<エピローグ 幸花と風花>

「こんなところでよかったんですか?」

「はい。あきらさんの地元、一度は見たかったので」


 土曜日のお昼前。私とあきらさんは、千葉県は柏駅の東口を出て、二番街というアーケードにいた。

道幅が広く、大きな店舗が入っていたりもするんだけど、あきらさんが子供のころとは入っているお店は少しずつ変わっているらしい。


「別に特徴のある商店街ってわけじゃないですし、あたしが見る分には大して見どころもないんですけど……。ま、楽しい時も悲しい時もいつもここ通ってたから、ある種の思い出の地かな」

「……もしかして、あんまりいい思い出なかったりとか、しますか?」


 それについては一応昨日訊いてはいたのだけど、やっぱり無遠慮だっただろうか。


「あたしみたいなのは、特に小さいころは日常がそのまま苦行だったりするんですが、あたしはそれなりに受け入れてました。そういう意味ではまあ変わったところのない、普通の町ですよ。いいこともあったし。嫌なことは、……家の中のほうが多かったかな」


 家。

 私は、あきらさんの家族や生い立ちについてはまだほとんどなにも知らない。


「あのころは、あたしがいなければ、お父さんとお母さんはけんかしなかったのかなって思ってましたけど。そのせいで間違ったこともやったし、自分を大嫌いになったことも、……女の子として過ごせなかった時代は、もうどうしたって――いや、こんな話、昼日中にデートしながら話すことじゃないですね」

「私はいいですよ。話したい時に、話したいことを話してもらって」


「……そっか。じゃ、今あたしがしたい話しますね」


 はい、とうなずく。

 アーケード街はあまり長くはなくて、駅から反対の方向へ通り抜けて行くと、ゆっくり歩いても五分とかからなかった。そちらの出口の外は、予定していた買い物用のお店などが見当たらなかったので、二人してくるりときびすを返す。


「性別適合手術をすると、戸籍上の性別だけじゃなく、名前も変える人が多いんですが」


 これは、調べていたので知っていた。性別違和ではなく「その他の理由」なんだっけ。


「あきらでもまあいいんですけど、せっかくだし、さらに女っぽい名前にしようかと。自分で自分の本名決められるっていうのもなかなか凄いなと思って、ちょっとテンション上がったんですが」

「あ、なるほど、考えようによってはそうとも、……ですが?」


 あきらさんが足を止めて、私の顔を覗き込んできた。心なしか、赤らんでいる。


「……優乃とか、麗子とか、親の願いが伝わる感じの名前って、いいですよね? 優しい人でありますようにとか、麗しくあれとか」

「そう、ですね? とりようはいろいろですけど……」


「そういうふうに、あたしの名前考えてくれませんか」


 足だけではなく、私の頭もしばし止まった。


「……え!? 私がですか!?」

「はい。願いこもってる感じのネーミングが望ましいです」


「か、感じって言われても。願い……私の、あきらさんへの願い……ですよね……」

「あはは、今すぐでなくてもいいですよ。半年以上ありますから、ゆっくり考えてください。最終的にはあたしが決めることですし、気楽に候補出してもらえれば」


 あきらさんが歩き出す。私は立ち止まったまま。


「風花さん?」

「願い、あります。……だから、……幸花さちか、とか」


 私のか細い声を、あきらさんは聞き逃さなかった。


「さちか? ……幸せに、花?」

「あっ、花でなくてもいいんですけど。ほかにも、いい字ありますし……でも、幸せっていう字は、私があきらさんへの願いを込めるなら、必ず入ります」


 あきらさんが感慨深そうに眼を細め、ふるふると首を横に振る。


「いいですね。幸花。今日からそう呼んで欲しいくらいっていうかもう呼んでください」

「待って」


「待たない」

「て、適当に言ったわけではないですけど、まだ候補ですよね!? それに、その……花は、ついそのもちろん私の名前からなんですけど、なにがあるかは分かりませんし……」


「というと?」とあきらさんが半眼になる。

「いえ、たとえば……極端なんですけど、私が振られたり、外国に引っ越して離れ離れとか、あとそう、先に死んじゃったりとかしたら重くないですか? また名前変えたくなるかも」


 縁起でもないと思いつつ、急にはそのくらいしか思いつかない。

 あきらさんが、数歩分だけだけど、戻ってきた。


「なりませんよ。振りませんし、離れませんし、死にませんし」

「な、なんでそんなことが分かるんですか」


 カラコンの瞳が私を映す。


「これからなにが起きるかなんて、あたしには分かりませんけど。なにがあっても風花さんのことは忘れないし、あなたのしてくれたことがなくなることもないですから。出会えてよかったって、風花さんのこと好きになってよかったって、新しい名前を見るたびにずっと思い続けます」


 秋の終わり、心地よく暖かい日の真昼間。周りには多くの人が行きかっている。

 そんなところで泣いたのは、これが初めてだった。涙を零しながら笑ったのも。


「私もです。それは、私も同じ」

「よかった」


 あきらさんが手を差し出す。私がその手を取る。

 二人で並んで歩き出した。


 この世に絶対のものはないと言ったのは誰だっただろう。

それは確かに本当で、私もあきらさんにも、これからいろんな変化が訪れて、自分も周りも変わっていく。

 でも、あきらさんと出会ったこともこの気持ちも、噓や偽物になることは永遠にない。

 そんな奇跡的な瞬間の連続の中で、私たちは同じ場所と時間を生き始めた。


 彼女の新しい名前が決まった、これがその時の出来事。


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