第三話 月夜の下、あなたに出会う

 その時、視界の端に人影が映った。

 庭園の植え込みの近く、月明かりの下で男性がうずくまっている。

 見るからに豪華絢爛な貴族衣装に包まれ、まるで星屑を散りばめたかのように輝いている艶やかな金髪。

 その華やかな外見にそぐわない苦しげな様子が気になり、つい足を向けてしまった。


「大丈夫ですか?」

 

 警戒しつつも声をかけると、相手は重々しくゆっくりと顔を上げた。

 月光に照らされたその顔は驚くほど整っていたが、どこか青ざめている。


「すみません……。少し……酒に酔っただけです」

 

 彼は額に手を当てた。

 その額から冷や汗が滲んでいるのがわかる。そして息が浅い。どうやら『少し』の程度は超えていそうだ。

 無意識のうちに荷物の中を漁り、薬箱を取り出していた。

 

「これを飲めば少し楽になるはずです」


 彼は差し出した薬を不思議そうに見つめながら呟くように言う。

 

「……あなたは?」


 目線をこちらに向け直した彼の翡翠色の瞳は、やはり不思議そうな色を浮かべている。

 まあ見ず知らずの人間から渡される薬なんて、怪しく感じるのも無理はないだろう。


「薬師です。ご不安でしたら、私が先に飲んでみせますよ」


 そう言いながら無造作に薬を口に運んでみせると、彼はやや慌てた様子で手を伸ばしてきた。

 

「いや、そういうつもりで聞いたわけではない。……ありがとう、いただくよ」


 服用してから数分後。

 彼の顔色が目に見えて改善したことに胸を撫で下ろす。


「……これはすごい。おかげでだいぶ楽になりました」

「それならよかったです」


 彼は立ち上がると軽く身なりを整え、まっすぐな瞳でこちらを見つめてきた。

 気品のある立ち姿に、つい見惚れてしまいそうになってしまう。

 

「助けていただき感謝します。私はエドワード=マクロード。来客として招かれていたのですが、まさかこんな姿をお見せするとは、お恥ずかしい限りです」

 

 エドワードは照れくさそうに頭に手を添えたが、私はその名前に驚きを隠せなかった。


 ──マクロード家? そんな人がどうしてこんな所で……?


 マクロード家は王都でも屈指の名門貴族だ。

 そんな家の人間が、どうしてこんな庭の片隅で酔いつぶれていたのだろうか。


 その疑問が浮かんだ瞬間、エドワードは苦笑いを交えながら口を開いた。

 

「実は、酒の席は苦手でして。酒もそうですが、人混みや喧騒に酔ってしまって風に当たっていたんです。なんとも情けない話ですね」

 

 名門貴族ともなれば、酒宴や社交の場など日常茶飯事だろう。

 それなのに「酒の席が苦手」だと言う彼の言葉に少し意外な印象を受けた。

 そして、彼の正直さに親しみを感じてしまう。

 

「苦手なら、無理して飲む必要はないのでは?」

 

 言った瞬間、しまったと思った。

 彼なりの立場や事情があるだろうに、余計な口を挟んでしまったかもしれない。

 湧いた親近感と薬師としての習性からか、つい口に出してしまった。

 けれどエドワードは不機嫌になるどころか、微かに笑みを浮かべている。

 

「そうですね。ですが、こうしてあなたに助けていただけたのですから、結果オーライとでも言いましょうか」


 穏やかで気品がある口調に肩の力が抜けた。

 その柔らかな物言いに気を緩めた時、彼がふと真剣な顔になった。

 

「ところで、どうしてこんな時間に王宮を出て行こうとしているのですか?」

 

 鋭い観察力だ。

 言葉を詰まらせたが、正直に答えることにした。

 

「エドワード様はあの場にはいらっしゃらなかったようですね。先刻、ライアン様から婚約破棄を言い渡されました。なので、もうここにいる理由もなくなったのです」

 

 彼の眉が僅かに動いた。

 

「それは……お気の毒に」

「いえ、むしろ清々しています。もともと政略結婚で愛なんてなかったんです。ようやく自由になれましたし、夢だってまた追えるようになりました。私にとってはむしろ、祝福すべき門出なんですよ」

 

 そう言って微笑むと、エドワードは少し目を細めて問いかけてきた。

 

「夢、ですか?」

 

 穏やかな問いかけだが、どこか興味深げあり、それはまるで言葉の続きを期待しているかのようだった。


「はい。薬師として独立したいんです。それに、もっと勉強だってしたい」


 気づけば本音が零れ落ちていた。

 一度開いてしまった口からは、抑えていた思いがせきを切ったように溢れ出していく。

 

「婚約者として縛られていた一年間、自由なんてなかったですから。ですが、その鎖が断ち切れた。新しい人生は自分の道を歩みたいんです」


 言葉を終えると、エドワードは何かを思案するような表情に変わっていた。


「それなら、一つ提案があります」

 

 静かに放たれた言葉に思わず首を傾げると、彼は微笑みながら続けた。


「私の王宮にも専属の薬師がいるのですが、彼は年齢を重ねていて。今ちょうど後継者を探しているところなのです」


『王宮薬師の後継者』という響きに、胸の内でわずかな波紋が広がる。


「彼は長年、我が一族のために薬学の技術を尽くしてくれましたが、さすがに限界が近い。それで実力と可能性を兼ね備えた人材を探しているのですが……。私は、あなた以上にふさわしい人なんていないと思いました」


 唐突な申し出に息を呑んだ。


「私が、マクロード家の薬師の後継者に……?」

「そうです。先程の薬、とても素晴らしいものでした。あなたにはその資質があると感じています。ぜひ、その知識と技術をマクロード家のために役立てていただけませんか?」


 エドワードの目には揺るぎない確信が宿っている。

 自分の技量を認められたことは素直に嬉しい。

 けれど、『王宮薬師』という言葉が引っかかってしまい、簡単に首を縦に振ることができない。

 

 ライアンのように、利用されるだけされて捨てられるのではないか。

 そんな不安が胸を締めつけていた。


「不安そうですね」


 エドワードの言葉にハッとして顔を上げた。

 宝石のような翡翠色の瞳は自分の心を見透かしているようで、目をそらしたくなってしまう。


「……いえ、ただ驚いただけです」

「本当ですか?」


 優しい問いかけだったが、その声の奥には真実を求める力があった。

 少し迷った末、小さく息を吐く。


「……正直、不安です。利用されて、捨てられるんじゃないかって。ライアン様の時みたいに」


 エドワードの表情が僅かに曇った。

 けれどすぐにその曇りは消え、穏やかな微笑みが再び彼の顔に浮かんだ。


「ライアンさんの件について私は詳しく知りませんが、少なくとも、私はそのようなことはしません。あなたを利用したくて声をかけたのではありませんから」


 彼の声は低く落ち着いていながらも、堂々としたものだった。

 彼の顔をじっと見つめる。

 嘘を見抜くためではなく、その言葉に信じるべき価値があるのかを確かめたかったからだ。


「あなたの夢は『薬師として独立すること』ですよね。その第一歩として、王宮での経験は大いに役立つはずです。新しい一歩を一緒に踏み出してみませんか?」


 エドワードが手を差し出してきたが、その手をすぐに握り返すことはできなかった。


 ──でも……。


 大きな手のひらの先には、彼が示す未来が広がっているように感じられる。

 薬師として再び生きられることは、何よりも幸せだと思えた。しかもマクロード家の薬師として、新たに学びの場まで与えてくれる。

 もとより婚約破棄をされ帰る場所もなくなった今、この手を取る以外の選択肢はないのだ。


 深呼吸をして、エドワードの差し出された手をゆっくりと取った。


「……わかりました。そして、ありがとうございます。お力になれるか分かりませんが、全力を尽くします」


 エドワードは静かに微笑むと、満足げに頷いた。


「こちらこそ、ありがとうございます。あなたの新しい人生を、共に歩みましょう」


 彼の言葉が心に響く。

 きっと未来を大きく変えてくれる、そんな希望に胸が高鳴った。


「そういえば、まだお名前をお伺いしていませんでしたね」


 一瞬きょとんとしてしまう。そういえば、こちらの自己紹介をしていなかった。

 ふふっと笑いながら答える。


「リザです。リザ=ダルシアク」

「素敵なお名前ですね。リザさん、改めてよろしくお願いします」

「『さん』だなんて、恐れ多いです。どうぞリザと呼んでください」


 肩をすくめながら控えめに笑った。

 堅苦しい敬称に慣れていないし、名門貴族であるエドワードにそんな呼び方をされるのはどこか落ち着かない。


「わかりました。では、リザと呼ばせていただきます」


 エドワードはにこりと笑って、再び手を差し出した。

 

「さあ、リザ。王宮へ向かいましょう。新しい日々がきっとあなたを待っています」

「はい。よろしくお願いします」


 今度はすぐに彼の手をしっかりと握り返した。

 温かくて、力強くもある手のひらは背中をそっと押してくれるようで、不思議と不安が薄れていく。

 新たな世界へ踏み出すように、二人で門をくぐり抜けた。

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