格に足をかけた。

 ぎしりと嫌な音を立てて木が歪む。


「あんまり体重かけんなよ」

「そんなこと言われたって、それは無理でしょう」

「まぁお前の体格なら大丈夫だよ」


 縄の軋む音をなるべく聞かないようにしながら、一段ずつ登っていく。下を見たら怖くなりそうだったので、ただ目の前の一段だけを見つめていた。


「風が吹いたら、足止めろよな」

「え?」


 身長の倍くらいの高さになった時だろうか、ハクトが言うのとほとんど同時に強い風が吹いた。

 ぐらりと身体が浮くような感覚がして、慌てて両の手にぐっと力を込めたが、そもそもしがみついている梯子が揺れているのだからどうすることもできない。

 思わず下を見てしまったことを、リディはすぐに後悔した。

 それほどの高さではないと分かっている。落ちても怪我さえしないかもしれない。

 それでもこんな高さで、不安定な梯子しか縋るものがないのは恐ろしかった。


「上見ろって」


 声に促されて顔をあげれば、呆れたようにハクトが手を差し出していた。


「ほら」


 恐る恐る片手を梯子から離して、ハクトの手に掴まる。

 自分とほとんど変わらない大きさの、しかし遥かに力強い手だった。

 ぐっと門の上に引き上げられる。

 宙を浮くような感覚にリディは目を瞑った。 


「はは、本当に臆病だな」


 からかいの言葉だったが、不思議と不愉快ではなかった。

 やっと安定した所に身が降りる。

 不格好に、這うようにして門に上がったリディは、その先に広がっていた景色に小さく息を呑んだ。


「悪くないだろ?」


 ハクトの言葉に、何を返すでもなくただ頷く。

 生まれて初めて本当の空を見たと思った。


「……夕焼け」


 やっと口から零れたのは、言葉というよりただの事象で。

 リディは鮮やかな空から目を離すことができなかった。

 薄い雲の奥から差し込む光は、空も街も、この世の全てを燃やそうとするかのように光っている。


「君の色だ」


 隣を見る。

 風になびくハクトの髪は夕陽に溶け込むようで、リディは不意に彼がいなくなるのではないかという感覚に襲われた。

 この街から去るのは自分の方なのに。

 ハクトがすっと目を伏せる。


「この時間が一番嫌いなんだ」

「嫌い?」

「耐え難いから」


 説明にもなっていないような言葉だけ返して、ハクトはまた空に顔を向ける。


「お前が来て良かった」


 今この場所についての言葉なのか。自惚れて良いなら、この街に来たことについてだろうか。

 そうであって欲しいと、リディは思った。


「……ハクトは、どうして髪を伸ばしているの?」


 夕焼け空が嫌いなら、それこそ耐え難いだろうにと思う。

 ハクトは小さく笑った。


「似合うから」

「それだけ?」

「……多分、見つけて欲しいんだと思う」


 切実な声だった。

 その人間らしい姿に、リディはただ息を詰める。


「こんな目立つ色してるんだ、見つけてくれるかもしれない」

「……誰が?」

「親」


 簡単だけれど、確かな答え。


「オレは父親も母親も知らないから。名前だって誰がつけたのかも知らないし、伝になるのは容姿くらいだ」


 同じ髪を持つ人が、そしてそれを愛した人がどこかで生きていると。そう信じているのだ。

 リディは何故だか泣きたいような気持ちになった。

 当のハクトは笑っているのに。

 ハクトにとっては両親の不在も長い髪に掛ける想いも日常の一部に過ぎず、その慣れがどうしようもなく哀しい。


「まぁ、とっくの昔に死んでると思うけどね。癖になった願掛けみたいなものだ、大して意味はないよ」

「願掛け、か」

「らしくないだろ。キャロとかには言うなよ」

「言わないよ」


 リディはこくりと頷いた。

 自分が聞いても良かったのだろうか。

 考えかけて、意味がないなと思い直す。

 彼が話してくれたということだけが事実としてあるのだから。

 リディは微かに笑った。

 この街に来て、考え方が少しずつ変わっている気がする。


「君とカロアンって不思議だね」

「何が?」

「親しくても齟齬があるのかと最初は思っていたけど、今日はそんなことないようにも思える」

「あーそういうことね」


 ハクトは苦々しげに顔を歪ませて、それから門の上に寝転んだ。

 長い髪が古ぼけた木材の上にぱさりと広がる。


「オレはあいつのことよくわからないし、あいつもきっと同じなんじゃない?」

「そっか。二人とも難解だものね」

「ただ何となくわかるのは、互いに互いが邪魔なんだ。嫌いじゃないけど、あいつさえいなけりゃってどっちも思ってる」


 疎ましさともまた違うのだろう。

 細分化された一つの感情をそこに当てはめることは無意味だ。

 ハクトが何故答えてくれるのかわからないまま、リディはただ頷いた。


「じゃあ離れればいいけど、対立するほど嫌いじゃないから仕方ない。あいつに従属したくはないけど、従属させたいわけでもない。面倒だから考えたくもない」

「それは……まるで家族みたいだね」


 ハクトの新緑の目がぴたりとリディを映す。


「そんな、温かいもんじゃないよ」

「温かいだけが家族でもないんじゃない? 私なら、そういう相手を家族って呼ぶ」

「……お前の家族はそうなの?」

「まともに家族と付き合っていたらこんな所にいないって」

「そっか」


 家族ね、とハクトが呟く。

 関係に名前をつけるのなんて無粋だが、そうすることで相手への思いがはっきりすることもある。


 家族だから愛しくなるように。家族だから憎くなるように。

 それぞれの関係の形に正解はないが、相手をどう呼べるのかということは案外大切だとリディは思っていた。

 ハクトのことを少しだけ羨ましく思う。

 自分には家族と呼べるような相手がいない。

 全て自分が選んだことなのだが。


 ふっと、急に空の色が深くなった。

 夕日が沈みきったのだろう、夜の足音が聞こえる。


「そういえばレミさんの腕輪、あれどうしたの?」


 思い出して尋ねれば、ハクトは楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。


「ああ、あれね。キャロのいつものお節介だよ。気になったみたいで、あの女の同僚から事情聞いて、あとはまぁちょっとね」

「君も協力したの?」

「まさか。オレは知らない人間のために何かやったりしないよ。そんなお人好しはあいつくらいだ」

「……良い人だね、彼」

「まぁね。身内には優しいんだよ。それ以外には冷淡だけど」


 そんな気がする、とリディは笑った。

 おそらく、この短い滞在のうちに今以上彼と親しくなることはできないだろう。

 外の人間、違う価値観を持つ人間として、きっとカロアンはリディとの間に一線を引いている。ハクトやレミはしていない線引きだ。

 その線を超えることは難しいし、無理に超えようという気もない。

 その隔たりは別に悲しいことではないから。


「あ、レミさんが、恋愛の意図なしに男性が女性に優しくすることはないって言ってたんだけど」

「はは、言うねあの女」

「そういうものなの?」

「自分に照らし合わせてみろよ。……まぁキャロに関してはそういうわけでもないだろうと思うよ。あいつはただの世話焼きみたいなところあるから」

「君に対してみたいに?」

「言ってくれるねぇ」


 軽口のつもりはなかったのだが、ハクトはただ一笑に付した。

 だから多分、これは正解だ。

 リディは終わりかけの夕空に目を戻した。


「人間の機微って難しいね」

「そりゃ生きてるんだから」


 妙に納得させられてしまう。

 そうだねと笑ったその時、不意に空から水滴が降り落ちた。


「あれ、雨?」


 空を見上げれば、さっきまで茜色をしていた雲が、黒く濁って二人の頭上に覆いかぶさっていた。


「降り出したか」


 ハクトがふっと身を起こして、不意に真面目な表情になる。


「リディ、先に戻ってキャロに雨だって伝えに行ってくれ」

「どうして?」

「キャロに言えばわかる」

「ハクトは戻らないの?」

「後で戻るよ」


 淡い不安の粒を飲み込んで、リディは頷く。

 聞きたいことはあるが今はとりあえず従うべきだろう。


「気をつけて降りろよ」

「あぁ、そうだった」


 リディは憂鬱な顔で縄梯子に足をかけた。


────────────────────────


 カロアンを見つけるのはそう難しくはなかった。

 誰に聞いても大抵は彼の居場所を知っている。


「カロアン」


 見つけた姿に手を振れば、ああ、と彼も探していたかのように頷く。


「ハクトが雨だって伝えろって」

「だと思った。あいつは?」

「後で来るって。雨だと何かあるの?」

「さあ」


 カロアンは肩を竦めて、それから少し心配げに西門の方を見遣った。

 雨脚が強まる。


「ハクトが次の雨の時は外出するなって言ってたんだよ」

「どうして?」

「説明なんてあいつがするわけないだろ」


 さっさと帰ろうとするかのように歩き出したカロアンの手を掴む。


「ハクトのところに行った方が良くないかな?」

「なんでだよ」


 手を振り払われる。

 振り返りもしないで歩き続ける彼の背を追いながら、リディは言った。


「だって、何かおかしいでしょう」

「別によくあることだ」

「よくあるって、いつもの理由は何なの?」

「だから知らねぇって」


 心配そうな顔をするのに、何故行動しないのかわからなかった。

 嫌な予感だけが胸を覆う。


「理由も聞かないで従うの?」

「お前に関係ない」

「でも君たちには関係あるでしょう」

「聞くだけ無駄。あいつはどうせ答えない」

「そうは言ったって、」

「お前に言われるようなことじゃねぇよ」


 黙らせるように、カロアンは拳で壁を強く叩いた。

 大きな音に怯んで、言葉が喉に詰まってしまう。


「しょうがないだろ。あいつがそう言うんだから」

「…………」


 全く納得できなかった。

 昨日の夜、カロアンは誰か一人に押し付けるようなことはしないと言った。

 しかしこれでは、何があってもハクトだけに背負わせているのと同じではないか。

 反論しかけたとき、ぱっと扉が開いてレミが顔を出す。


「何してんのよ、二人とも」


 いつの間にか酒場の前まで戻ってきていたようだ。


「雨、濡れちゃうよ。早く入りなって」

「ああ」


 雨粒を落とすこともなく、カロアンは中へ入っていってしまう。

 リディは納得いかない面持ちのまま、適当に肩を払った。

 レミがくすりと笑う。


「拭く物持ってきてあげる」

「……ありがとうございます」

「リディくん、すぐ風邪とか引きそうだもの」


 軽やかに笑う彼女の左手を金の腕輪が揺れる。

 リディはなんとも言い難い思いでその鈍い輝きを見ていた。

 カロアンは良い人だと思う。レミたち仲間のことを大切にしているのは間違いないし、他人のための労苦を惜しまない性質なことは腕輪の一件でわかっている。

 そうわかっているだけに、今回のことは納得できなかった。


「カロアンも、ハクト君が心配じゃないわけじゃないのよ」


 戸棚を開きながらレミが言う。


「それは、わかります」

「心配してるって、大丈夫かって言えないだけ」

「言えば良いのに」

「尊重してるんだよ」


 手渡された厚手の布で髪を覆いながら、説明を求めるようにレミに目線を送る。

 小さく笑ったレミは、琥珀色の瞳をすっと伏せた。


「ハクト君はね、秘密主義者なの。誰にも何も、自分からは話さない」


 それは何となく感じていた。

 自分に対して根幹に関わるようなことまで話してくれたのは、きっとハクトと自分が他人だからだ。

 そうでなければ、彼はリディに何も明かしはしなかっただろう。


「だから私たちも余計なことは何も聞かない。彼が話したくないことは、知らなくて良いことだから」

「……でも、それじゃあ辛すぎる」

「そうだね」


 レミはうんと頷いて、それからリディの肩を叩いた。

 諦めろ、と言うように。


「でも、ハクト君は特別だから」


 特別。

 リディはその言葉が好きではなかった。


「そういう言い方は……嫌だな」


 髪を伝う雫を見ながら呟く。

 レミは何も言わなかった。

 緩やかな停滞を破ったのは、別の声だった。


「レオラの坊っちゃん、ちょっとこっち来な」


 アニエが店の奥からリディを呼ぶ。


「行って来な」


 努めて軽い調子でそう言ったレミに、リディはただ頷いた。

 アニエの側まで行くと、ぽんと一冊の本を投げ渡される。


「これは?」

「アンタにやるよ」


 表紙に目を落として、すぐに首を横に振る。


「古言語で書かれてる。辞書がないと読めません」

「パッと見てそれがわかるんだから上出来だよ。やるって言ってるんだから、国にでも持って帰れば良いじゃないか」

「良いんですか?」

「どうせ誰も読めやしないからね」


 この時代に古言語を使えるのは、クリュソの神官以外にはごく一部の貴族、そうでなければよほどの物好きくらいだろう。

 リディは素直に頷いて受け取った。


「ありがとうございます」

「全く、良いとこの子は堅っ苦しくていけないね」

「……この本、どうしたんですか?」


 せめてこの場に辞書があれば、何についての本かくらいわかったのにと悔しく思う。

 アニエはさあねと首を振った。


「古い知り合いが持っていたやつでね。でも読めちゃいなかったと思うよ。大方客の男から貰ったんだろう」


 女性への贈り物として読めない本を贈るとは、変わった人もいたものだと思う。

 パラパラと手繰ればいくつかの覚えのある単語に出会う。

 古言語は、大陸で共通言語が用いられるようになる前にクリュソの人間が使っていた言葉だ。神の国などとされるクリュソの言葉だけあって、信仰や神秘の類のような単語が現代語よりも多くある。この本の中でもそうだった。


「魔術についての本らしい」


 煙草に火をつけながらアニエが言う。


「魔術?」

「ああ。アンタはそういうの、信じるかい?」

「……いいえ」


 リディは首を横に振った。

 残っていた雫が首筋を伝う。


「これでもレオラ人ですから。神秘の類は信じていません」

「神のいない国、かい?」


 レオラは他の二国と違って国教を持たない国だ。

 宗教が深く根付いているこの大陸でレオラは、神のいない国、神秘の死んだ国として特異な存在である。

 レオラ国は神よりも人を尊ぶ。

 とはいえ古くの名残で信仰を持つレオラ人も未だに多いのだが、その点リディは、典型的なレオラ人としての思想を持っていた。


「はい、今はもう人間の時代です。神秘の生きる余地はない」

「じゃあクリュソの神官についてはどう思う?」

「どうとは? 他人の信仰についてとやかく言うつもりは……」

「そうじゃないよ。彼らの起こす奇跡についてどう思うってことさ」


 奇跡。

 リディはかすかに眉を顰めた。

 クリュソの神官やセロの巫女は、神術や巫術と呼ばれる何らかの力を使う。傷を癒やし、自然を操り、神の指先として奇跡を起こすのだと。これまで滅びた小国にも、やはり奇跡の使い手はいたらしい。

 しかしそれもリディにとっては伝聞に過ぎなかった。

 この目で見たことがないものを信じるのは、無理というものだ。


「あまり信じてはいません。魔術同様、御伽噺だとしか」

「アンタの周りには戦場で奇跡を見たって奴はいなかったのかい?」

「戦争が生むものは多いですが、その中には狂気と伝説もあるかと」

「なるほど、生粋のレオラ貴族だねぇ坊っちゃんは」


 アニエは面白がるように笑った。

 さて、この話の芯はどこにあるのか。

 リディはかすかに首を傾けた。


「どうして私にこんな話を?」

「さてね。考えてみな」


 ふうと顔に煙を吐きかけられる。


「世界の形が変わるってもんさ」


 魔術が、神秘が、神がこの世に存在するとしたならば。それは確かにリディの世界を一変させてしまう打撃になるだろう。

 何故今、呼びつけてまでこの話をしたのか。

 口元に指を押し当て考える。

 ふっと見つけた答えは、案外あっさりとしたものだった。


「本当ですか?」


 尋ねれば、アニエは口元に笑みを浮かべる。

 哀しそうな笑い方だと思った。


「さあね。私も本当のことなんて知らないさ。気になるなら、その目と耳で確かめれば良い」

「何故私に?」

「何度も言わせないでおくれよ。考えればわかるだろう?」


 部外者である以外、何もない自分だ。

 リディは窓の外を見遣った。

 雨は激しさを増し、いつもは賑やかな街は水滴の穿つ音に満たされている。

 暗い夜の奥、一筋の雷が閃いたような気がした。

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