28年前の約束を俺は今果たそうと思う
春風秋雄
懐かしい曲が流れてきた
病院帰りの車の中で、ラジオから懐かしい曲が流れてきた。イーグルスの“Take It to the Limit”だ。途端に忘れていたはずの30年ほど前の記憶が蘇ってくる。あの時、俺は春奈と喫茶店にいた。夏の暑い日だった。二人の前に置いてあるアイスコーヒーは、もう氷は解け、カップの水滴が紙のコースターを重く濡らしていた。二人の会話が途切れた時、それまではBGMとして聞き流していた音楽がイーグルスのLIVEアルバムだと気づいた。その時かかっていた曲が“Take It to the Limit”だった。
「ねえ、“Take It to the Limit one more time”て、日本語で何て訳す?」
「もう一度限界まで挑戦しようって意味かな?」
「私今まで、限界まで挑戦したことないんだよね。裕人はある?」
「俺もないかもしれない」
「私、今度こそ限界まで挑戦してみようかな」
「それはパティシエの勉強をもう一度やり直すということ?」
「うん。パリへ行こうかどうしようか迷っていたの」
「そんなこと今まで何も言ってなかったじゃないか」
「そういう誘いがあったというだけで、自分の中で結論が出ていたわけではなかったから」
「それで今結論が出たということ?俺が司法試験を諦めて就職すると言ったことが決め手?」
「そうね。でも、一番の決め手はこの曲かな。このタイミングで流れるんだもの」
「パリへ行くって、どれくらいの期間のつもりなの?」
「さあ、半年なのか、1年なのか、はたまた5年なのか。行ってみないとわからないよ」
「日本に帰ってきたら、もう一度俺たち付き合える?」
「何年先になるかわからないから、約束はしない方がいいよ。裕人だって、良い人が現れるかもしれないし」
「俺は春奈以外の女性は考えられない」
「それより裕人も、私のことなんか考えずに、もう一度限界に挑戦してよ。裕人なら必ず司法試験合格して弁護士になれるから」
「春奈が日本に帰ってきたとき、俺が弁護士になっていたら結婚してくれるかい?」
「そんな先の話は約束できないよ」
「俺は必ず迎えに行くから」
春奈はジッと俺を見ていたが、最後まで返事をしなかった。
俺が26歳の時だったから、もう28年も前のことだ。俺は今年54歳になる。2つ年下だった春奈も今年52歳か。あれ以来春奈には会っていないので、どんな52歳になっているのか想像がつかない。
俺と春奈が出会ったのは、俺がまだ大学生だった頃だ。大学の近くにあった喫茶店で春奈は働いていた。その店ではショートケーキを置いていたが、それを春奈が作っていた。週に3回は通っていたので、そのうち顔を覚えられた。最初に話しかけてきたのは春奈の方からだった。
「大学生ですか?」
いつも教科書を開いていたので聞いてきたのだろう。
「ええ、そこの大学へ通っています」
「すごい、優秀なんですね」
「そんなことないです」
「今何年生なのですか?」
「4年です」
「じゃあ、就活とか大変じゃないですか?」
「僕は就職はしないので」
「ご実家が何かご商売でもされているのですか?」
「いや、司法試験を目指しているので、就職せずにアルバイトで生活しながら勉強をするのです」
「すごいですね。私も今ここで働きながら専門学校に通っているのですよ」
「何の専門学校なのですか?」
「製菓の専門学校です。製菓衛生師の資格を取るのです」
「そんな資格があるのですか?」
「ええ。資格をとってなくてもパティシエにはなれるのですが、大きな店で働くには資格を取っていた方が採用されやすいのです。皆が認める一流のパティシエになりたいんです」
「パティシエですか。あのショートケーキもあなたが作ったのですか?」
俺はショーケースを指さしながら聞いた。
「はい。まだ未熟ですけど、店のオーナーに頼んで作らせてもらっているのです」
「じゃあ、お勧めのケーキをひとつお願いします」
「食べて頂けるのですか?ありがとうございます」
何種類か並んでいる中で、春奈が選んだのはフルーツが乗ったケーキだった。美味しい。普段は自分でケーキを買うことはないので、他との比較はできないが、甘過ぎず、フルーツの味を引き出したバランスは絶妙で俺好みの味だった。
「美味しいです」
俺がそう言うと、春奈は嬉しそうにニコッと笑った。その顔がとても可愛かった。
「お客さん、良く来られるので、お名前教えてもらってもいいですか?」
「磯島裕人(いそじま ひろと)です。あなたは?」
「私は井上春奈といいます。今度新作を作ったら、是非試食してみてください」
その日を機会に、俺が店を訪れると必ず春奈は近寄ってきて、自分の作ったケーキを勧めてくれるようになった。
春奈をデートに誘ったのは、親しく話すようになって1か月ほどした頃だった。女性と付き合ったことがなかった俺は、ドキドキしながら食事に誘ったが、春奈は気軽に応じてくれた。週に2日しかアルバイトをしていない俺は、学生が良く行くリーズナブルなイタリアンの店に連れて行くのが精いっぱいだった。それでも春奈は「男の人と食事をするのは久しぶり」と言って喜んでくれた。春奈は明るく、よくしゃべる女性だった。お酒も強いらしく、俺より飲んだ量は多かった。会計時に俺が財布を出すと、春奈は伝票を見て半分出してくれた。
「誘ったのは俺なんだから、俺が払うからいいよ」
と言うと、春奈は
「また誘ってほしいから、磯島君に無理させたくない。誘いたいのにお金がないから誘えないというのは嫌だもの。私を誘うときはお金のことは考えなくていいからね。私は割り勘でラーメン屋でも楽しいのだから」
と言って、無理やり半分払った。正直言って、そう言ってくれてうれしかった。俺の経済状況では度々誘うことは出来ないと思っていたからだ。
3回目のデートのあと、春奈をマンションまで送っていくと、
「部屋に上がってお茶でも飲んでいく?」
と誘ってくれた。その誘い方がぎこちなかったので、俺はある予感がした。
お茶でもと言っていたのに、春奈は冷蔵庫から缶ビールを出してきた。春奈はいつもより、よくしゃべった。俺は春奈の話しに引き込まれ時間を忘れてビールを飲んだ。ふと時計を見ると終電まであと5分という時間だった。ここからならタクシーで帰っても3000円くらいで帰れる。
「今日は、泊っていく?」
春奈が聞いた。
「泊ってもいいの?」
「私、シャワーを浴びてくる」
春奈はそう言って浴室へ行った。春奈がシャワーを浴びてパジャマ姿で出てきたあと、入れ替わりに俺もシャワーを借りる。俺は着替えのパジャマはない。もう一度服を着て出ようかとも思ったが、下着だけ履き、バスタオルを巻いて寝室へ戻った。部屋の電気は消され、ベッドのライトだけが艶めかしく灯っていた。春奈は俺の顔を見ながら、布団を持ち上げ、ここに入れと促す。俺は誘われるまま、そっと春奈の横に滑り込んだ。
女性と付き合うのは初めてだったので、俺は春奈に夢中になった。喫茶店には毎日通うようになった。遅掛けに店に入り、春奈の仕事が終わるまで粘り、一緒に帰る。春奈のマンションへ行き、春奈が作ってくれた夕食を一緒に食べる。食事のあとは一緒にシャワーを浴びてベッドに入る。俺は泊りたかったが、春奈は終電近くになると司法試験のために勉強しろと言って、俺をマンションから追い出した。
春奈は朝から専門学校へ行き、専門学校が終わってから喫茶店で働いていた。付き合いだした翌年の春に専門学校は卒業して、その年の秋に製菓衛生師の資格を取得した。製菓衛生師の資格をとって大きな店で働くと言っていたが、一向に就活を始めようとはしない。それとなく聞くと、「今の店は自由にケーキを作らせてもらえるから、もう少しここで勉強する」と言っていたが、大きい店に移ってマンションを引っ越したら、俺との関係が終わるかもと考えていたのかもしれない。俺は大学を卒業してからも変わらず学生時代からのボロアパートに住んでいた。アルバイトも最低限のお金を稼げば良いと考えて、それほど働いておらず、引っ越す貯金もなかった。かといって、俺の方から春奈に同居させてくれとは言えない。春奈は今も俺が泊まることを拒んでいる。一緒に住めば俺の勉強の妨げになると思っているようだ。
俺は大学を卒業した年から司法試験にトライしていた。まだロースクールの制度がなかった時代だから、短答式、論文、口述と試験を合格しなければならない。しかし、最初の短答式が通らない。明らかに勉強不足だった。大学の同級生で司法試験を目指しているやつらは、一日10時間以上勉強している。それに比べて俺は1日に4~5時間しか勉強をしていない。どうしても春奈と過ごす時間を優先してしまうからだ。
3年連続して短答式が不合格だったことを春奈に伝えると、春奈は何か考えているようだった。俺は少し嫌な予感がした。すると、しばらくして春奈は大きな店に移ると告げた。場所を聞くと俺のアパートから一時間ほどかかる場所だった。それからの春奈の行動は早かった。マンションを引き払い、新しい店の近くにマンションを借りて引っ越した。
「これからは、あまり会えないと思う」
春奈が言いにくそうにそう言う。
「大丈夫だよ。時刻表を調べたけど、最終電車の2本前に乗れば帰れるから、今までより30分程度早く春奈のマンションを出れば良いだけだから」
「それより、往復の時間で2時間も取られるでしょ?勉強する時間が減るじゃない」
「電車の中でも勉強はできるから」
「私は、裕人にはちゃんと勉強してもらいたいの。司法試験に合格してもらいたいの」
春奈が大きな店に移ったのは、春奈自身のためでもあるが、俺と距離をとって、俺の勉強時間を作らせるのが一番の目的だったのだと気づいた。
俺は春奈の気持ちに応えようと、必死に勉強をした。こんなに勉強したのは大学受験以来だろう。しかし、翌年の短答式も不合格だった。俺の中で何かが音を立てて壊れていくような気がした。
夏の暑い日、久しぶりに春奈に会いに行った。その日は春奈もお店が休みで、昼間から会うことができた。喫茶店でアイスコーヒーを注文して、他愛ない話を少ししてから、俺は春奈に聞いた。
「お店の方はどう?」
俺が聞くと、春奈は渋い顔をした。
「つくづく自分の未熟さを感じるよ。味はまあまあと言ってもらえるんだけど、見た目が全然だめだと言われる。前の店ではショートケーキしか作らなかったから、本格的なデザートとなると味はもちろんなんだけど、見た目もかなり重要だからね」
「そうか、結構苦労しているんだな」
「裕人は、今年も残念だったね。でも、来年こそは頑張ろうよ」
「俺、就職しようと思うんだ」
「え?どうして?」
「俺、もう26歳だし、就職するならもうギリギリかなと思って」
「司法試験はどうするの?」
「俺には才能がなかったんだよ。でも、弁護士は無理だったけど、今まで勉強した法律知識を生かせる仕事を探そうと思ってね」
春奈は黙ったまま何も言わない。
「それで、俺が就職したら、春奈、俺と結婚してくれないか?」
春奈は俺の顔も見ず、窓の外を見て何かをジッと考えている。二人のアイスコーヒーの氷は解け、カップの水滴が紙のコースターを重く濡らしていた。二人の間にしばらく沈黙が流れた。そのとき、ふっと耳に聞こえてきたのが“Take It to the Limit”だった。
春奈がパリへ行ってから、俺は必死に勉強した。アルバイトは家賃と食費だけ稼げれば良いので、週に2日だけでよい。それ以外の日は丸一日勉強した。おかげで、翌年の短答式はみごと合格した。かすかだが希望が湧いてきた。何とか春奈が日本に帰ってくるまでに弁護士になろう。俺は自分にそう言い続けて勉強をした。しかし、今度は論文が通らない。何回かチャレンジして論文が合格したと思ったら、最終の口述が全くダメ。そんなことを繰り返していた。春奈からは最初の2年くらいは数か月に1回程度手紙が来ていたが、この1年くらいはまったく手紙が来なくなった。もうそろそろ司法試験は諦めようかと思っていた時、2004年からロースクール制度が始まるという話を聞いた。司法試験の制度が大きく変わるらしい。法科大学院(ロースクール)を修了した者は短答式と論文だけで、口述試験がないという。何とか法科大学院に入れないかと思うが、お金がなかった。そのとき俺は32歳になっていた。そんなときに、アルバイト先の正社員だった文香(あやか)さんが声をかけてくれた。文香さんは俺より一つ年上の独身だった。俺が司法試験を目指しているのを知っていて、何かと気にかけてくれており、時々作りすぎたからと、タッパーに入れた料理などを帰りに持たせてくれたりしていた。その文香さんに休憩時間に法科大学院のことを話すと、そのお金を貸そうかと言ってくれたのだ。法科大学院は2年間の既修者コースと3年間の未修者コースがあり、俺は既修者コースを受験するつもりだった。それでも入学金と2年間の授業料で200万円弱のお金が必要だ。それだけのお金を借りて返せるのだろうか。俺が不安に思って躊躇っていると、文香さんが言った。
「弁護士になれば、簡単に返せるでしょ?その時は法律に基づいた利息を付けて返してちょうだい」
「もし、司法試験に合格できなかったら?」
「それは司法試験を諦めるときということ?そのときは、一生私の召使になってもらうわ」
文香さんはそう言って笑った。
法科大学院の既修者コースに入学した俺は必死で勉強した。文香さんは毎日俺のアパートに弁当を届けてくれるようになった。そんな関係で男女の仲にならないわけがない。春奈と別れてから一切女性に触れていなかった俺は、文香さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら休憩しているときに、後ろから抱きついてきた文香さんを拒むことはできなかった。
法科大学院を修了した俺は、新しい司法試験制度の初年度に合格した。文香さんとお祝いをしようとアパートに帰ると、文香さんから妊娠を告げられた。俺は文香さんを愛しているのかどうか、自分でもわからなかった。しかし、今までこれだけ尽くしてもらって、しかも子供まで出来たのなら、覚悟を決めるしかない。一瞬春奈の顔が頭をよぎったが、俺は明るく微笑んで文香さんに言った。
「文香さん、結婚しよう」
文香さんは堕ろせと言われると思っていたらしく、涙を浮かべて喜んでくれた。
司法修習を終えた後、俺はいくつかの法律事務所で経験をさせてもらい、12年前に独立して「磯島裕人法律事務所」を起ち上げた。事務所に掲げた看板を見て、やっと文香に、借りていたお金を返せたような気がした。しかし、その文香も5年前にガンでこの世を去った。息子の雄太はまだ中学生だった。俺は最後まで文香のことを愛していたのかどうか、自分ではわからなかった。しかし、文香の安らかに眠る最期の顔を見て、俺は涙が止まらなかった。
雄太は高校生になると、俺に再婚を勧めた。「将来の嫁さんに親父の面倒を見させるのは嫌だから」というのが理由だという。十数年連れ添った妻を亡くして、そう簡単に再婚をする気にはなれない。ただ、春奈のことは気になっていた。
インターネットが普及したおかげで、パソコンでいろんなことを調べることができる。俺はパソコンに「パティシエ井上春奈」と打ち込んで検索をしてみた。実は10年くらい前にも一度検索していた。その時はシティホテルに入っているレストランでパティシエをやっていた。俺は弁護士仲間とそのレストランに一度だけ食事をしに行った。料理はまずますといった味だったが、最後に出てきたデザートは最高に美味しかった。見た目も鮮やかで、パリでの修行の成果が出ていると思った。残念ながらパティシエがホールに顔を出すことはなく、春奈の顔を見ることはできなかったが、元気にやっているということがわかっただけで満足だった。今もあのホテルのレストランでパティシエをやっているのだろうかと検索すると、どうやら自分の店を出したようだ。「パティスリー春奈」という、ケーキをメインにした店のようだ。ホームページの写真を見ると、店内でお茶を飲みながらケーキを食べられる店だった。そういえば、最終的にはそういう自分の店を持ちたいと春奈は言っていた。その夢が叶ったということなのだろう。場所はどこだろうと、地図を見て驚いた。春奈と出会ったあの喫茶店があった場所だった。あの喫茶店を改装したレイアウトであれば、想像はつく。店に行けば、どうしても春奈と顔を合わせることになる。今さら面と向かって会う勇気はない。これは迂闊には行けないなと思っていた。
ところが、今日ラジオから流れる“Take It to the Limit”を聞いて、俺は春奈の店に行ってみようと思った。車を止め、ナビを合わせる。俺はひとつ息を吐いて、思い切ってアクセルを踏んだ。
平日の夕方だというのに、店内は結構お客が入っていた。お客のほとんどは女性で、こんなオジサンが来るのは場違いな気がしたが仕方ない。若い女性が席に案内してくれ、オーダーを聞いてきた。
「コーヒーと、店長のお勧めのケーキをお願いします」
俺がそう言うと、女性はちょっと困った顔をしたが、すぐに奥に引っ込んだ。
しばらくすると、先ほどの女性がコーヒーを運んできた。ケーキは?と思っていると、年配の女性がケーキを持って俺の席にやってきた。春奈だった。28年ぶりだろうと、どんなに年をとっていようと、俺にはすぐにわかった。
「こちらが本日のお勧めのケーキです」
春奈はそう言ってケーキをテーブルに置いた。俺が何か言おうとすると、春奈が小声で言った。
「この店は20時が閉店です。20時15分頃にお電話ください」
そう言って春奈は奥へ引っ込んで行った。よく見ると、ケーキにはチョコレートプレートが付いていた。そしてプレートには携帯電話の番号と思われる数字が書かれていた。
言われたとおりに20時15分に電話をし、俺たちは近くのファミリーレストランで待ち合わせた。
「久しぶりだね」
「すっかりオバサンになったでしょ?」
「それはこっちも同じだよ」
「弁護士になったのね。おめでとう」
「ごめんな。弁護士になったら迎えに行くと約束したのに」
「そんな約束はしてないわよ。あれは裕人が勝手に言っていただけで、私は待つなんて約束はしなかったもの」
「それでも言った以上は迎えに行くべきだったと思っている」
「でも迎えには来られない事情があった?」
「まあ、そんなところだ」
「10年くらい前に、ホテルのレストランにお友達と食べに来てくれたでしょ?」
「知っていたのか?」
「そりゃあそうよ。一応お客さんが男性なのか女性なのかチェックはするし、私が作ったデザートを食べてどんな反応をするかは見たいもの」
「じゃあ、俺が食べた反応もチェックした?」
「とても嬉しそうに食べてくれていた。あなたのその顔を見て胸が熱くなった」
「そうか、本当に美味しかったし、見た目もすごく綺麗だったから感動したんだ。もちろん今日のケーキも美味しかった」
「ありがとう」
「今はインターネットがあるから、春奈のことはすぐ調べることができた」
「私もインターネットで裕人が弁護士になったのを知ったの」
「そうなんだ」
「と言っても、独立して事務所を作った少しあとだけどね。私、事務所まで見に行ったの」
「え?本当に?」
「ちょうど仕事が終わったところだったのでしょうね。奥さんと息子さんと3人で事務所から出てきた」
そんな場面を見られていたのか。
「とても幸せそうだったから、私はそのまま帰ったけどね」
「春奈は、結婚は?」
「私のパートナーは生涯ケーキだけ。裕人と別れてから、誰とも付き合ってないわ」
「そうだったんだ」
俺は、ますます申し訳ないことをしたと思った。
「妻は5年前に亡くなった。ガンだった」
「そうなの?それは知らなかった」
「そして、今日病院へ行って、俺もガンだと告知された」
途端に春奈の顔が強張った。
「その病院からの帰り道で、車のラジオから“Take It to the Limit”が流れてきたんだよ」
「懐かしい。それで私を思い出して来てくれたということ?」
「自分にケジメをつけたくてね。病気が病気だから、この先どうなるかわからないし」
「手術とかで治らないの?」
「結構難しい場所らしく、手術は五分五分だと言われた」
「諦めないで。裕人はまだまだやるべきことがあるのでしょ?」
「うん、ある。だから諦めない」
「“Take It to the Limit”ね」
「そう、あの時と同じように限界まで挑戦する」
車で春奈をマンションまで送っていく。マンションの前で車を止め、俺は春奈に言った。
「さっき、まだやるべきことがあるって、言っただろ?」
「うん」
「春奈の気持ちはわからないけど、俺はもう一度春奈と一緒の時間を過ごして、春奈を幸せにしたい」
春奈はジッと俺を見たまま何かを考えていた。また何も返事をせず、車を降りるのかと思ったが、おもむろに春奈が口を開いた。
「わかった。約束して。ちゃんと病気を治して、今度こそ私を迎えに来ると」
その言葉を聞いて俺は目頭が熱くなってきた。それをごまかすように、俺は春奈を抱きしめた。
「約束する。今度こそ、迎えに来る」
「絶対だよ。本当は、私、ずっと待っていたんだから」
春奈が泣きながらそう言った。
俺は、申し訳なくて申し訳なくて、春奈を抱きしめる手にグッと力を籠めることしかできなかった。
手術が無事成功し、退院した俺は、真っ先に文香の墓に参った。
俺の手術が成功したのは、文香が天国から応援してくれていたからかもしれない。俺は手を合わせ、文香に言った。
「また文香に助けられたのかな。ありがとうな」
文香がニコッと笑ったような気がした。
「これから春奈のところへ行くけど、許してくれるかい?」
文香がふくれっ面をしながらも、仕方ないねと言っている気がする。
車を飛ばし、「パティスリー春奈」へ向かう。店の前の駐車場に車をとめ、ドアの前に立った。
このドアを開ければ、甘いケーキの香りと、春奈の笑顔が俺を待っている。俺はゆっくりとドアを開けた。
28年前の約束を俺は今果たそうと思う 春風秋雄 @hk76617661
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