8

 会社で、上司の人たちの手柄話を延々聞きながら業務にいそしむことはあっても、私の話をこんなに聞いてもらえたのは、就職してから初めてだったと思う。

 これじゃいけない、話を聞かせる一方だなんて、と思っても止まらないまま話し続けてしまった。


 時計を見ると、一時間はもう過ぎようとしている。


「あ、もう時間……」

「あんまり気にしなくていいですよ。少しくらいオーバーしたって」


「はっ。延長というやつですね」


 あきらさんが吹き出す。


「これで延長料金なんて取りませんよ。あたし、デートだっていうのに結構素でおしゃべりしちゃったし。うーん、これで規定料金もらうのも申し訳ないなあ」

「いえいえいえ、それは受け取ってくださいッ。デートもいいですけど、今日はお話しできて楽しかったです。私、一方的に自分のことばかり話してましたけど……。きっとあきらさんとのちゃんとしたデートって、楽しいんでしょうね」


「それはもちろんそうなるよう尽くしますよ、って言うと営業みたいになるなあ」

「え、いいですよ。してください、営業。あまりお金持ちじゃないので、私にできる範囲でですけど……売上に貢献できれば」


「いいんですって、そんなの。幸い、それなりに人気あるんですよあたし。指名も売上も、ある程度以上にいただいてますから」


 あきらさんの目がきらりと光った、気がした。

 こうして見ると、物腰は穏やかだし、声もしぐさも女の人のそれだ。

 でも、少し角ばった長い指や、尖った肩、ちらちらと見える腕や足の引き締まった筋肉が、うっすらと脂肪を乗せていても、男性らしい野性味みたいなものを感じさせる。

 夜と言ってもまだそう遅い時間ではないのに、背筋がかすかにぞくりとした。嫌悪からではなくて、きっとあきらさんの独特のしなやかな気配のためだ。


「……そうですよね、あきらさんて、人気あるんでしょうね」

「んー。自分で言うと説得力ないかもですけど、うちのお店の中ではそれなりに。最初は、こんな女装した男みたいなの、大丈夫かなって思ってたんですけどね。特に初めて利用される方なんかは、純粋な男性のセラピストよりも頼みやすいみたい」


「分かる気がします……」

「でも、なにか物足りないって言われることはありますよ。ホルモン打ってるし、男性ならではの色気みたいなのは、今のあたしにはもう出せないですからね。好きで打ってるんだけど、寂しい気もしたりして、変なものです」


 ふっと切なそうな影が、あきらさんのまつ毛の下に落ちた、ように見えた。

 それを見て、私は、思わず中腰になって言った。


「あ、あきらさんは、色気ありますよ! たっぷりです!」

「お、おお?」


 なぜか分からないけど、あきらさんには、自分に対して寂しくなるようなことを言って欲しくなかった。


「トリートメントばっちりのつややかな髪! 時に物憂げな、でも意志の強そうな瞳! 細いけどしなやかな質感の首! それにモデルみたいなラインの肩! それにそれに」

「わああ凄い頭から順に言ってってくれるじゃないですか! 充分充分! その握ったこぶしを開いて、瞬きをして!」


 あきらさんが笑い出した。


「そ、そうですよね。でも、見た目のことばかり焦点が当たるのも不充分というか、正しくないかとっ。だってあきらさんは、人間性が素敵ですから……通りすがりの私を助けてくれて、気にかけてくれて……」

「え、わあ、ありがとうございます、それは言われたことなかったな……」


 私はほっと息を――ようやく――ついて、腰を下ろした。


「というわけで、あきらさんはとても色気がありますし、人として魅力的です」

「風花さん、いい人だな。そんなにあたしを認めてくれるなら、今度試してみます?」


「試す?」

「今よりもう少し、先の体験。使ったことないでしょう? 女風」


 じょふう。もう少し先、の、体験。

 それはつまり、あきらさんが、私のことを、……


「あっ、……そ、は、へう」


 ぼん、と音がしそうな熱が、私の頬に灯る。


「わっ赤ッ。変なこと言っちゃったかな。それにごめんなさい、本当に営業かけるつもりはないんです。ただ……」


 ただ?


「風花さん、なにかつらいことがあるんじゃないですか? 感情の起伏がそんな感じ」


 今日の今日だったので、仁志倉さんの顔が浮かび、どきりとした。


「それは……人並みには、悩みくらいはありますよ。誰だってそうですし……」

「確かに、生きてるとそれだけで、なんていうかな、氷でできた棘が勝手に空から降って、刺さってくるようなところありますよね。放っておいても解けるんでしょうけど、あたしは、それが刺さった傍から抜いてあげたい。特に――」


「特に?」

「――今まさにできたての傷で、見えないところで血を流してるような顔をしている人には。失礼ながら、今、風花さんそんな感じです」


 思わず顔を両側から手で押さえた。

 今日の帰り際に仁志倉さんに話しかけられた時、明日も会社に行くのが嫌だ、と思ってしまったのを思い出す。

 恐る恐る、訊いた。


「そ……そんな、悲壮な顔してますか? 私」

「普通は、気にしなくていい程度のことなんでしょうけどね。この仕事してるとどうしても見えてしまうんです。じゃあ普通じゃない時はどうなってしまうんだ、なんて縁起でもないことも考えたりね。自然に消える傷ならいい。でも、そうじゃなかったら……」


 あきらさんの視線が私の両眼をとらえた。

 まるで二筋の光線でつながったかのように、視線と視線が正面から絡み合ってしまう。

 カラコンが入った緑色の目に吸い込まれそうで、思わず視線を下に逸らした。それで口元を見つめてしまうと、なめらかに赤く光る唇に変に後ろめたい気持ちになって、さらに下を見る。

 テーブルの上で軽く組まれたあきらさんの指が見えた。私より直線的な形で、でも動く時は軽やかに動いて、動作にはどこか丸みがあって、ずっと見ていたくなる。

 でも、その指が蠱惑的に見えるのは、ある意味では当たり前なんだ。だってまさにあの指で、あきらさんは、仕事で女の人を……それを言えば、唇だって……


 あきらさんは、添えられたライムを水に絞って、一口飲んでから続けた。


「女風なんてその場しのぎだとか、ただの快楽への逃避だって声はあって、必ずしもそれらは間違いじゃないでしょうね。でもあたしは、このつらいことだらけの世の中で、一時的にでも体の欲求を満たすことでしか埋められないものって、時にはあると思ってます。あたしじゃなくても、一度くらい、ベッドで女風を試してみてもいいかもですよ」


 体の欲求……

 かなり大胆な話を振られていると思うんだけど、あきらさんにとっては、それが日常なのかもしれない。


 今の私の直接的な悩みと言えば、仁志倉さんだ。「言っても無駄」を地で行くので、たぶん、私と彼のどちらかが異動にでもならないと、今の状況はずっと続く。そう思うと本当に陰鬱な気持ちになる。

 それが、少しでも好転するきっかけというものが、もし、会社や仕事とは別の場所にあるとしたなら。


「私、……もしそうするとしたら、あきらさんにお願いしたいです」

「ふふ、ありがとうございます。自分から言っておいてなんだけど、選択肢としては女風も常にあるってだけですから。お金もかかることなんで、マイペースが大事なんですよ」


 コーヒーカップは、とっくに二人とも空になっている。

 あきらさんが好意で与えてくれた時間も、あまり引き延ばすわけにはいかない。

 そう思ったら、急に、どうしても訊いてみたいことが口をついて出てしまった。


「あの、あきらさんは、どうしてこのお仕事をされてるんですか?」

「それは昼職より稼ぎがいいから、ってそういうことじゃないですよね。……あたしは、生きてて本当につらいなと思った時、助けてくれた人がいつも女の人だったんです。この仕事の一番の動機はお金でしたけど、女の人の役にも立つことがしたいなって。なるべく、直接的に、あたしだからできることで」


 もしかしたら無神経なことを訊いてしまったかもしれない、と一瞬青ざめた私に、あきらさんは微笑んで答えてくれた。


「だから、セラピストとして、風花さんの役にも立てたら嬉しいですよ。もちろん、話したこともないセラピストのほうが頼みやすければ、それもいいですしね」


 その後、近くの駅まであきらさんに送ってもらって、そこから自宅までの間は、電車に揺られながら、ずっと今日のあきらさんの話と姿を思い返していた。

 女風。あきらさんの仕事。

 あの指や唇が、女の人に触れているところを想像した。今までより少しだけ具体的に。

 あきらさんが服をすべて脱いで、組み敷いた人も全部脱いでいて、あきらさんはその人を気持ちよくしてあげて、あの穏やかな微笑みで包み込んであげて……


 気がつけば、想像の中で、そうされている女の人が私になっていた。


「わあっ!?」


 つい声を上げてしまい、乗車率の高い電車の中で、乗客たちがちらりと私を見る。

 私は全然、欲求不満なんかじゃない。少なくとも、自分ではそう思っている。

 でも、……

 自覚してしまった。

 すっかり熱くなった頬を手で扇ぎながら、ドアの窓に映った自分の顔を見つめる。


 私、……あきらさんに、して欲しいんだ。あの指で、唇で。

 その場しのぎ。快楽への逃避。それでも、会社のたった一人の存在のためにかき乱されている私の日々が、変わり得るもの。あきらさんに教えて欲しい。

 その思いが、どう見ても、ありありと窓ガラスの中の私の表情に出ている。

 私、今日ずっとこんな顔をしていたのかな。あきらさんはそれも汲んで、女風のことを言い出してくれたのかもしれない。


 とても恥ずかしくて、でも、全然不快じゃない息苦しさが熱っぽく胸に詰まる。

 あきらさんの色気に当てられてしまったのかもしれない。

 そうでなければ、……電車の中でスマートフォンを取り出して、あきらさんのお店のホームページを、開いたりはしないはずだった。今までの私なら。

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