第49話 キスされんのか、俺

 俺の上には今、エルミアが覆いかぶさっていた。

 髪の毛がふわりと重力に従って、俺の顔に降りかかる。


「エルミア……?」

「動かないで」


 お互いの息がかかるような距離。

 鼻腔びこうを刺すのは、姫白百合の花の香りと―――僅かな汗の匂い。

 おそらくエルミアはこれから湯浴みの時間だったのだろう。

 一日動きっぱなしだったろうし、この夏の暑さでさぞや代謝が働いたはず。

 エルミアにとっては不運だろうな。

 俺はバレないようにすぅっと、鼻から深く空気を取り込む。

 丸一日分凝縮したであろう少女の体臭は、今、俺に嗅がれていた。


 ――当然、不可抗力だ。


 匂いというものは時に、視覚で得られる以上の情報量をもつ。

 女性化学物質フェロモンというのはアポクリン腺、いわゆる脇や陰部、耳、肛門などに当たる部位から体外に分泌されるらしい。

 アリが同個体の行動に影響を及ぼすのも、犬が飼い主の帰宅に過剰に喜びを見せ、その部位を舐め回すのも体外分泌物フェロモンの仕業である。

 かくいう俺もまたエルミアの体外分泌物フェロモンを嗅ぎ取ることで、言い知れない安心感と喜悦の中、脳が緩やかに痺れていくのを感じた。

 あまりに可憐な少女なのでつい忘れがちになるのだが、この親しみ深い芳香ほうこうだけが、エルミアも一人の人間なのだと思い出させてくれる。

 近くて遠い、それが俺とエルミアの丁度よい距離感なのだろう。


「……やっぱりお兄様は変態だわ」

「なっ」


 エルミアは羞恥に顔を赤らめながらも、妖艶な笑みを見せる。

 なぜ……?

 どうやら俺の変態的行為はエルミアには筒抜けになってしまっているようだ。

 しかし取り乱し、口汚く罵るかと思えばそうではない。

 俺を変態と言うその言葉にも棘はない。

 どうやらエルミアは嗅がれることが嫌ではないらしい。

 それどころか……

 エルミアの魔力に乗って流れ込んでくるその感情は――


 高揚、征服、愉悦ゆえつ……そして性的興奮。


 エルミアの性癖が垣間見えた気がした。

 そしてそれは逆もまた然り。

 ただ今、この瞬間にも俺の性癖はエルミアに暴かれているのだろう。

 エルミアの胸元が空いた服の隙間からは、きれいな鎖骨と膨らみ始めた胸の曲線が見えた。

 実年齢を意識すれば俺は羞恥にもだえるかも知れないが、この世界でならそこに手を伸ばすのも難しくはない。


「お兄様、そのまま、私だけをずっと見てて……」

「エルミア……?」

「私はこんなに思っているのよ…………こんなにも、お兄様のことを」

「……」


 エルミアの金の瞳が揺れていた。

 その目には涙が浮かび、やがて俺の頬に落ちた。

 言葉の範囲に収まらない、激しくうねる海のような感情が魔力を通して伝わって来る。

 これはあれだ、『お兄様大好きちゅっちゅ』を百万回ぶつけられているようなものだ。

 初めて味わう感覚に戸惑いつつも、脳内麻薬がじゃぶじゃぶと溢れ出し、俺は快楽の海に溺れていた。

 俺でなければ理性が崩壊して飛びかかっているところだろう。

 ――ただ、作用があれば反作用もある。

 客観視することはできないが、俺もすでに『エルミアらぶらぶちゅっちゅ』をやってしまっているのだろう。

 そしてエルミアにもおそらくそれが分かっているのだ。


「お兄様がいけないのよ、私をこんな風にしたお兄様が」

「それって、どういう……」


 潤んだ唇がゆっくりと俺に近づいてくる。


(キスされんのか、俺)


 俺とそういう関係になることを一体いつから、エルミアは望んでいたのだろうか。

 エルミアは誰が見ても可憐な娘だ。

 妹であっても、俺は女性と意識している。

 エルミアが俺の嫁になりたいというのならば、是非はない。

 物理的に邪魔してくるやつは大勢いるだろう、ラーネッキとか。

 しかし一方で感情的に乗り越えるべきハードルは驚くほど低い。

 現実的なことを言えば、ステラ級は二親等以内だろうと遺伝子異常の心配もないしな。

 帰ったら父に報告しなければならないかもしれない。

 父様、俺はエルミアと幸せになります――と。


 俺は目を瞑って、静かにその時が来るのを待った。


「痛っ」


 右耳にチクリと痛みが走った。

 へ? は?

 何事かと目を開けて、右耳に触れる。

 金属装飾が耳朶みみたぶにくっついているような妙な感覚と、そして――


「血?」


 耳から血が流れていた。

 は? なんじゃこりゃ。


「ふふ、成人祝いよ、おめでとうお兄様」


 エルミアは悪戯が成功した小悪魔のように笑った。


「成人祝い……ああ、なるほど」


 呆然とする意識の中、俺は必死に頭を回転させる。

 ――初陣を果たした貴族の耳飾り。

 オルテノスなら狼の牙をかたどった金の装飾になる。

 魔法が器用なエルミアのことだ、おそらく極小のミーティアレイで俺の右耳に穴を開けて付けたのだろう。

 ご丁寧に治癒魔法をかけて完全に癒着されている。

 これはもう引きちぎる以外には外せまい。


「これでお揃いね、お兄様」


 エルミアはそう言ってホワイト系の髪をかき分け、右耳の金の耳飾りを見せた。

 初陣を達成した貴族だけが身につけられる一人前の貴族の証。

 俺のように初陣でステラ級二人を屠ったような存在はおそらく居ないだろう。

 それでも武功の大小に問わず成人は成人。


「え、それだけ?」

「それだけよ、お兄様はそれ以外に何か期待したのかしら?」


 エルミアはそう言ってくすくすと笑った。

 期待しなかったといえば嘘になる。

 射精寸前で尿道に釘をぶち込まれたような気分だ。

 この刹那的な快楽を求めないのは、男女差によるものか。

 駄目だ、今の俺にはもうエルミアしか考えられない。

 魔力を通して気持ちが通じ合うということがどれほど尊くて、離れがたいのか知ってしまったから。


「エルミアは……いや、なんでもない」


 それでいいのか、と聞こうとしてやめた。

 未練がましいのを見破られたくない。

 ただ、いよいよを以てエルミアを誰かに渡すことはできなくなった。

 今回の俺の功績を以て、当主になる選択も浮上するほどに。

 それならば当主の特権で、正式にジルガからエルミアを取り返せるし。


「お兄様、私は欲しいものは自分で手に入れることにしたの」


 エルミアが真剣な表情でなにやら話を始めた。

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