1章 1話
その街はロベッタと言った。
クリュソ国の西部と、レオラ国の東部に挟み込まれるように位置しているその街は、数十年ほど前、戦争を厭んだ人々が国という規格から独立しようと作った小規模な自由都市だ。
君主を置かず議会によって街を運営し、誰も拒まない街を作ろうというのが当初の理念だった。
だったというのは、実現に至らなかったということだ。
理想郷を実現するのは難しい。
今では自由は無法へと姿を変え、都市とは名ばかりの貧民街に成り果てた。
ここに一人の少年がいた。
「十。いや十一かな」
屋根の上から街の外を見遣って、少年は呟く。
彼の名はハクトと言う。歳は十五は過ぎていると思われるが、孤児であるため定かではない。
ハクトは人目を惹く少年だった。
長く伸ばされた夕陽色の髪、鮮烈な印象を残す新緑のような瞳、男女のどちらにも見える整った容貌。しかし外貌よりもその内側こそがハクトの持つ強みだった。
ハクトは鋭利な少年だった。刃の軌跡を思わせるような、鋭い、特異な空気を纏っている。
いつの時代も、人間は自分と異なるものに惹かれるものだ。
まだ年若い彼は、一種の求心力としてこのロベッタで生きていた。
ふわりと屋根から飛び降りたハクトは、街の西門へと向かう。
ロベッタの西部はレオラ国の東部領に接している。平時であれば開け放たれている西門は、今は固く閉ざされていた。
ハクトは慣れた様子で揺れる縄梯子を登り、門の上に立つ。
「十一人だ」
短く言えば、同じく門上にいた青年が面倒そうに舌打ちをした。
彼はカロアンと言う。歳は二十と数歳。茶色がかった金色の短髪に、気の強そうな灰色の目をしている。
「十超えたか。多いな」
カロアンが呟く。
ハクトは、さぁと肩を竦めた。
「今更人数が問題かよ。いつも通りの手合いなら、オレたちだけでもどうにでもできる」
「そりゃそうだけどよ」
「じゃあ問題ないな」
それだけ言うと、ハクトは門の向こうへと飛び降りてしまう。
残されたカロアンは溜息を吐いた。
西門へと通じる街道に目を凝らしてみたが、カロアンの目には砂埃が見えるだけで、人数はおろか人影すら見て取れない。
いくらこの街で最も高い建物の上から見たとはいえ、それほど鮮明に見えるものだろうか。
カロアンは立て掛けてあった長剣を掴んで、ハクトの後に続いた。
「相変わらず目が良いんだな」
「いろいろと見えるようにできてるんでね」
はぐらかすようにハクトは答える。
「お前の目でもそろそろ見えるんじゃないか」
ハクトの言葉通り、しばらくも立たないうちに、街道に十騎の騎兵と一台の荷車が姿を現した。
先頭の騎兵が赤い旗を掲げている。
「初めて見る旗だな」
カロアンが首を傾げる。
西門に姿を見せるのはレオラ兵がほとんどだ。いつもはレオラ国の国旗である青い旗を掲揚しているのだが、どうも今日は様子が違うようだった。
「どう思う?」
ハクトに問えば、彼はただ興味なさげに首を振る。
「何にせよやることは同じだ」
ハクトが腰に提げていた短剣を抜き払う。
鈍い銀色の光が、初夏の太陽を綺麗に反射した。
二人はロベッタの自警組織の一員だった。住人からは守護者などと呼ばれている彼らは、カロアンを中心に二十名程度で構成されており、政治機関を持たないこの街では実質的な支配者となる組織だ。
守護者の始まりは、作られたばかりのロベッタを、独立を阻もうとする大国から守る存在が必要だったことにある。先人たちは傭兵を雇うことによってそれを解決したが、金銭で雇われた彼らが、ロベッタを建設した人々のように独立への崇高な志を持っていたわけもなく。
結果としてこの守護者たちがロベッタの衰退を早めることになったといっても過言ではない。
今でも外部から街を守りこそするが、その構成員は傭兵崩れにハクトやカロアンのような孤児、さらには国から追われた罪人のような、いずれも難のある手合いばかりだった。
カロアンが守護者を取りまとめるようになったのは、ここ二年程度のことだ。彼は旧勢力を一掃するという簡単な方法でその地位を手に入れた。その騒動の影響で多少は組織内も浄化されたが、カロアンに正義の意図があったわけではない。
気位が高く誰かに従うことを嫌う彼が、非常に明快な方法で自分の欲求を満たしたというだけだった。
ハクトもまた、居場所として守護者という組織を活用しているだけで、街や組織への思い入れも信念もない。
ただ外敵が現れるのなら戦う、それだけの彼らだった。
迫り来た騎兵たちが、互いの長剣がちょうど届かない程度の距離まで近づいて、そこでやっと馬を止める。
一歩進み出た旗持ちの兵が、大きく声を張り上げた。
「レオラ南部領からの使者だ。この街の代表者と話がしたい」
「南部だって?」
二人揃って怪訝な顔になる。
レオラ国の南部領と言えば、東側に位置しているロベッタからはそれなりに遠方の土地だった。
カロアンは不審を隠そうともせずに尋ねる。
「そんな遠くからわざわざ何の用だ?」
「外交の話をしたい」
「外交だ? 立派な騎兵十騎も連れてそれかよ」
攻撃の意図がないなどどうして信じられるだろうか。
ハクトは呆れて首を振った。
そもそもレオラのような大国が、ロベッタごとき小都市相手に外交を持ちかける必要がない。これまでの数十年間彼らが街を攻略できなかった理由は、単に他の戦争や内政を差し置いてまで本気で攻め込む利がなかったからというだけだ。
本当にこの街が欲しいのならばまともな兵を数十も用意すれば十分足りるだろう。
「生憎、この街には代表者なんていないものでね。外交なんてできそうにないなぁ」
笑い混じりにカロアンは言う。
「諦めてお引き取りいただくか、そうじゃないならさっさと剣を抜けよ。どうせ初めからそのつもりだろ」
外交を持ちかけたのは大義名分だろうとカロアンは踏んでいた。レオラ国にしてみればロベッタを蹂躙するなどわけない。しかし中立の自由都市を名分なしに攻撃することもできないはずだ。交戦しても仕方ないような、反抗的な態度が欲しいというわけだろう。
旗持ちの兵は中央の騎士と何やら言葉を交わしていたが、やがて最後通達を下すようにもう一度声を張った。
「開戦する前に穏便な方向を選ぶのが自分たちのためだぞ。こんなところで死にたくはないだろう」
カロアンとハクトは顔を見合わせる。
「だそうだけど?」
「今更惜しむ命かよ」
ハクトは端的に言い捨てて、何の迷いもなく短剣を旗持ちに投げつけた。
前触れのない攻撃は真っ直ぐ兵の肩を裂き、相手の姿勢が揺らいだ隙にハクトはその兵の長剣を引き抜く。
「血の気が多くて困るんだよな」
呆れたように呟いたカロアンもまた、反応に遅れた兵の脚を斬りつけた。
ハクトは落馬した兵士から短剣を取り返して、中央の騎兵、この小隊の隊長と思しき男にまた果敢に切り込む。
突然の戦闘に暴れる馬を宥めるために、他の兵たちは一度引かざるを得なかったようだ。逃げ足の早い者はもう矢すら届かない距離にまで後退している。
「オレたちを従わせたいなら、それなりの価値は示してもらわないと困るな」
ハクトの短剣を何とか腕で受けた騎兵は、交渉はもとより戦闘の続行も難しいと見たのだろう。苦い表情で他の兵に倣って馬を引いた。
来たとき同様、レオラ兵たちはすぐに街道の奥に姿を消す。
二人とも門から離れ行く兵まで追うつもりはなかった。
「全く、この程度で引くなら来るなってんだ」
カロアンが長剣を投げ捨てて面倒そうに言う。
「しかしあの様子じゃまた来るな」
「今度から問答無用で攻撃すれば良い」
「誰もがお前みたいにイカれてねぇんだよ」
「話し合いができそうな相手がいたか?」
ハクトが不愉快そうに顔を顰める。
頬についた返り血を雑に拭って、ハクトはカロアンに奪った長剣を押し付けた。使わないからいらないといったところだろう。
「あいつらはいつだって上から押さえつけようとしやがる。オレは誰にも従属しない」
「そりゃ俺だって従う気はねぇよ」
「じゃあ戦うだけだろ、キャロ」
キャロと呼ばれて、カロアンは眉を顰める。
「おい、その呼び方やめろって」
「お前が可愛らしい泣き言を言わなくなったらな」
「誰がなんだって?」
カロアンの非難は無視して、ハクトは門の閂木を外した。
古ぼけた木製の門は軽い音で開く。
とりあえず閉めているだけといった効果しかない門だが、これもまた技術者が居ないのだから仕方あるまい。
街に戻ろうと二人が足を踏み出しかけたとき、突然ぎくりとしてハクトが振り返った。
何かに気がついたように緑の目を見開く。
「どうした?」
ハクトの目線を追って振り返ったカロアンもまた、その先に先程まではなかったはずの人影を認めて驚く。
「いつからいた?」
ハクトが問い詰めるように口を開く。レオラ兵が来る前までは確かにここには二人しかいなかった。
ではいつの間にここに現れたのだろうか。
ハクトもカロアンも人の気配に鈍いわけではない。妖精か何か、神秘の類ではないかと馬鹿な考えが、一瞬カロアンの頭を過ぎる。
「ついさっきだよ」
あてにならない呑気な返事をして、それは微笑んだ。
落ち着いて見ればただの少年のようである。
青白く小柄で、長い薄灰色の髪を丁寧に編んでいる。
レオラ人の男子は成人までは髪を伸ばすというから、この少年はレオラ人だろうとハクトは思った。身なりも良く、恐らくは良家の生まれ。ひょっとしたら貴族でもおかしくはないように見える。
図嚢を一つ提げているほかは特に荷物があるようにも見えない、全くの軽装だった。
いずれにせよ、ロベッタに現れるには随分と異質だ。
「すごいね、あれほど簡単に正規兵を追い払ってしまうのだから」
少年の率直な感想に、二人は揃って顔を顰めた。
ハクトが呆れたように首を振る。
「そりゃどうも。呑気に観戦してたのか?」
「下手に動いたら危ないだろうし、見ているしかなかったもの」
「どうしてこんなところに?」
少年が首を傾げる。
「……家出、かな?」
「随分曖昧な物言いだな」
「期限付きの家出だから、遊びみたいなものかもしれないと思って」
その答えに嘘はないと見た二人は、少なくとも敵意ある存在ではないことを確認して武器を握っていた手を緩めた。
少年が安心したように口元をあげる。
「一週間だけ家出してるんだ」
「それで何だってこんな街に」
「来てみたかったから」
裕福な生まれの子どもが考えそうな事だと、ハクトは軽蔑の笑みを浮かべた。
自分と全く異なる存在に興味を持つのは自然な事だが、それで単身この街に来るなど世間知らずにも程がある。
「お貴族様の遊学にしちゃ、場所選びが悪かったな。さっさと帰れ」
無感情な口調でハクトは言ったが、少年は首を横に振る。
「来てみたかったから来たんだ、すぐ帰るわけにはいかない」
「さっきの見てたんだろ? 安全でもないうえ、この街には見る場所なんてねぇよ」
「安全な場所に行きたいならわざわざロベッタに来ないよ」
さっきの戦闘を見た後で帰れと言えば、恐怖から大人しく従うだろうとハクトは考えたのだが、どうもこの少年はそう簡単な性格をしていないようだ。
忌々しい、と舌打ちをする。
そのままきつい目で少年を睨んだハクトは、彼の翡翠色の目が石のように無機質なことに気がついた。
まるで何かが抜け落ちてしまったような目だ。
少年がすっと目を逸らす。
「一週間きりの自由なんだ。好きにしても良いでしょう」
ハクトは考えを改めて少年に向き直る。
そのまま真っ直ぐ手を伸ばすと彼の胸ぐらを掴み、無理やり自分に向き直らせた。
「お前、自殺しに来たのか?」
脈絡のないハクトの問いに、少年の顔から笑みが消える。
「どうして?」
単調なその返事は、単調さ故にわざとらしく響いた。
「死にたがりはみんな同じ顔してるから」
「そう。君がそう言うのなら、そうなのかもしれないね」
否定とも肯定ともつかない言葉で、少年は対話を拒絶した。
ハクトが迷うように顔を顰める。
「放っておけよ、ハクト」
迷いに気がついたのだろう、カロアンがハクトの背を叩く。
「他人に関わってる余裕なんて、俺たちにはないだろ」
「そうだけど」
「ガキの家出だ。放っておけば、勝手に帰るさ」
良くも悪くもカロアンは徹底した現実主義者で、物質主義者だ。
精神的な物事や価値には興味を示さず、事実と現状に忠実に生きている。彼の言う通り、自分が少年に関わる必要がないことは、ハクトもよくわかっていた。
だがハクトは、カロアンほど徹底した人生理念をまだ持ち合わせていない。
その代わり、自分の直観を信じていた。
「殺してやろうか」
短剣を握り直して、無表情にハクトは言う。
少年は翡翠の目を瞬かせて、少し沈黙してから尋ねた。
「君は人を殺したことがあるの?」
「ない」
ハクトが短く答える。
少年は穏やかな笑みのまま頷いた。
「そうか。じゃあ死ぬのは別の機会にする」
「殺す覚悟がないわけじゃない」
「わかってる。でも人を殺さないで済む人生ならそのほうが良い」
黙って話を聞いていたカロアンが鼻を鳴らす。
「おい、ハクト。イカれ野郎に構ってる暇はないぞ」
「……死なないならお前の望みは何?」
ハクトはカロアンには取り合わず、少年に問いを重ねた。
少年はハクトの目を見つめたままはっきりと答えた。
「この街を知りたい。案内してくれる?」
「……わかった、良いよ」
ハクトは少年の服から手を離すと、それ以上何も待たずに街の中へと歩き出した。
カロアンは何も言わず、ただ二人の後ろ姿にため息をつく。
ハクトの気まぐれも身勝手も今に始まった事ではない。
「お前、名前は?」
大して興味もなさそうにハクトが尋ねる。
少年はにこりと笑った。
「リディって呼んで」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます