侯爵令嬢は近くて遠いこの距離に、まだ溺れていたい。

神田義一

第1話

「──で、婚約を破棄した」

「……また!?」


 私、ティアナ・エヴァレットは深々と溜息をつく。

 目の前に座る男は、幼馴染で騎士のレオン・アーデルバート。

 縁あって、彼は私の家──エヴァレット侯爵家にたびたび出入りをしている。

 そして、彼は今しがた「二度目の婚約破棄」を宣言してきたばかりらしい。


 私とレオンは生まれた時からの付き合いだ。歳も一つしか違わない。

 王宮騎士の家系に生まれた彼は幼いころから騎士としての英才教育を受け、私は侯爵家の令嬢としての淑女教育を受けていた。

 でも、私たちが一緒にいるときだけは、お互いにそんな窮屈さから解放されていた。


──だから今もこうして、大きなシャンデリアの光が差し込む侯爵家の一室というのに、会話の中身はとても貴族とは思えないほど砕けているのだ。


「はぁ……ほんと、レオンは女運がないわよね」

「いやそうなんだよ。前もそうだったが、まさか今回の相手も浮気癖があるとは思わなかった。まったく、女難続きで頭が痛い」


 テーブルの上のティーカップを手に取るレオンの仕草は、騎士らしく無駄がない。

 しかし、二度も婚約を破棄している事実からは、どう見ても“ただの女たらし”か“本当に女運のない男”の二択にしか思えない。

 私は彼の誠実さを知っているからこそ後者だとわかるけれど、世間の人々はどう見るだろう。


「それにしても……モテるのに二度も浮気されるなんてこともあるのね」

「うるせぇな。モテるわけじゃないんだ。運よく縁談は舞い込むけど、なぜか裏切られたり騙されたり……俺の何が気に入らねぇんだろうな……」


「えっと……具体的に言うと、『レオンが鎖骨フェチの変態だ』ってところかしら?」

「ちょっ、それは違うだろ!? “変態”呼ばわりは心外だ!」

「はいはい。じゃあ“極度の鎖骨好き”って言い換えてあげる」

「……根本的に変わってねぇじゃねぇか!」


 二人で顔を見合わせ、くすっと笑い合う。この気安さは、長年の腐れ縁だからこそだ。

 椅子の背にもたれ、改めてレオンの顔を見やる。金色の髪は手入れが行き届いているし、長身で引き締まった身体つきは騎士そのもの。

 顔立ちだって整っている。貴族の娘が放っておくわけがないと、誰もが思うだろう。

 しかし、なまじ注目される分、それに群がってくる人々にもいろいろな思惑があるらしい。


「で、次の恋の相手は……もういるんでしょう?」

「……っ。な、なんでわかんだよ?」

「顔に出すぎ。ほんと、惚れやすいわね。婚約破棄してきた割にずいぶん楽しそうだったもの」


 するとレオンの顔は、さらにバツが悪そうに青ざめていく。


「その、まぁ……そうなんだけど、その子は貴族じゃないんだ。街の中心にある酒場の“ロニエール”って店、知ってるか? そこで働く看板娘で……」

「あぁ~! わかるわかる。最近評判になってるわよね。“行くだけで元気が出る看板娘”とかいう触れ込みで……!」

「おいおい、どこまで知ってんだよ」

「いいわよね、彼女……たしか名前は、リタとか言ったかしら?」


 名前を言ってやると、レオンががっくりと頭を落とす。


「はぁ、だからティアナには隠しておこうと思ったのに。どんな情報網だよ……」

「ふふ、内緒」


 私はそう誤魔化しながらお茶を一口すする。彼の好みは案外幅が広いな、とは以前から思っていたけれど……。

 前の婚約者であった伯爵令嬢は品のある清楚美女だった。対して今回の看板娘は明るく元気なタイプと噂。見事に真逆だ。


 レオンがずっと好いていた前の伯爵令嬢──ティゼル・ロウライト。流れるような長い金髪の持ち主で、いかにも清楚なお姫様のような子だった。

 あの頃、レオンがどうしようもなく彼女に惚れていたことを私は知っている。なにせ、いつも話題が彼女で持ち切りだったからだ。

 だから私は──そのティゼル嬢に似せた髪形に変えてみた。

 ティアナ・エヴァレットとしての好みではなく、“レオンが理想とする容姿”に。


 ……レオンは気付いていないんだろうなぁ。まさか私が、彼の好みだった“清楚系の長い髪”に合わせて髪を伸ばしていたなんて。


「……よし。今度はリタにどうアプローチするかだな」

「……急ぐのもいいけど、ちゃんと破談の手続きもしてからね。変な噂立っちゃうよ?」

「あ、そうだった」

「もう……で、リタさんは知ってるの? あなたが変態ってこと」

「鎖骨フェチは変態じゃねぇ!!」


 レオンが楽しそうに話す。その姿を見ていると、私の胸はちくりと痛む。

 あなたの好きなものも嫌いなものも、他の女性の誰よりも私は知っているのに。

 ──どうか今度こそ、彼が浮気されることなく、幸せになれますように。

 そう祈りたい気持ちと、どこか寂しい気持ちとがせめぎ合う。


「っていうか、リタさんってロウライト伯爵令嬢と随分タイプが違うわよね。てっきり清楚系が好きなのかと思ってた。リタさんはザ・元気って感じで、髪も赤毛でポニーテールだし」

「いやぁ……なんつーか。ほら、いいじゃねえか! ポニーテール……首筋のうなじとか、な!?」

「……ぜーたくもんね。選べるからって。あとしれっとフェチ追加しないで」


 鏡に映る、自分の長いまっすぐな黒髪。手で解けば、簡単にポニーテールにはできるだろう。

 ──ポニーテールか……してみようかな。

 そんな思考が一瞬よぎる。

 笑顔が素敵なリタさんとは違って、私はあまり明るい人間ではないけれど、それでも少しだけ近づけるかもしれない。


「つーかさ」


 急にレオンが真顔になり、身を乗り出して私の顔をじっと見る。


「ひゃっ……な、なに?」

「俺ばっか恋愛話させられるのは、不公平じゃねぇか? ティアナも聞かせろよ」


 そう言って、レオンは急に身を乗り出してくる。

 思わず私はドキっとして背筋を伸ばす。

 今の会話の流れならそう聞かれても当然だ、と頭ではわかっているのに、体が一瞬こわばってしまう。


 ……だって、私には──


「えーと……わ、私は別に……婚約者なんていないよ?」

「嘘つけ。お前、社交界じゃ注目の的じゃねぇか。侯爵家の令嬢で、舞踏会の度に誘いが絶えないって聞くぞ。ちょっと前の茶会だって……」

「そりゃ誘いはされるけど、私自身が興味を持てないんだもの。仕方ないでしょ?」

「ほーん……? いい男はたくさんいるんじゃねぇのか? まさか“影の恋人”がいるとか──」


 目の前でからかうようにニヤけるレオン。

 私は思わず言葉に詰まる。それを見た彼は、さらにおどけたように笑みを深める。


「ほら、俺が騎士団で仕えている殿下とか。お前が彼と一緒にいても不思議じゃ──」

「ないない。そんな大物に興味ないし」

「じゃあ、伯爵家の嫡子のエルマーはどうだ? あいつも優秀だぞ?」

「私があのデブを好く要素があると思う?」

「……まあ、ないか」


 レオンの目に宿る好奇心は、まるで“親しい友人の恋を応援したがる少年”そのものだ。

 そして、彼はき気付いていない──私がこのまま曖昧に笑ってごまかす理由に。


 私は胸の奥にある“想い”をどう扱えばいいのかわからなくて、曖昧な笑みを浮かべるしかない。

 そんな私の葛藤など知らずに、レオンは短く息をついた。


「じゃあ、お前はどんなやつがタイプなんだ?」

「え?」

「そういえばお前、昔からあんまり恋愛の話しなかったよな。淑女教育でがんじがらめにされてきたから仕方ねぇかもしれないけど。今だって結構自由に振る舞ってはいるけど、肝心の恋バナには弱いよな」


 突然そんなことを言われ、私の頭の中がぐるぐると混乱する。

 ──好きなタイプ?

 その答えを言葉にする勇気など、当然持ち合わせていない。


「わ、私は……そうね……。強くて、優しくて、時々ちょっとおバカなところがあって……でも、背筋を伸ばせば凛々しくて……」

「……?」

「なんでもない、今のはちょっとした例え話」

「なんだそりゃ。ま、いずれにしてもお前なら立場もあるし、すぐ相手が見つかるだろ? 俺の方こそ肩身が狭いぜ。二度も婚約破棄してるしさ」


 そう言ってしょんぼりと茶をすするレオン。私は微苦笑しながらも、心の中はもやもやとしたままだ。

 何も行動に移せず、こうして目の前でお互い他愛ない話を続けている。

 昔からずっとそうだ。“そばにいるのが当たり前”で、“素直に気持ちを伝える”という発想がなかった。


「じゃあ……ズバリ、好きなやつはいるのか!?」


 彼の無自覚さに、思わず笑いが込み上げてくる。

 彼も昔からそう。自分の気持ちに素直なくせに、他人の気持ちには鈍感というか。優しいあまり、気付けないところがあるのだ。


「………………」

「………………」


 お互い見つめ合って、しばし沈黙が落ちる。

 そして私は、ごまかすようにお茶を飲み干した。レオンも同じようにティーカップを持ち上げる。

 こんなにほのぼのとした時間に、胸が苦しいなんて、どうにかしている。


 嗅ぎ慣れた紅茶の香りが漂う。長年変わらない、彼と二人の空間。

 子どもの頃から、ずっとこうして会話してきた。

 これ以上望めば、すべてが壊れてしまうかもしれない。


 だから、テーブルを挟んだ、近くて遠いこの距離の心地よさに──


「……いるかもね」


 私はまだ、溺れていたい。



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侯爵令嬢は近くて遠いこの距離に、まだ溺れていたい。 神田義一 @ulega3

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