朝焼けの年譜 第1部
四十内胡瓜
序章
生きていることが馬鹿らしくなる日がある。
何が悲しいわけでもなく、辛いわけでもなく、ただふっと終わりにしたいと。
自分がいなくても世界は回る。明日は今日と同じくらい確かな事実としてそこにあり、何もかも変わらぬ顔で存在し続けるだろう。
「おーい、聞いてますか?」
目の前で手を振られ、少年は現実に引き戻される。
「……ごめん、聞いてなかった」
「そんなことだろうと思いましたよ」
大して気を悪くした様子もなく笑った青年は、読みかけの本を持ったまま窓から身を乗り出した。
風にページが勢いよくめくられる。
「良い天気ですね、今日は。ぼっとするのも仕方ない」
「別にそういうわけじゃないよ」
「それじゃあ貴方は、この空を見ないなんて随分もったいないことをしてるな」
青く澄んだ空は夏の光を湛えていた。
その光を浴びようとするかのように、青年がさらに身を乗り出す。
「危ないよ」
「落ちたりなんてしませんって」
青年の金髪が、太陽の光を浴びてきらきらと輝く。
眩しすぎるものは、あまり好きではなかった。
窓から目を逸らして机上に向き直る。
中央、置かれた地図が無機質な顔で少年を見返していた。
「戦争が近いという話だったよね」
国境線をなぞりながら確認すれば、ええ、とこともなげに青年は頷く。
「そうですね。とはいえこれまでも小競り合いは絶えずありましたから、すぐに何かが大きく変わることはないかと」
「レオラは……勝つだろうか」
少年は不安げに自国の名前を口にした。
少年たちが生きる大陸には三つの大国がある。
レオラ、クリュソ、セロと名を持つ三国は、長い歴史の中で何度も戦を繰り返してきた。時には二国間で同盟を結び一国を攻め、また別の時には小国の争いに介入して代理戦争を。
形を変え、時代を変え、同じことを繰り返す。
「さぁ。でもすぐには負けませんよ。なんせ相手はクリュソ、大国と大国の戦争ですから。長い戦いになりますね」
「……早く終わって欲しいものだな」
「始まるというのに終わりの話ですか」
「終わらせる気もないのに事を始めるのかい」
「終わらせられないから、また始まるのでしょうね」
なるほど、と少年は頷く。
戦争の理由などどこにでも転がっている。ましてやこれほど長く続いてしまった対立だ、何もかもが深い根を張っている。
根のために花実を落とすくらいならば、そんな木は切り倒してしまえば良いだろうと少年は思ったが、それもやはり何の解決策にもならない。
幹が折れれば、花実も死んでしまう。
「まぁ、宗教絡みのごたごたが解決しない限りは和平など無理でしょうな」
窓枠に座ったまま青年が言う。
「クリュソは宗教国家です。他の神を認めない。神のいないレオラのことも同様に認めはしないでしょう」
この大陸には主として二つの宗教が根付いている。黒華と白玉、二つの宗教はそれぞれ異なる女神を信仰し、けして相容れない。
黒華教を国教とし、元首たる女王を神の子とするクリュソ国は、白玉教が国教のセロや無宗教国家のレオラとは当然相容れなかった。
「信仰とは厄介だね」
「ええ。宗教は知識と進歩を阻みます。この大陸に宗教が蔓延っていることは、今最も悲しむべきことですよ」
「だがまぁ、クリュソにばかり責任を見出すわけにはいかないよ」
少年は柔らかな口調で咎めた。
黒華教が多少攻撃的な性格をしているだけではこれほど深い因縁など生まれはしない。布教を拒み、宗教を迫害し、また領土拡大や経済利益のために戦争に旨みを見出す国があるからこそ、対立も成り立つというものだ。
「私たちもまた、戦争を望む国の人間なのだから」
「貴方は望んでいるように見えませんがね」
「個人の望む望まざるが、果たしてどれほど国に影響するだろうか」
「なるほど、理屈は通っておられる」
賛成はしてくれないわけだ、と少年は曖昧な笑みを浮かべた。
「個人が国に影響できないのであれば、私たちを名乗る必要もないでしょうと。そう思うだけですよ」
思うだけと言いつつも、青年の口調は確信的だった。
それこそ賛成できないと少年は思う。
自国の罪を自己と切り離せるはずがない。
自分たちには、尚のことだ。
「思い詰めすぎですよ」
青空を背に、青年は笑う。
「そうかな。私は私の思考が緩慢なことが憎いよ」
「何事も考え過ぎては毒だ」
「遅効性の毒を飲んででも目の前の死を避けようとすることは、やはり愚かだろうか」
「生き残る術を考えなさい」
「君ほど賢ければ、私もそうしたかもしれない」
笑い混じりにそんなことを言う少年に、何が面白いのだかと青年は肩を竦めた。
その拍子に窓枠に置いた手がずるりと滑って、青年は慌てて本から手を離し、窓を掴む。
投げ出された本だけが、ばさりと大きな音を立てて窓の下へと落ちていった。
「ほら、危ない」
ちくりと刺すように少年は言う。
「賢いのにどうしてそういうことをするかな」
「……長生きするための知恵を犠牲にして、他の知を得たと思っていただければよろしいかと」
どこまでも口の減らない男だった。ここまでになると呆れを超えて、面白くすらなってくる。
本を回収してくると部屋を出た青年の背を見送って、少年は笑い混じりの溜息をついた。
立ち上がり、窓辺まで行ってみる。
刺すような青空に少し怯んで、見下ろした地面の遠さに恐怖と安心感を同時に感じた。
ここから落ちたら大怪我では済まないだろう。
死ぬだろうか。
頭の端をよぎった考えに、少年はずるずると蹲った。
「それは駄目だよ、何も解決しない」
花実を守るために木を切り倒すように。
それは何もかもを終わらせるだけで、何一つ解決してはくれない愚かな選択だった。
少年は机上に目を戻す。
地図、本、報告書や書簡。得たい知識ならここに十分揃っているのだから。
知を蓄え、思考を巡らせることでしか解は得られないのだともうわかっていた。
ただ考える。
何ができるのか、何をすべきなのか。
最善は何か、そもそも最善は存在するのか。
漫然と生きるこの命を、一体何に使えば良いのだろうか。
思い詰めることが毒であろうと、毒を飲むことでしか何も成せない人間だっているのだと。
「……遠くに行きたいな」
紙束に顔を埋めて少年は呟いた。
自分に優しいだけの泣き言が部屋にこもる。
窓の外にはもう、夏が来ようとしていた。
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