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そう言いながら、羽田さんが半眼になった。
後藤さんが眼鏡を直しながら続ける。
「まあ、性格というより性質かな。で、これまでの感じからして、古鳥さんはちょっかい出されやすそうな気がするわ」
「それはそう。少なくともあたしよりは」と羽田さん。
「で、では気をつけはしますけど……。あれ? そういえば今日、仁志倉さん朝から見ませんね?」
仕事がはかどると思ったら、彼の書類ミスのフォローがなかったせいもあったのだ。
後藤さんがあきれ顔で答えた。
「課長が朝からの会議とかなくて事務所にいる日は、毎回得意先へ直行にしてるのよあの人。毎週毎週、朝の九時からどこの得意先が商談してくれてるものなのか知らないけど」
羽田さんも、同じくらいのあきれ顔で口を開く。
「調子いいですからね、得意先丸め込んでアリバイ作ってるみたいですよ。少しとがめられた程度じゃ、『課長のせいで事務所にいづらいからしょうがないんです』ってパワハラほのめかして煙に巻くし」
「そうねえ。ていうか仁志倉くんの契約してくる注文て、商談の詰めが甘いし成約優先で都合のいいことばっかり言うから、ドタキャンとか変更とか多くて大変なのね。なのにそれを、内勤の人間の対応の原因があるんだって、また人のせいにするしね……」
羽田さんと後藤さんがヒートアップしていく。
普段あまり仕事の不満を口にしない人たちなんだけど、当然、溜まっているものはあるのだ。
「そういうの全部フォローしてやっても売上の手柄は営業のものって、あーもーほんとむかつく」
そう言ってから、羽田さんがくるりと私のほうを向いた。
「……古鳥さん、こういう仁志倉さんディス、いまいち乗ってこないね?」
「えっ、ええと……そうかな?」
調子に乗りきっていた仁志倉さんが、課長からの目が厳しくなって、私に絡んでこなくなってきたというのも大きいとは思うんだけど。
最近はあきらさんのことで頭がいっぱいで、会社の問題児を気にしているどころではない……というのが、本当のところではある。恋人って、こんな効果もあるのか……。
着替えを終えて、気持ちを切り替えた羽田さんははやてのように会社を出て、後藤さんは別フロアへの届け物を忘れていたとかで、ばらばらになった。
私はまっすぐビルの自動ドアへ向かい、スマートフォンを出して、さっきあきらさんに送ったメッセージが未読なのを見てから、返信を楽しみにしつつビルを出る。
何年も使い込んでところどころ年季を感じさせる端末が、あきらさんとつながる窓口だと思うと、妙にいとおしく思えた。
そこにちょうど、仁志倉さんが帰社してきた。ビルの前の五段ほどある階段を上がりかけている。
今さっき話に出たばかりなので、どきりとするけど、一応「お疲れ様です」とだけ言って通り過ぎようとした。
「ああもお、ほんとに疲れたよ。直帰しようと思ったのに、今日やらなきゃいけないことが残ってるから帰って来いって花鳥が言うんだもん」
そうなんですね、と言ってそそくさと歩道に降りる。
背中を向けたところで、後ろから左腕をつかまれた。
「あっ!?」
「待ってよ。みんなの給料、僕が稼いでるんだよ? その態度はないんじゃない?」
稼いでるといっても、売上目標が未達続きだから後輩よりグレードが上がらないんじゃないですか、というのは売り言葉に買い言葉だとしてもあんまりだと思って口をつぐむ。
そんなことに気がいって、手元がおろそかになる。
さっき取り出したスマートフォンを、まだバッグにしまっていなかった。
それが私の手から落ちて、地面に転がった。
「あ、落ちたよ」
仁志倉さんが拾おうとする。いいです、と断る暇もなかった。
私のスマートフォンを手に取った仁志倉さんは、どういうわけか、白い手帳型のカバーをぱくりと開ける。
「仁志倉さん!?」
「違う違う、なんか落とした衝撃ではみ出してから。あ、なにこれ?」
そう言って彼がつまんだものは。
私の顔から、血の気が引いた。
「え。なに、キャバクラ? フーカちゃんこんなとこ行くの? いや違うな、これ……」
仁志倉さんの顔が、さも面白いことを見つけたかのように、ぐにゃりと醜悪にゆがむ。
「あーっ……これ、女風!? 女の風俗!? なにフーカちゃん、こんなの行ってんの!? いや恥ずかしいことじゃないよ、僕も全然行くから! 一緒一緒! あきら、ってこいつにハマッちゃってんだ!? へえ、なら本番までやってる!? 知ってる? 裏メニューでそこまでできるの!? 知らないかー! いやーでもフーカちゃんがね! みんな知ってんのこれ!? フーウカちゃんがー、風俗だー!」
思いがけないところでストレスのはけ口を見つけて楽しそうに笑って騒ぐこの人に、ののしりの言葉が、胸の中で、数えきれないくらいいくつも弾けた。
返して、触らないで、とも言いたい。怒鳴って𠮟りつけてやりたい。
でも、私の口からはなんの言葉も出なかった。
人一人の人格に対して絶望的な軽蔑を抱くというのがどういうことなのか、教えて欲しいとも言っていないのに嫌というほど実感した。
女風だから恥ずかしいんじゃない。誰にも見つからないように隠しておいた純白の雪のような宝物を、汚れた足で笑いなが踏みつけにされたような、取り返しのつかないことをされた嫌悪に怖気が走るのだ。
この人をどんなにののしって、スマートフォンとあきらさんの名刺を取り返しても、きっともうこの絶望感は消えることがない。
それが分かるから、私は、なにもできずにただ立ち尽くしていた。
泣きたくない。絶対にこの人に泣き顔を見せたくない。でも、目に濡れた熱が込み上げてくるのが止められない。
「風花さん?」
その声は、水面を打つ小石のように、私の乱れ切った心に澄んだ波紋を広げた。
振り返ると、あきらさんが歩道に立っていた。
「あきら……さん」
「お仕事終わりのメッセージ見て、近くだったから来ちゃった。本当は、会社の前で声かけるつもりじゃなかったんだけど……どうしたの」
あきらさんに、なにをどう説明していいか分からない。
ただ、やっとのことで、「私のスマホと……名刺が」とだけ口にした。そこからは、なんのせいだから分からない涙が、ぼろぼろと私の頬から口まで濡らしていった。
あきらさんがつかつかと仁志倉さんに近づき、ついと手を出す。
それでも戸惑っている仁志倉さんから、あきらさんはスマートフォンと名刺を無理矢理奪い取った。
「なにすんだよ!」
そう言ってつかみかかる仁志倉さんの右手首を、あきらさんは空いていた片手で押さえ、くるりといなす。仁志倉さんは、会社の外壁にごんとぶつかった。
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