第3話 隆清院 ~秘めたる想い~
豊臣秀次の娘、隆清院(りゅうせいいん)。彼女の人生は、栄華と悲劇の狭間を揺れ動いてきた。かつては関白の娘として、京の都で華やかな生活を送っていた。美しい着物をまとい、雅な音楽に耳を傾け、才気あふれる父との穏やかな日々。しかし、その日々は文禄4年(1595年)の父・秀次の失脚と切腹によって、一変した。一族の多くが処刑される中、幼い隆清院は命を助けられたものの、その胸には深い悲しみと、将来への不安が刻まれた。
隆清院の正確な生年は不明だが、父・秀次の享年から推測すると、秀次切腹時にはまだ幼かったと考えられる。そのため、大坂の陣の頃には20代半ばから後半くらいだったと推測される。実名(諱)もはっきりとは分かっておらず、史料には「隆清院」という法名でしか記録されていない。
その後、隆清院は真田幸村の側室となる。いつ頃幸村の側室となったのかは定かではないが、関ヶ原の戦い後、幸村が九度山に蟄居していた時期と考えられる。幸村は正室の竹林院と共に九度山で困窮生活を送っていたが、隆清院もまた、かつての栄華とはかけ離れた生活を余儀なくされた。
隆清院は幸村を深く愛していた。武勇に優れ、義に厚い幸村の人柄に惹かれたのだろう。しかし、正室である竹林院への遠慮もあった。竹林院は幸村の苦しい時期を共に過ごしてきた糟糠の妻であり、隆清院は複雑な思いを抱えていた。
大坂の陣が始まると、隆清院は密かに幸村を支えた。大坂城内には、かつて父・秀次を通じて繋がりがあった人々もおり、隆清院はそうした人脈を活かして情報収集を行った。また、幸村の兵のために、密かに兵糧の調達にも奔走した。表立って戦場で活躍することはなかったが、彼女にしかできない方法で幸村に協力したのである。
隆清院の容貌について、具体的な記述は残っていない。しかし、関白の娘として育ち、教養も高かったことから、品のある美しい女性だったと想像される。大坂城内では、華美な服装は避け、目立たないように行動していたかもしれない。それでも、その立ち居振る舞いには、育ちの良さが滲み出ていたことだろう。
ある夜、大坂城内の幸村の居室で、隆清院は幸村のために薬湯を用意していた。城内の騒がしさが遠くから聞こえてくる。廊下を兵士が行き交う足音も絶えない。幸村は連日の激戦で疲弊しており、顔色も優れない。「お館様、少しでもお身体を温めてください」隆清院は心配そうに幸村に湯呑を差し出した。
幸村は静かに湯呑を受け取り、一口飲むと、「ああ、助かる。隆清院、すまないな。このような大坂城の騒がしい中で…」と疲れた声で言った。
「いいえ、お気になさらないでください。それよりも、お身体を大切にしてください。皆様、お館様のことを心配しておられます。竹林院様も…」隆清院は言いかけて言葉を飲み込んだ。
幸村は隆清院の表情を見て、優しく微笑んだ。「案ずるな。竹林院には、わしからきちんと話しておる。お前も、わしにとっては大切な存在だ。この大坂城で、こうして支えてくれること、心から感謝しておる」
隆清院は幸村の言葉に安堵の表情を浮かべた。「お館様…」
「この戦、どうなるか分からぬ。この大坂城が、再び炎に包まれるかもしれぬ。だが、わしは最後まで諦めぬ。豊臣家のため、そして…お前たちのためにも」幸村は力強く言った。
「わたくしも、お館様を信じております。この大坂城で、必ずや、勝利を掴むと…」隆清院は幸村を見つめ、静かに答えた。
その時、外から物音が聞こえた。「何事だ?」幸村は眉をひそめた。
「…もしや、敵襲でしょうか?この大坂城に…」隆清院は不安そうに言った。
幸村は立ち上がり、刀を手に取った。「確かめてくる。お前はここで待っておれ。この大坂城の中で、不用心にうろつくでないぞ」
隆清院は幸村の背中を見送りながら、固く手を握りしめた。彼女の心には、幸村への愛と、豊臣家への忠義が入り混じっていた。そして、この大坂城での戦が、彼女の運命を大きく左右することを、改めて強く感じていた。
**隆清院はどのような女性だったのか**
隆清院(りゅうせいいん)は、波乱の生涯を送った女性です。彼女の生涯を紐解くと、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代背景が見えてきます。
・出自と悲劇:
隆清院は、関白・豊臣秀次の娘です。秀次は豊臣秀吉の甥で、一時後継者とされていましたが、秀吉に実子(秀頼)が生まれたことで立場が危うくなり、最終的には謀反の疑いをかけられ、文禄4年(1595年)に切腹を命じられました。
この時、秀次の一族も多くが処刑されましたが、幼かった隆清院は命を助けられました。しかし、幼くして父を失い、一族が滅ぼされるという悲劇を経験しました。この経験は、彼女の人生に大きな影を落としたことでしょう。
・幸村との婚姻:
その後、隆清院は真田幸村の側室となりました。いつ頃婚姻したかは定かではありませんが、関ヶ原の戦い後、幸村が九度山に蟄居していた時期と考えられています。
幸村は正室の竹林院と共に九度山で困窮生活を送っており、隆清院もまた、かつての華やかな生活とは一変した日々を送ることになりました。
・大坂の陣とその後の消息:
慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣において、幸村は大坂城に入城し、徳川家康率いる幕府軍と戦いました。しかし、隆清院は娘の御田姫(おたひめ)と共に大坂城には同行せず、京都にいたとされています。
これは、隆清院が妊娠していた、あるいは出産直後であったため、戦乱の地である大坂城へ行くことが難しかったためと考えられます。また、豊臣秀次の娘という立場上、大坂城内で目立つことを避けたかったという事情もあったかもしれません。
(今回の私の小説「幸村を支えし女たち」では、ストーリーの展開上、隆清院は大坂城内で幸村を支えているという設定にしてあります)
大坂夏の陣で幸村が討ち死にした後、隆清院はどのように過ごしたのか、詳しいことは分かっていません。娘の御田姫は後に伊達氏の家臣である片倉重長に嫁ぎ、隆清院自身は寛永10年(1633年)に京都で亡くなったとされています。
・人物像:
史料が少ないため、隆清院がどのような人物だったのかを具体的に知ることは難しいですが、以下のような人物像が推測できます。
悲劇的な過去を背負った女性: 父の死と一族の没落という悲劇を経験しており、その心の奥には深い悲しみと孤独を抱えていたかもしれません。
幸村を深く愛した女性: 幸村の側室となり、苦しい時期を共に過ごしたことから、彼を深く愛していたと考えられます。
控えめで慎ましい女性: 大坂の陣で表立って活動した記録がないことや、豊臣秀次の娘という立場から、目立たないように行動していたと推測されます。
教養のある女性: 関白の娘として育ち、一定の教養を身につけていたと考えられます。
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