3

 顔が熱くて、唇が敏感になりすぎていて、震え出しそうなほどくすぐったい。

 腕や肩どころか背中や腰から力が抜けて、立っているだけで精一杯になったところで、唇が離れた。


 その後、私の姿が見えなくなるまであきらさんが見送ってくれて、夕暮れが近づいている街の中で、私はふわふわと歩きながら、初めて受けた女性用風俗の怖いくらい刺激的な施術のどれよりも、最後のキスのことばかりをずっと考えていた。


 夢を……、と頭の中でひとりごちる。

 あの箱の中は、夢を見せる場所だから。

 あきらさんのあれは、お客さんに夢を見せる仕事だから。

 そうだ、仕事なんだから。だから、変にうぬぼれちゃいけない。

 ドアを出たら全部忘れて、なんの期待もしてはいけない。

 きっと男性用の風俗のお客さんなんて、しょっちゅうこのくらいのことされているんだから。女性用でのサービスでも、だから、舞い上がるなんておかしい。


 いくらそう言い聞かせても、頬の熱さは収まってくれない。

 気づいたら、速足になっていた。


 キスした。

 あきらさんとキスしちゃった。本当はもっと凄いこともされたけど、でも、キスした。

 それも、あきらさんからしてくれた。

 仕事かもしれない、それでも、私はキスに値する相手だと思ってもらえた。


 今にも背中から羽が生えて飛んでしまいそうだった。

 どうしてこんな気分になるんだろうと、そう自分に問いかけることさえなかった。

青い鉛色の混じった橙色の空が、こんなに眩しく見えるのは初めてだった。



「フーカちゃん、今夜暇?」

「おはようございます。いえ、全然。凄く忙しいです」


 にこやかに――無理矢理の努力ではなく、自然に顔に浮かんだ笑顔で――、私は仁志倉さんのお誘いをきっぱり断る。

 週の真ん中は水曜日の朝、事務所の外の空はよく晴れていた。私の心のように。

 ぽかんとしている仁志倉さんを置いて、私は課のみんなに挨拶していく。

おはようも言わずに開口一番、夜は暇かと訊かれれば、以前なら腹立たしいと思っただろうけど、今はあまり気にならない。

 というより、なんで仁志倉さんの失礼さなんかが、あんなに気になっていたんだろうとさえ思えてくる。……今だけだろうし、我ながら単純だなあとは自覚しているけれど。


 羽田さんが、意外そうな顔で挨拶を返してくれつつ、


「……古鳥さん、なんか期限いい? 動きにキレがあるね」

「えっ? そうですか? な、なんでだろうっ」


 正直に言えば、思い当たる節はあった。

 もちろん、あきらさんだ。

 あれ以来、お肌の調子がよくて、体も気持ちも軽くなった気がする。

 自分でも知らないうちに欲求不満になっていて、それが解消されたのかなとは考えつつも、たぶん相手があきらさんだからなんだろうなと一人で納得する。

 だってあの日は、本当に、身も心もすべてを任せてリラックスできた。


 この日の仕事は、顧客からの発注データの受信トラブルに忙殺されつつ、営業用の資料のまとめにほとんどの時間を費やして、かなり体力を奪われてしまった。

 終業時間になって更衣室で着替えていると、もうあきらさんに会いたくなってきた。


「い、いやいやいや……歯止め効かな過ぎだよ、私……」


 これがいわゆる、味をしめた状態というやつなのでは。

 でも、私の場合は、気持ちよくして欲しいっていうよりは、ただ私と向き合って、静かなところで二人で、私の話を聞いてもらうだけじゃなくて、私もあきらさんのことを聞かせてもらいたくて、もっとあきらさんのことを知られたら……


「歯止めってなんの?」

「きゃあああああっ?」


 いつの間にか、目の前に羽田さんが立っていた。


「うわ、びっくりした。ごめんね、驚かせて」

「う、ううううううん私こそ!」


「珍しいね、独り言なんて……ってうわほっぺめっちゃピンク」

「えっ!? そ、そう!? チーク塗りすぎちゃったかな!?」


「今塗ったの? なわけないでしょ。ふうん、なんか面白いことになってそうな予感」

「ぜ、全然そんなことはないよっ。お先ですっ」


 外に出る。

 歩道を吹く風には、まだ秋の気配はそれほどない。

 昼間の熱が夕方になっても引かないままで、歩いているだけで汗ばんでいく。

 ……のとは別に、私の顔は自ら発熱していた。

 認める必要がある。私は、浮かれている。


 あきらさんのお店の料金は、私が、一ヶ月に何度も気軽に通える金額じゃない。

 でも、その気になれば、お金さえ払えばいつでも会えるということでもある。


「会いたいなあ……」


 何度も何度も、あきらさんのプライベートの電話番号にかけたい誘惑にかられた。

 そのたびに、あれは親切のために渡されたんだから、不純な動機でかけちゃいけないと自制する。

 でも、この間のあきらさんは、かけてもいいと言わんばかりの態度だった気がする……

 でも、その好意に甘んじてしまうのは……私たちは、友達っていうわけじゃないんだし、お客としてお金も落とせないような会い方をして迷惑だと思われたら……


 その単語が出てきて、私ははたと足を止めた。

 すると、後ろから「うわっ?」と声がした。聞き覚えのある声だったけど、考えるほうに夢中で、それどころじゃなかった。

 私とあきらさんて、なんなんだろう。

 助けてくれた人と、助けられた人。女性用風俗のセラピストと、そのお客。

 そうだ、それだけだ。ただそれだけ。友達ですらない、たぶん。でも私は、どうしてこんなにも、あきらさんで頭がいっぱいなんだろう。


「ちょっ、フーカちゃん!? 急に立ち止まったら、って無視? 無視い!? おーい! ってうわ課長!?」

「おい、仁志倉あ! お前何度言ったら分かる、会社の前まで戻ってきたなら直帰せずに今日の報告していけ! ていうか出先でも報告くらい上げられるだろ! 事後報告で直行直帰ばっかりして、うちはフレックスじゃないぞ!」


「だって事務所に丸山さんいたじゃないですかあ! 僕あの人苦手なんですよお! 他責思考で全然謝らない上に、上から目線でえ!」

「そんなものは直帰の理由にならないし、どれもぜーんぶお前のことだ! ほらいいから、せめて最低限のことだけやって帰れ!」


 なんだか後ろが騒がしい気がしたけど、私はそれどころじゃなかった。

 振り向かずに歩き出す。

 私とあきらさんがどんな関係だろうと、彼女は、今私にとって一番会いたい人なんだ。

 だから会いたい。それ以上の理由はない。

 今はただ、それだけ。

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