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去りかけたあきらさんがくるりと振り返る。
「私、古鳥風花といいます! 今日はありがとうございました! ごめんなさい、私だけ名前も言っていなくて……!」
「いや、名前って言ってもあたしのは源氏名ですし。そんなこと気にしなくていいのに」
「何年振りかで大きい声出しました……普段使わない声量出したので、顔が熱いです」
あきらさんが吹き出した。
「ふっ。ほんとだ、ほっぺ赤い」あきらさんは、もう一度私の前までやってきて、「風花さん、やっぱりとってもかわいいね。少しだけど、お話しできて楽しかった。ご縁があったら、またね」と言って、人波に消えていった。
しばらく、ぼうっと立っていた。
今日、久し振りに、人からかわいいと言われたり、下の名前で呼ばれたりした。それも、二人の人から。
一方は嫌で仕方なかったのに、もう一人には、もっと言って欲しいと思ってしまった。
あんなにちゃんとかわいいなんて言われたの、いつ以来だろう。
駅へ行かなくては。普段使っているところと違うから、一応ちゃんと路線を調べて。
そう思うのに、スマートフォンを出すのが億劫だった。帰り道へ意識を切り替えるのを、少しでも先延ばしにしたい、不思議な気持ち。
互い違いに通り過ぎていく人波の横で、私はそうして、あきらさんが消えた通りを見つめていた。
■
昨日はあきらさんのおかげで助かったけど、いくらああ言ってくれても、親切にしてくれた人に余計な手間をかけさせたくない。会社で、変なことにならないといいな。
なんて考えていると、悪い予感ほど当たるようで。
事務所に入ると、仁志倉さんの声が聞こえた。
「いや、まじですよ。いきなり知らない人が、僕にグワッと来て。あっフーカちゃん来た! ね、フーカちゃん見てたよね! 僕が知らない人に失礼なこと言われたところ!」
「古鳥さんでしょう」とは後藤さん。
「いいじゃん、それは今!」
「よくありません。言い直しなさい」
「……はいはい。古鳥ちゃんー」
後藤さんが鼻白んだところで、この日も仁志倉さんの課の課長が事務所に入ってきた。
「仁志倉、いい加減にしろ。人手不足とはいえお前をちょっと大事に扱い過ぎたな。口のきき方は直らない、社内マナーは身につけない、外線電話には出ない、おまけに勝手な直行直帰。このまま歳だけ取られたら、会社がたまらん。これからは逐一修正してやる」
「えー!? そりゃないよ、課長~」
「そういうところだと言っとるんだ! 遊びでやってんじゃないんだぞ!」
それほど大声ではなかったのだけど、課長の断固とした口調に、場の空気が締まる。
始業時間になると、みんなが仕事を始めた。
その中で、課長が私の所へ来て、
「古鳥さん、すまなかったな。おれの監督不行き届きだった。あいつは好きにやらせたほうが伸びるかと思ったが、数字も芳しくないし、意識から変えさせないとだめだったな」
と頭を下げた。
「い、いえいえ。あの、朝の話ですけど、仁志倉さんに注意してくれた人は、私が困っていたので助けてくれたんです。すごくいい人で」
「へえ、そうなのか。通りすがりで? 立派な人もいるもんだな。おれも見習わんと」
課長がそう言って仕事へ戻っていく。
話を聞きつけた後藤さんや羽田さんも、お昼休みにあきらさんをたたえてくれた。
その日は一日気分が良くて、仕事もはかどり、退社してビルから踏み出す足も軽かった……のだけど。
「フーカちゃん」
その声に、水を差されてしまう。
自動ドアの向こう、ビルの中から、仁志倉さんがのそのそと歩いてくる。その目が、心なしかすわっていた。今の口調は軽かったけれど、顔が笑っていない。
さっきまでの楽しい気分が嘘のように消えて、二の腕に鳥肌が立った。怖い。
ううん、怖いなんておかしい。彼は会社の同僚で、親でも先生でも上司でもないただの知り合いで、役職上の上下関係もない。一方的に私が怖がる理由なんて、ないのに。
「……どうしたの、仁志倉さん。私の呼び方――」
「あれ、フーカちゃんて会社の奴隷? 僕は違うよ、こんな会社。もうプライベートなんだから好きに呼んでいいじゃん。今日は邪魔入らないだろ、どっか二人でさ、飯でも」
一瞬、あきらさんの顔が頭をよぎった。
また助けてくれたらって? ううん、違う。そんなことじゃなくて、ただ私は、あの人にもう一度会ってみたい。それだけだ。
そのために、私が、胸を張ってあきらさんに会える私でいたい。怯える理由のない相手に、怯えていたくない。
仁志倉さんは苦手だ。でも、自分から怖がって腰を引かせなくたっていいはずだ。
今までもそう、思ってはいた。これからは、その気持ちを表に出すんだ。
「プ、プライベートだからこそ、私の嫌がる呼び方はしないでください。会社の外で、仁志倉さんとどこかに行きたくなんてありませんっ」
一息に言って、乱れそうになった呼吸を整える。
人を拒絶するのは、昔から苦手だ。でも必要な時もある。今みたいに。
「ハア……?」
この、語尾が上がる聞き返し方も、私は苦手だ――嫌いだ。
言うことは言った。あとは、駅へ向かうだけ。それだけでいい。もう話は済んでいる。
でも、意を決して背中を向けた私を呼び止めるように、仁志倉さんが大声を出した。
「フーカちゃんは結婚とかしたくないの!?」
……なに? 今、なんて?
「フーカちゃん、クリスマスケーキって知ってる?」
「……それ、もしかして、女の人の年齢の……」
彼を視界に入れたくなくて、首だけで中途半端に振り向く。
応答するべきじゃないって分かってるのに、このまま帰ってしまったら背中に矢を受けたような気分で傷を負ったまま一日を終えることになりそうで、反応せざるを得ない。
「そうそう。世のおじさんたちがよく言うんだけどさ、女が二十五過ぎるとってやつ」
まさかそんな幼稚なことを言うつもりはないだろうと思ったのに、そのまさかだった。
おじさんたちと言うけれど、私の周りの中年男性たちに、そんなことを言われたことは一度もない。たった今の仁志倉さん以外には。
「……そんなの、仁志倉さんがそう思ってるから、そう口にするんでしょう……」
「あー、返事しちゃうよね。やっぱりアラサーで結婚の話されると、むきになっちゃうよね。フーカちゃんと話してると、フーカちゃんが結婚できないの分かるよ」
私は、結婚願望がそれほど強いほうではなかったし、今未婚なことに劣等感を抱いているつもりもない。
だから、傷ついたわけじゃない。悲しいと思ったんじゃない。それは絶対に違う。
ただ、信じられないくらいに不愉快だっただけだ。
それにこんな人を一対一で相手にしている今の状況が、理不尽過ぎて許せないだけだ。
なのに、まるで傷ついて悲しい人が流すような涙が、熱く溢れそうになってしまった。
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