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「ごえっ!?」

「暴漢用の、合気道ってやつです。あたしみたいな細いのにひねられる気分はどうですか? これにこりたら、今後二度と迷惑行為をしないように。あたしから言いたいことはそれだけですよ、お兄さん。行こう、風花さん」


 私は、言われるがままにあきらさんに寄り添う。その腕をぎゅっと握ってしまった。


「お前、見たことあるぞ。前もここで……。てか、あれ? なんか、あんた変だな? 女? にしては……」


 そこで、仁志倉さんははっとした表情になる。

 ああ……


「お前、男か! 女装してんだ! そうだ、さっきの名刺にニューハーフって書いてあった、お前があきらだろ!」


 仁志倉さんが言っていることは純然たる事実で、なにも間違っていない。

 それなのになぜ、こんなに悲しくて無残な響きになるんだろう。

 でもあきらさんは、私の手を取ると、駅のほうへ歩き出した。


「無視かおい!?」


 そう言われても、あきらさんは振り返らない。

 後ろから足音が近づいてきた。仁志倉さんが追いすがってきたのだ。


「待てって言ってん……」


 言葉の途中で、仁志倉さんがあきらさんの右肩をつかみ、その手をまたあきらさんがつかんでひねって、いなされた仁志倉さんは傍らにあった電柱に頭からぶつかって、「ぐべっ!?」とうめいた。

 それほど勢いはついてなかったけど、よろよろと振り返ったその顔には、縦に赤い跡がついている。


「う、ぐ……お前、傷害罪だ……暴行を僕に……」


 慌てて私が割って入る。


「に、仁志倉さんが先に襲ってきたんじゃないですか!」


「お、襲っ? 違うだろ、僕は別に」

「後ろから女の人をつかんで!」


「だってこいつが無視したから! それに、お、女って、こいつはニュー……」


 ぱちん。

 私の平手が、仁志倉さんの頬を打って、軽く乾いた音を立てた。

 仁志倉さんだけではなく、あきらさんまで驚いている。


「……行きましょう、あきらさん」


 あっけにとられていた仁志倉さんが、なにか言おうとした時。


「仁志倉、なにしてる!」


 ビルの自動ドアが開いて、課長と後藤さんが出てきた。


「ち、違いますよ課長。聞いてください、これはフーカちゃんとこいつが」

「ああ、聞こうじゃないか。おれが見たのは仁志倉がこの人の肩をつかんだところからだ、前後関係が全然分からないからな。仁志倉が言ったことと、やったこと、言われたこと、じっくり聞かせてくれ。古鳥さんも、週明けにでもな。それとも、休み中に連絡くれてもいい。そちらの方も、事情はまだ詳しく存じませんが、ご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません。部下の不始末汗顔の至りですが、警察には通報されますか?」


 青ざめる仁志倉さんをよそに、首を横に振るあきらさんに課長が名刺を渡して頭を下げ、仁志倉さんを連れてビルの中に入っていく。

 後藤さんが、私とあきらさんを見比べて、


「あたしも事情は分からないけど……大丈夫だった?」

「私は、大丈夫です……。仁志倉さんが、私叩いちゃったけど、あの人が……私が、尊敬して信頼してる、大切な人を、あんなふうに……それは、直接的な悪口とか言ったわけじゃないんですけど、お前とかこいつとか、あんな言い方、それに……」


 言葉が出なくなった私の代わりに、あきらさんが後藤さんに向かって口を開く。


「風花さんの同僚の方ですか? すみません、あたしがあの人逆撫でしたところあるんです。風花さんは悪くなくて」


 後藤さんが軽くかぶりを振る。


「ちゃんと双方の話聞くまで、課長もなんの判断も下さないはずです。さあ古鳥さん、もう退社後なんだから、楽にして。怖かったよね。事前に止められなくて、ごめんね」


 あきらさんに肩を抱かれて、私たちは帰途についた。


「あ、あのあきらさん、この後のお仕事……」

「今日は夜オフだから、平気。それより、明日から風花さん職場で大丈夫かな。あたしのこと、あのお兄さんに言いふらされちゃいそうだけど」


「わ、私、ちゃんと説明します。あきらさんの性別のことも、お仕事のことも、あ、でも、あきらさんがよければなんですけど……」

「うーん、あたしはいいんですけど、話した通りちゃんと受け止めてくれる人ばかりじゃありませんしね。どうだろう。そうだな、信用できる人数人くらいになら、詳しく話しておいたほうが、風花さんが過ごしやすいかもですけどね」


 羽田さんと後藤さんの顔を思い浮かべた。あの二人なら、事情をありのまま話しても大丈夫だと思う。


「います。信じられる人……」

「それはよかった。あたしのことは、どれだけ話してもらってもいいですよ」


結論から言えば、この後、社内であきらさんのことが流布されることはなかった。課長が、しっかり仁志倉さんに釘を刺してくれたらしい。


「まだ泣いてる?」

「うっ……。ちょっと、考えてしまって」


 ちょうど帰りのラッシュ時間のため、多くの人が道を往来している。

 そんな中で泣きながら歩いていると目立って仕方ないけど、なかなか止められない。


「なにを?」

「私、怖いんです。仁志倉さんじゃなくて、自分が。あきらさんと会ってから、今まで知らなかったことをいくつも知りました。でも、知らないことのほうがまだまだずっと多いわけで。心と体の性別のことも、お仕事のことも」


「ん、それはそうですね」

「知らないことに、人って残酷じゃないですか。無関心や無知なせいで人を傷つけるって、世の中よくあることで。たとえば、子供のころの私なんてひどいものだったと思います。なにも知らなくて、無神経にたぶんいろんな人を傷つけて、嫌なことは人のせいにして、でも自分だけは大事にして……。でも、成人しても子供のころ思ったほどには大人になれなくて。今の私も、仁志倉さんみたいに、当たり前のような顔で誰かを傷つけてるかもしれない……。それが、凄く嫌で、怖い……」

「……全然似てもない赤の他人に、自分を重ねることはないですよ」


 私はあきらさんを見上げた。

 そのせいで、目じりに溜まっていた涙が、いくつかの雫になってこぼれる。

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