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笑ったあきらさんが体を起こしかける。
熱と重みが離れていく寂しさが凝縮された一瞬に耐えかねて、私はあきらさんの背中に手を回して、私の上に倒れ込ませた。
「わっ。風花さん? 大丈夫?」
「大丈夫です。……お預けではあるんですけど、こうしているのは、いいものだと思いませんか……?」
あきらさんが、体重が私にかからないようにベッドの上で少し体勢を変えてくれた。
「思いますよ。あったかい。風花さん、――」
ようやく少しずつ、雨の音が戻ってきた。
さっきよりもだいぶ小降りになったのかもしれない。
だって、ささやくようなあきらさんの声に、か細い雨音はまた消し飛んでしまったから。
「――風花さん、あたしの彼女だね」
はい、とうなずいた。
■
仕事がはかどる。
これまでだって手を抜いていたわけじゃないんだけど、私の業務の効率は確実に一段階上がっていた。
恋人に会うため仕事を定時で切り上げる、なんてただの慣用句だと思っていたのに。
実際には会えるわけじゃないんだけど――あきらさんの仕事は週末はもちろん、平日の夜に予約が入るのが珍しくないから――、ただスマートフォンで簡単なメッセージをやり取りすることを考えただけでも、毎日の仕事が頑張れてしまう。
あきらさんが、仕事とはいえほかの女の人に施術するのが、まったく気にならないわけじゃない。
もう少し経って気持ちの熱が落ち着いたら、つらくなってくるのかもしれない。
でも今は、このふわふわした気持ちの中に無防備にたゆたっていたい。
私は、あきらさんの彼女。
あきらさんも、私の彼女。
あまり恋愛に慣れているほうではないので、これでは仕事が手につかなくなるんじゃないかというのは、今回においては杞憂だった。
そして今日も、やるべきことがあらかた片づいた状態で終業時間を迎える。
「この加速状態みたいなのが、年末の繁忙期まで続いたら、私無敵かも」
うちの会社は食品の流通業なので、一月あまり先の十二月は繁忙期になる。クリスマスやお正月関係の商品ではなくても、食品の単価も販売数もほかの月より上がるのが十二月だ。
更衣室には、私と羽田さんと後藤さん。それにほかの営業や事務の女性陣が、それぞれに帰り支度を進めていた。
着替え終えた後藤さんが、ロッカーの扉を閉めながら、
「ああ……来るっ……今年ももうすぐ、十二月が……」
なんてうめいている。
羽田さんは、私がスマートフォンを操作しているのを見て、にこやかに声をかけてきた。
「古鳥さん、楽しそうだね」
「えっ、私顔にやけてる?」
ただ、あきらさんに仕事が終わりましたとメッセージを送っただけなんだけど。
今日は金曜日。金曜の夜はたいていあきらさんは忙しいので、気持ちだけ。
ついでに言うと、基本的に土日祝日はほとんど予約で一日埋まってしまうらしい。「近いうちに、オフの週末作りますよ」とは言ってくれたけど、そのためにあきらさんの収入を減らしてしまうのも、だいぶ心苦しかったりはする。お金の使い道を聞いただけに。
「ちょっとね。そういえば最近、仁志倉さんどう? 前は気色悪いショートメールとか送ってきてたけど」
「あ、うん……今、ブロックしてるから平気」
羽田さんが、おお、と唇を軽く突き出す。
彼女はこういうおどけた表情をしていても、なぜか絵になる。
「いいじゃん、やったね。それでなにか言われた?」
「ううん。角が立つかと思ってしばらくブロックまではしてなかったんだけど、考えてみれば業務以外にプライベートで連絡もらうようなことはないんだし、って思い切って。その後は、……そういえばなんとなく疎遠になってきたかも」
「おー、そのまま、別の部署まで遠ざかってくれていいんだけどなー」
すると、後藤さんが話に加わってきた。
「仁志倉くんね、大変みたいよ」
「そうなんですか? なにかあって?」と私。
「本人というか、周りとか上司がね。どうもあの子、すんんんごく大事にというか、甘やかされて育ったみたいで、まだ子供なのね。仕事をさぼるわけじゃないんだけど、手間のかかることはすぐ人のせいにしちゃって自分ではやらないし、少し注意されると『上から言うな』って癇癪起こしちゃうし。上司や先輩は、彼より上なんだけどね……」
ああ……。目に浮かぶ、気はする。
「寒い時期に石油ファンヒーターの灯油当番をさぼったり、雨が降ってきても窓を閉めなかったり、ポットのお湯は使い切っても足さない、コピー用紙が終わっても補充しない。そういう、自分がやらないでいれば必ずほかの誰かがやってくれることはやらないのが当然っていうふうに、性格が仕上がっちゃってるのよ」
「そこから矯正しないといけない、と」と羽田さんがため息をつく。
後藤さんがため息を返して、つづけた。
「仁志倉くんずっと親元でしょ? うちはほかにも親元の職員何人かいるけど、あんな人ほかにはいないでしょう。どうも仁志倉くん、今でも全部親御さんに生活を頼ってるみたいで、まともに使える家電は電子レンジくらいらしいわ」
羽田さんが天井を仰いだ。
「親元にいるのが、悪いほうに出ちゃってる例ですねー。本人次第で全然変われるのに」
さすがに勝手に言い過ぎだと思って、口を挟んでみる。
「そ、そんなの分からないですよ。私たちだって仁志倉さんの私生活がどういうふうなのかは知らないんですし。後藤さんも、レンジくらいらしいとかそんなの、噂でしょう?」
「ああ、仁志倉くん本人がこの間言ってたのよ」
「そう……ですか……」
不本意ながら入れたフォローだったのに……。
「そういうわけで、古鳥さん、羽田さん、気をつけてね」
「気を……って言いますと?」
「課長からでね。ああいうプライドが高くて人のせいにしがちな人間は、伸びた鼻をへし折られた時、優しい人や立場の弱い者に矛先を向けがちだって。となると、事務やアルバイトを狙うだろうと。特に今年は仁志倉くんより社歴の浅い後輩が社内グレードどんどん上げてるのに、自分だけは最下位のままだから、ストレスマックスっていうのもあると」
「そんな迷惑な……。八つ当たりじゃないですか」
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