1章 2話
ロベッタは雑多な構造の街だ。
建物の多くは木造で、多少はまともな造りをしている家屋もあれば、今にも壊れそうなあばらやもある。それらの建物が看板も表札もなく入り組んでいて、その上どの通りも同じような顔をしているのだから、初めて訪れた人は間違いなく道に迷うだろう。
「お前、運が良いよ」
街の中を足速に抜けながらハクトは言った。
リディが首を傾げる。
「どうして?」
「子どもが一人でうろつける街じゃないから」
「そんな年齢じゃないよ、私」
くすりとリディは笑った。
「もうじき十八になる」
「歳上かよ」
ハクトは少し振り返って顔を顰めた。
背丈もハクトの方が高く、その上虚弱と言っても問題ないようなリディの風貌は、どう見ても十八歳になる青年のものとは思えない。
「良い家に生まれれば、弱いままでも大人になれるんだな」
悪意のこもった言葉に、リディは困ったように眉を寄せる。
「そうだね。無力でも、生きながらえてしまう」
「言い返さないのか」
「だってその通りだもの」
ハクトは不機嫌を隠そうともせず、無言のまま前に向き直った。
夕陽色の髪が背で揺れる。
「ハクトって呼ばれていたよね」
リディが思い出したように言う。
「それが?」
「よくある名前?」
「この街ではオレだけ」
「そっか」
何が聞きたいのだろうと眉をひそめたハクトは、しかし問いただすほどのことでもないと無関心に肩を竦めた。
そのまま無言でしばらく歩き、比較的しっかりとした造りの二階建ての建物の前でやっと足を止める。
「ここは?」
尋ねるリディには答えず、ハクトはその腕を放して扉を開いた。
カラン、と戸につけられた鐘が高い音をたてる。
そこはハクトたち、守護者が普段使っている酒場だった。窓には薄い窓掛けが締め切られており、昼間でも室内は薄暗い。酒と煙草と食べ物の匂いが混じり合うその酒場は、ロベッタの乱雑な気配が詰め込まれた縮図のような場所だった。
一斉に静まり返って扉を見つめるいくつもの目に、リディが身を強張らせる。
「おや、珍しいのがきたね」
部屋の奥から一人の女が顔を見せる。
日に焼けた黒髪に青い目をした、恰幅のよい中年の女だ。
面白がるように笑って、ハクトとリディを交互に見遣る。
「久しぶり、アニエ」
ハクトは短く言って、萎縮しているリディの背をトンと前に押し出した。
「こいつに一週間くらい部屋貸してやってくれ」
「なんだい、アンタって子は。また急なこと言い出すねぇ」
アニエと呼ばれた女は困り笑いで二人の前に立った。
「このお坊ちゃんを保護しろってことかい?」
「そう」
「そうって、急に言われたってね、ここは宿屋じゃないんだ。空いてる部屋がないよ」
アニエは酒場の女主人で、一階で働く女や、一部の守護者たちのために二階の部屋を貸し出してもいた。
ハクトは問題ないと首を振る。
「オレが使ってた部屋、どうせまだ空いてるんでしょ。あれを使えば良い」
「アンタの部屋? アンタが帰って来もしないからそのままにしてるし、私は構わないけどさ」
「じゃあそういうことで」
ハクトはそれだけ言って、勝手に二階への階段を登っていってしまう。
取り残されたリディは困ったようにアニエの顔を見上げた。
「……あ、えっと」
「レオラのお坊ちゃんかい? まぁ、アンタも訳ありなんだろうが、その辺りは踏み込まないから安心しておくれよ」
「……すみません、ありがとうございます」
リディは軽く頭を下げて、それから駆けるようにハクトの後を追った。
好奇の目を向けていた他の客も、ばらばらとまた元の会話に戻っていく。
その中で給仕の少女が一人、アニエの傍に駆け寄った。
「ね、アニエさん。今のってハクトくんよね?」
「ん? ああ、そうだよ。そういやアンタ会いたがってたね」
「私だけじゃないわ。女の子たちはみんなよ」
「全く。あんな猫みたいな男はやめておけと思うけどねぇ」
呆れたようにアニエが言えば、少女は拗ねて頬を膨らませる。
「それが良いんじゃない」
「はいはい。そんじゃあ、あの子らのところにこれでも持っていってやんな」
水差しと杯を置いた盆をアニエが指で示す。
少女は笑顔で頷いた。
────────────────────────
一階の喧騒に対して、二階はしんと静まり返っていた。響く階下の音が余計にその静寂を際立たせる。
「ここがオレの部屋。好きに使って良いから」
奥の一室を開きながら、ハクトはリディに言う。
「鍵はないから荷物は身につけて寝ろよ」
「ありがとう。でも良いの?」
「何が?」
「ハクトの部屋なんでしょう?」
「使ってないからね」
その言葉通り、生活の気配が全くない部屋だった。
寝台と、何も入っていない空の棚。小さな机とその上に積まれた埃を被った本以外には何もない。その上、長い間締め切られていた部屋特有の乾いた空気が漂っていた。
「使ってないって、君はいつもどこにいるの?」
「どこかしら適当に」
ハクトは微かに、自嘲的に笑った。
「まともに眠らないから、部屋も寝台も必要ない。お前もそうなんだろうけど」
リディが驚いたように翡翠の目を瞬かせる。
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって、鏡でも見て来いよ。酷い顔してるぞ」
「そんなにわかりやすいかな」
目の下を指でこすって、リディが困ったように言う。
隈もそうだが、病を患っているわけでもなさそうなのに著しく弱々しい外貌をしていることも、ハクトにそう思わせた一因だった。
睡眠不足だけでなく、長いこと太陽に当たっていなかったのではないかとハクトは推測する。外を歩いている時も終始眩しそうに目を細めていた。
「他人のこと言えないけど、お前相当不健康だよ。自殺するまでもなく死にそうじゃないか」
「積極的に死ぬつもりはないさ」
窓の外へ石のような目を逸らして、リディは呟くように言った。
「そんな勇気も、自由も私にはない」
ハクトにはリディの生きてきた世界など知りようもない。彼がどこの誰であるか詳細に聞いたところで、全く違う世界で生きているのだろうことは明白だ。
だから彼の言う自由も、全く理解できない。
「死ぬのに自由も何もないだろ。自分のものなんだから、自分で好きにすれば良い」
「自分の命が本当に自分のものだと言い切れる?」
「当然」
反発するように、ほとんど考えることもせずハクトは答えた。
しかしリディは首を横に振る。
「生まれたからには、やらなくてはならないことがある。真に持ち主の自由にできる命なんてないんだよ」
「そんなの知ったことじゃない」
「それじゃあ、誰かの命、あるいは犠牲の上に自分の命があると思ったことはない?」
「何が言いたい」
「陳腐に言い換えれば、愛と情の問題だよ。縁と言っても良いかもしれない。それらのために、自分の命すら自分の自由にはならないのだと思う」
ハクトは興味を失って、寝台に腰を下ろした。
埃の古い臭いが空気に混じる。
「じゃあオレには関係のない話だ」
「どうして?」
「愛も情もないから」
リディが眉を寄せる。
失言だと思ったのか、それとも何か反論したいのか。しばらくの間リディは押し黙っていたが、開いたままだった扉を叩く音がして、この会話はそれきりとなった。
「何?」
億劫そうに立ち上がって、ハクトは戸口に顔を出す。
扉の向こうには、水差しの乗った盆を持った少女が気まずげな顔で立っていた。
「お話中ごめんなさいね。邪魔しちゃ悪いかと思ったけど、声をかけないのも盗み聞きみたいで悪いじゃない?」
「別に、どうでもいいけど」
「そう? 良かった」
身代わりも早くパッと少女は笑顔になって、はいとハクトに盆を手渡す。
「これ、アニエさんが持って行けって」
「ああ。わざわざどうも」
「あのね、私最近ここに勤め出したの。レミって言うのよ。覚えといてね」
レミと名乗った少女は、琥珀色の目線をじっとハクトに向ける。
ハクトは一瞬面食らったように目を瞬かせたが、すぐにさあと首を傾げてみせた。
「気が向いたらね」
「あら、今に絶世の美女になるから覚えておいて損はないわよ」
「じゃあそうなったら覚えるよ」
「釣れないのね」
レミはくすりと笑って、それからまたねと言い残して階下へと戻っていった。
黒髪をひるがえして足早に去っていく少女に、ハクトは苦笑いを浮かべる。
全く元気なものだ。
部屋に戻れば、リディが机の上にあった本をぱらぱらとめくっていた。
「面白いものでも?」
ハクトが盆を机上に置きつつ声をかければ、リディは慌ててぱたりと本を閉じた。
「ごめん、勝手に」
「別に良い。何の本だっけ、それ」
手を伸ばして表紙の埃を払えば、掠れた文字がかろうじて読み取れるようになる。
淡い記憶から、ハクトはそれが詩集であることを思い出した。
ずっと前に読んだ気もするが、内容はほとんど覚えていなかった。
「こういうの好きなの?」
読んでいる間、温度のないリディの目が少しだけ人間らしく動いていたようにハクトには見えた。
リディは気恥ずかしそうにこくりと頷く。
「本は何でも好きだけれど、詩は特に好きなんだ」
「へぇ。オレにはわからない趣味だな」
「好きじゃないのに持っていたの?」
「貰ったり拾ったりしたのを読んでるだけ。この街じゃあ文字を読める奴も少ないから、みんな押し付けてくるんだよ」
ロベッタの識字率は極めて低い。そもそも大国でさえ、文字は一部の知識人階級のみに広まっているだけであり、庶民階級はほとんどが無縁の生活をしているのだ。むしろハクトが文字を扱えることの方が例外的だろう。
「君は、いつ文字を?」
リディも疑問に思ったようで首を傾げる。
ハクトは曖昧に首を振った。その表情が少し緩む。
「ちょっと偏屈な婆さんと生活してたことがあってね。その時に教え込まれた」
「親戚?」
「さあね、親の顔も知らないんだから、そうだったとしても知りはしないよ。まぁ他人だ。無関係のガキを育てて、要りもしない文字やら算術やら詰め込んだ変な人だったよ」
今でこそハクトは一人で生きているが、当然生まれた時から一人だったわけではない。
親がいない代わりに、幼い頃は一人の老女とともに過ごしていた。
ハクトという名前も彼女から呼ばれていたもので、ハクトにとって彼女は唯一の家族のようなものだった。
全くの他人を育てるようなお人好しがこの街にいるとも思えず、リディのいう通り祖母か何かではないかとハクトは思っていたが、それを直接聞く前に冬の寒さであっさり死んでしまった。
結局それきり、老女のことは何もわからないままだ。
残ったのは由来も知らないハクトという名前と、理由もわからず詰め込まれた知識だけだった。
「でもおかげで暇はしない。まぁ面白くもないけどね」
言いながらハクトは本の表紙を軽く叩いた。
乾いた音とともに埃が舞う。昼過ぎの陽を浴びて、金色の粒のように光って見えた。
「昔、私もその本を読んだことがあるんだ」
リディがぽつりと言う。
「それほど人気な詩人というわけでもないのだけれど」
「オレも面白いとは思わなかったな。詩の良し悪しなんてわからないけども」
「理屈っぽい作品が多いから、嫌いな人の方が多いくらいだと思うよ。でもその分熱心な愛好家が一部いてね。ロベッタにわざわざその本を持ち込んだ人も、そういう一人だったんじゃないかな」
「……なるほどね」
ハクトは本を手に取って、何とも言いがたい思いで見つめた。
考えたこともなかったが、この本にもハクトより前に別の持ち主がいたのだ。それが誰で、何を思って詩集を読んでいたのか、ハクトには知る由もない。
「こんな街で詩を愛読するなんて、余程変わった奴だったんだろうな」
感傷的な響きにならないよう気をつけながらハクトは言った。
リディが微笑む。
「彼の作品、私はかなり好きなのだけれど、特に好きな一節がその詩集にあってね。愛するには喪失が必要で、失ったことのない人間は他者を愛せないって、彼は言うんだ」
「なんでまた」
「人は心の中に器を持っていて、そこに蓄えた愛の分だけ他人を愛せるというのが彼の考えなんだ。でも生まれつきの器は柔く脆い。だから失って、傷ついて、そうして初めてきちんと愛を蓄えられる器が鍛えられるのだと。だから愛するには喪失が必要なんだ」
愛が何かなどハクトにはわからない。
それでもリディが好きだと言ったその定義は、世間に溢れる愛よりもずっと悲観的で無情な物であると感じた。
失うから愛せるようになるのならば、完全に幸福な愛などこの世に存在しないということになる。
「どうしてそれが好きなの?」
なんとなくその答えはわかっていたが、それでもハクトは聞かずにいられなかった。
リディが翡翠の目を伏せる。
「どんな悲しみにも意味はあると思えるから、かな」
想像通りの言葉に、ハクトは黙って首を振った。
水差しの縁を指でなぞる。
微かに震えた水面が、ハクトの代わりに小さな声を発した。
「これって別に、愛だけの話じゃないと思うんだよ。失うからこそ強くなれるなら、失うことが未来のためになるのならば、そう思えば今の全てが報われる」
それは前向きな言葉のようで、しかしハクトには諦めの言葉のように聞こえた。
救いがあるからと無情な詩を愛するのは、現実にそれ以上に救いがないと思っているということではないか。
「悲観的だね」
ハクトは短く評する。
「何も信じてないみたいだ」
「信じてるさ」
ハクトの曖昧な指摘をリディはすぐに解し、そしてはっきりと否定した。
「信じてるって、何を?」
意地が悪い質問だとわかりつつ、ハクトは尋ねる。
リディは困ったように眉を下げた。
「聞かないでよ、そんなこと」
何も信じるものがないままで生きられるほど、人は強くない。
「報われなくちゃ、割りに合わねぇもんな」
ハクトは小さく笑ってリディに空の杯を投げ渡した。
不意なことに驚いたリディは、膝の上に落ちた杯を焦ったように拾い上げる。
「生きにくい性格してるな、お互い」
杯に水を注ぎながらハクトは言った。
「お互い?」
「差異はあれど、人間として欠陥品なのはお互い様だと思ってね」
「……君に欠陥があるようには思えないけれど」
リディは曖昧に微笑んで、それから傾げた首をハクトの方に向けた。
ハクトも思わずその目を見つめ返す。
「君は、共通点があるから私を招き入れてくれたの?」
ハクトは肩を竦めた。
「さあね。そうかもな」
「ハクトの裡にも希死念慮が住んでいるの?」
「きし、何だって?」
「希死念慮。死へと向かう願望のことだよ。私の中に死を見て手を引いてくれたのなら、そうなのかなと思って」
石のような目が、温度もなくハクトを見つめる。
居心地の悪さに顔を顰めたハクトは、誤魔化すように杯の中の生ぬるい水を飲み干した。
「オレが自殺志願者だって?」
「違った?」
「違うさ。死んでやる気なんてない」
「でも命は大事にしていない」
苛立ちを覚えて横目で睨むも、リディは特に気にする様子もなく言葉を継いだ。
「君の戦い方は怖かった。自分のことなんて、まるで目に入っていなかったでしょう」
「……見てたんだったか」
「あんな生き方をしていたら、きっとすぐに追いつかれてしまうよ」
何に、とは聞かなかった。
死の足音ならばずっと耳の奥にある。
その影を、手を、背に感じることもある。
「死にたくないわけじゃないからね」
ハクトはぶっきらぼうに言った。
「別に良いんだよ、それで死ぬなら」
死んでやるつもりなど毛頭ないが、命を大事に生きられるほど恵まれているわけでもない。
欠陥があるのだ。
自分のことすら他人同様愛せない。
そんな人間がどうして真っ当に、命を大切にして生きられるだろうか。
不機嫌に黙り込むハクトに、リディは変わらない穏やかな語調で、しかしはっきりと言い切った。
「君のやっていることは消極的な自殺だよ」
「じゃあお前のは積極的な自殺ってわけ?」
「私の場合は積極的な自殺願望と、人生への消極的態度の成れの果て。要するにただの、臆病だ」
自虐的に笑うリディの言葉は確信的で、哲学的な彼の言葉の中に何の哲学もないことをハクトは知る。
人生にまつわるあれこれをその聡明な頭の中で考えているのだろうが、リディの中では既にもう答えが決まっているようだった。自己卑下、あるいは劣等感からくる一種の頑迷さが彼にはある。
「まるで世界の全部を見てきたみたいだ」
ハクトは非難を込めて言った。
「賢いよ、お前は」
「……賢かったら家出なんてしてないさ」
リディは冗談のように言って笑って見せた。
面白くない、とハクトは思う。その仮面みたいな笑顔も、全てを拒みも受け入れもしない態度も、切り崩してやりたいと思う。だがそれができるほどハクトは他人を知らなかった。
「なんでこの街に来たんだ?」
一度した問いかけをもう一度口にしてみる。
今度はリディもはぐらかすことはなかった。
「私はもう時期成人するんだ。その前に世界を見てみたかった。知らないものを知りたいと思うのは人間の根本的な欲求だ」
「好奇心の代償は高くつくかもしれない」
杯の水を飲み干して、リディはハクトに笑い返す。
「人間は好奇心には逆らえないそうだ。やめたほうが良いとわかりきっていても、興味を持ってしまったら結局やらざるを得なくなる」
「何が言いたい?」
「私がこの街に来たことと同様に、君が私の滞在を許可したことも結局好奇心の末路なんだろうなと思って」
「やめたほうが良かったのか」
「安定を望むなら、そうだと思う。人生はひょんなことで変わってしまうから」
不意にハクトは、リディが自分を通り越して別の誰かに語りかけているような錯覚を覚えた。
自分が自分でなくなる感覚。
この感覚には覚えがある。
何かが変わるその瞬間、ハクトはいつもその動きを、身体あるいは心のどこかで感覚していた。
リディの目に、自分よりももっと遠くの何かが映る。
「人生の変化はいつだって急激で、後戻りができない。好奇心故の行動で、取り返しが付かなくなることだって十分にあり得る」
「……そうだな」
「でもそれは悪いことじゃないと私は思うんだ」
リディは言葉を切って、翡翠の目をすっと細めた。
「不可逆の変化だって、必ずしも悪じゃないでしょう」
「…………」
変化することの恐怖を、ハクトはすでに味わったことがある。
あの日から世界は変わって戻らなくなってしまった。
あれが自分にとって良いことだったのか、悪いことだったのか、そもそも避けることができたのか。
そんなあれこれを考え続けた結果、ハクトは不変を望んでいた。
今日が昨日より悪くならなければそれで良しとするのだ。
「オレは変わらない方が良い。今が続くなら、それで良いよ」
「でもそれは退屈だ。だから、君は私という異分子を街の中に引き入れた。君は確かに変化を望んでいる」
「望んでない」
「それじゃあどうして私の滞在を許可したの?」
理由ならいくらでもこじつけられる。
貴族の子どもを放っておいたらどうなるかわからないだとか、勝手に死なれたら寝覚めが悪いだとか。いっそのこと気まぐれと言い切ってしまっても良い。
それでも何も言い返すことなく、ハクトは無意識のうちに髪を指に絡ませていた。それは逃げ出したくなった時の癖だった。
「私を追い出す方法なんて、いくらでもあった。君はきっとわかってるはずだ。それでもそうしなかったのは、日々の繰り返しに飽きていたからでしょう」
「……お前がロベッタに来た理由も、日常に飽きたから?」
「私の場合は……飽きたというよりも恐ろしかったんだ。変われないままでずっと生きていくことが恐ろしくて」
私は臆病だから、とリディは笑う。
困ったようなその笑みは、本心からのものなのだろうか。
「後戻りのできない恐怖はあるけれど、変われないことだって、私にとっては同じくらい恐ろしいよ」
「……それは、わかるかもしれない」
言いながらハクトは強い戸惑いと違和感を覚えていた。
何故リディはこんな話をするのか。
何故自分はこんな会話に付き合っているのか。
普段だったらこんな自分の内面に関わるような話などしない。それはきっとリディも同じだろう。
カロアンにも、他の誰にも話さないようなことがどうして口からこぼれていくのか。
戸惑ったまま見つめたリディの瞳は、遠く澄んだ翡翠色に揺らめいていた。
そして思い至る。
他人だからだ、と。
無関係な、遠い世界の人間同士。お互いのことなど何も知らず、知る必要もない。
だからこうして自分を語れる。
そう思うと急に、息がしやすくなったように感じられた。
「オレはこの街で死ぬんだと思う」
言葉をこぼす。
「それが嫌なんだ」
「街の外には行かないの?」
「行けるわけがない」
ハクトは吐き捨てるように言った。
「街の外に行ったら、オレらみたいなガキなんて犬にも劣る存在だ」
「行ったこともないでしょう」
「親もいなけりゃ学もない。それなのに無駄な自尊心ばっかり身につけて、そんな人間がどうやって外で生きていけるっていうんだよ」
外に行くだけならば、道はきっとあるのだ。レオラにもクリュソにも行ける。
例えば誰かに頭を下げて、身を売って、物乞いのように生きていくことだってできるだろう。
やり方なんていくらでもある。
しかしハクトの矜持はそれを許さなかった。
誰にも従いたくない。
自由でありたい。
無駄に育ってしまった自尊心のために、この狭い街から一歩も出られないのだ。
でも、もし。
もし自分の生まれがもっとまともだったならば。
こんな街に生まれてさえいなければ、きっと、もっと。
ハクトはぐっと拳を握りしめた。
「人は生まれが全てだ。オレは一生どこにも行けない」
つまらない奴らだとこの街を馬鹿にしている。だが同じ心のさらに奥底でずっと理解していた。
自分も同じ、つまらない人間だ。
何もできずここで死ぬまで息をするだけの、つまらない人生。
では何のために生きるのだろう。
そこに意味を求めるのは、過ぎた願いなのだろうか。
「疑問と欲求は万物の起点だ」
窓越しの風にすらかき消されそうな細い声でリディが言う。
翡翠色の目に、笑みの影はなかった。
「望むことをやめて世界に従順になってしまったら、何も始められない。何故と思えるなら、こうしたいと思えているなら、きっとそれは変われるということなんじゃないかな」
ハクトは何も言えず、ただリディの横顔を見ていた。
世界はひょんなことで変わる。
きっと、後戻りもできないほど、急激に。
「まあ、これは受け売りなんだけどね」
何かを諦めたようにリディは呟く。
異質な瞬間の終わりを感じて、ハクトはいつも通りの笑みを口元だけに浮かべた。
「誰からの?」
「言葉にできる間柄の相手じゃない。でもまぁ、とにかく特別な人だ」
「何だよそれ」
「関係性って、定義しにくいものだよ」
難しく考えすぎなだけだろうと、ハクトは思った。
友人でも何でも、適当な名前をつけてしまえば良いのに。
「そんな考える余地なんてあるか?」
「じゃあ君にとってカロアンはどういう関係に当たるの?」
「はぁ。嫌なこと聞くね、お前」
「二人とはまた違うけど、複雑さは同じくらいだと思うよ」
他人に名前をつけられないのは自分も同じだ。
ハクトはつまらなそうな顔で、窓の外に目を逸らした。
「……外、出て来る」
そう言って立ち上がれば、リディは穏やかに微笑む。
「着いて行かないほうが良いよね」
「お好きにどうぞ」
「ここに残るよ。じゃあ、また」
また、だなんて挨拶をしたのはいつぶりだろうか。
何か言おうとして、結局何も言わないままハクトは部屋を後にした。
世界はひょんなことで変わる。
その通りかもしれなかった。
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