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 言い返すことはできる。論理的に、彼の言葉を否定できる。なのに、たぶん彼はその一切を全然理解することはできなくて、逆に、一方的に彼が私を傷つけることはできる。なにをどう説明しても、私の徒労に終わるだけだ。この会話の結末はそう決まっている。

しかも相手は異常者でも犯罪者でもなくて、一般企業に勤めるただの一般人で。法律も警察も、彼を罰するどころか、𠮟りつけることもできない。


 そう思うと体の力が抜けて、言葉を口から出す気力がなくなって、肩が萎えて、まるでぐうの音も出ないくらい言い負かされたみたいな格好になってしまう。

 どうして。どうして、ただの日常的な一日の終わりに、こんなことになっているの。明日もこうなの。それなら、会社に来るのも嫌。こんなことでって自分でも思う、でも。そんな言葉で頭の中が満杯になって、いよいよ涙とともにこぼれそうになった時。

 ビルの中から、特徴のある低い声が響いてきた。課長だ。


「おい、仁志倉。まだ話の途中だ。サンプルの写真、どうして本部にデータ送信しなかった? というか、写真は撮ったのか?」


 私の会社は食品の総合流通業なので、細かい作業がたくさんある。数ある商品サンプルの、用途ごとの写真撮影もその一つだ。

 そして仁志倉さんは、お客さんの前では調子よく喋れても、地道な業務が苦手だ。おかげで、事務にいつもしわ寄せがくるのだけど。


「僕はなにも聞いてないです、写真なんて知らないですよ」

「聞いてないで済まんだろう。社内連絡がオンラインで回ってきていたし、確認の指示だってあったぞ。営業宛の連絡くらいちゃんと目を通せ。とにかくやってないんだな?」


「僕は聞いてないです。知らないんですって」と仁志倉さんが首を横に振る。「分からない。もう退勤の打刻はしたんだ、もう僕はプライベートですよお」

「まだ今日やるべきことがあるのに、勇み足で打刻しただけだろうが。おどけた口調で言えば笑って済まされると思ってるんなら、間違いだぞ。うちの職員だろ、必要な残業を適正にして、ちゃんと責務を果たせ。十分で済むだろ、手伝ってやるから」


 固まっている私に、課長が目配せした。この押し問答の間に帰っておけ、ということなんだろう。

 ありがとうございます、と胸中で言って頭を下げ、足音を立てないようにして帰途についた。

 仁志倉さんは完全に課長に意識が向いていたので、あっさりと逃げられた。

 私の会社は支店がすべて関東にあり、一都四県に八ヶ所。社員がもうすぐ五百人を超えそうで、どんどん忙しくなっている。

仁志倉さんも期待をかけられているので、行動力はあるんだから、もう少し色々なんとかなれば……とは課内みんな思っているんだけど。

少しずつ冷静になれてきたけど、胸のもやもやとした痛みは取れなかった。


 早めに適当な角を曲がって、駅へ向かう。その急ぎ足が、まるで強い相手から逃げ出したみたいで、やけに悔しい。

 いつもなら、このまま帰るだけだ。

 でも今日は、そうしたくなかった。このまま家に帰りたくない。


 また、彼女の顔を思い出した。

あきらさんに会いたい。

仁志倉さんのために弱気になっているからっていうだけじゃない。連絡を入れて、私の会社のみんながあなたを誉めていましたと伝えたい。


電話番号は教えてもらっている。でも、なんのトラブルもないのに、ただそれだけを言うために電話をするというのははばかられる。

電話番号宛のメッセージを送るのも、なんだか図々しい気がしてしまう。

 なにか、あきらさんのためになるような話とか、もっと直接的に役立つようなものとか、そうしたものがないと。


 その時、私の頭に、一つの考えが浮かんだ。

 そして、ただ浮かぶだけではなくて、その後実際に行動に移してしまったのは、私にしてはとても珍しいことだった。


 あきらさんの名刺を取り出した。そこには二次元コードと、彼女のスマートフォンのものではない、固定電話の番号が書いてある。

 コードを読み込むのがもどかしく――たぶんその後こまごまと入力することがあったりするんだろうから――、電話をかけることにした。

 日が暮れかかった夕方の道端で、ビルの壁に寄り添いながら通話アプリを立ち上げる。

 初めての番号に、自分のスマートフォンから電話するなんていつぶりだろう。

 コールが二度鳴ったところで、相手が出た。女の人の声だった。


「はい、メリルフロウでございます。お電話ありがとうございます」

「あ、あのっ。初めて、お電話するんですけども」


「はい、初めてでございますね。ご希望のコースやセラピストはお決まりですか?」

「あっ、コース……は未定なんですけど、あきらさん、をお願いしたいんですが」


「あきらでございますね。本日のご利用をご希望ですか?」


 本日……。そうか、こういうのって事前予約が普通なのかな。


「できれば、……今日だと嬉しいです」

「少しお待ちください。……はい、ではあきらがご準備できるか確認いたしますので、少々お時間いただけますか?」


 はい、と答えるとオルゴールに変わった。

 どきどきしながら待っている間、これでいいんだろうかとか、変なこと言ってないかとか、ぐるぐると意味のない葛藤が頭の中を忙しく駆け回る。


「大変お待たせいたしました。一時間ほどお時間いただければご用意できそうですが、よろしいですか?」

「一時間、は、はい、大丈夫です」


「それでは、お客様のお名前とご連絡先をお願いいたします」


 名前を言う、というのに少しためらいが出る。でもそれはそうだよね、仕事のオーダーだもの。

 そう思って答えようとした時、こちらの気持ちを汲み取ったように、女の人が言ってくれた。


「本名でなくても大丈夫ですよ。ご連絡先も、ご本人確認などにしか使いませんので」


 たぶん私初心者丸出しなんだろうな、と顔が熱くなる。

 でも、それでいいんだ。初心者だもの。


 とりあえず思いつきで適当な名前と、電話番号を伝えた。

 コースの説明を簡単に受けて、平日なのであまり遅くならないよう、一時間のデートコースというのを選ぶ。というより、それより上のコースはどんなことになるのか想像がつかず、今の私にはとてもお願いする勇気がなかった


 待ち合わせの場所が指定され、ここから十五分くらいで着きそうだったので、近くまで行って時間を潰すことにする。

 駅に着いて電車を降り、手近にあったコーヒーチェーンに入って紅茶を注文した。

 それからの一時間は、一瞬のような、ひどく長いような、不思議な時間だった。

 あのあきらさんが、ただあれだけの電話のやり取りをしただけで、再び私の前に現れるんだと思うと、不思議な気がした。

 もし、全然違う人が来たらどうしよう。間違いでしたと言ってお金を払えば、すぐ帰れるかな。でもそうしたらもう、あきらさんと会うには、直接電話するしかないのかな……


 時間になったので、目印だと言われた、駅前の大きな化粧品の看板の前に立った。

 有名な俳優が、スキンケア用品のボトルを手ににっこりと笑っている。

 見るともなくそれを眺めていたら、後ろから声をかけられた。


「イノウタダコさんですか? お待たせしました、あきらで……え? あれ?」

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