エセル編 第8話 砂隠れの軍議
星霊暦五〇四年一月十四日、月曜日。
夜明け前の四時半。まだ空が藍色の底に沈んでいるうちに、一行はチャバハル港への歩みを進めていた。やがて東の地平線が白み始めると、灼熱の太陽がゆっくりと姿を現す。乾いた熱波が容赦なく肌を刺し、ラクダの足元で陽炎が揺らめき始めた。
「よし、皆さん。知っての通り昼日中の砂漠は本物の地獄だ。日が真上に来る前にあの岩陰で一服しやすぜ」
空八兵衛の声に従い、一行は巨大な岩が作り出すわずかな日陰へとラクダを寄せた。熱せられた岩肌に背を預け、水筒の水を喉に流し込む。じりじりと照りつける太陽から解放された安堵感が、疲弊した体にじんわりと広がっていく。
「さて、と」
皆が少し落ち着いたのを見計らい、女王イマが静かに、しかし凛とした声で口火を切った。
「追手の件です。昨日のゴロツキたちは退けましたが、アルケテロス教の兵がこのまま引き下がるとは思えません。万が一彼らに追いつかれた場合のことを今のうちに話しておきましょう」
その言葉に、場の空気が引き締まる。
「一昨日の酒場で絡んできた兵士程度の腕なら、私とメルで十分に対処できます。問題は、奴らがもし【魔法通話機】を持っていた場合、話は変わります」
ハムサがいつもより少し真剣な顔つきで言う。その名を聞いて、イマとメルの表情も険しくなった。エセルは母たちの様子にただならぬ脅威を感じ取る。
「あの……魔法通話機、ですね」
「そうです。遠く離れた場所にいる仲間と、瞬時に言葉を交わすことができるあの道具です」
イマがハムサの言葉を確認した後で、エセルに教えるように言った。
「エセル、もし魔法通話機を持つ斥候に私たちの顔を見られれば、一瞬にしてアルケテロス教圏全土に情報が伝わります。そうなれば、全ての港、全ての街道で賞金稼ぎや諜報員が私たちを探し回ることになるでしょう」
「イマ様、エセル様ご心配なく。魔法通話機を持つほどの佐官級の兵がいるとも思えませんが、見つけ次第、即刻始末致します」
メルがイマとエセルに不安を抱かせないよう、力強く言い切る。
エセルはメルの「始末する」という言葉に物騒さを感じたが、昨日自らもゴロツキ達をほぼ手にかけたことを思い出し、唇を噛んだ。降りかかる火の粉を振り払う生き方こそが本来、母達が生きてきた環境なのだ。ガラーシャ村での生活こそが夢の日々であったのだと、昨日感じた寂しさとは違う目の前の現実を彼女は受け入れていた。
ハムサがメルの言葉に続き、情報の拡散が持つ本当の恐ろしさを語り始める。
「また、情報の速さというのは戦の流れそのものを変えてしまうほど強力です。辛い話ですが、第二次魔法大戦でカナン帝国があれほどまでに苦戦を強いられた大きな原因が、アドナインの神聖魔法と奴らのその魔法通話機だったのです。これは我々だけの問題ではありません。ルーアッハ教圏全体や目的地であるカーヴォード王国の戦況さえも悪化させる可能性があります」
「私たちは人質としてあまりにも大きすぎる政治的な手札になりうる。それゆえ、敵の手に落ちるという選択だけは絶対に避けなければなりません」
「お母さま……わかりました」
エセルは、なぜここまで隠れながら旅をするのか、亡国の王女が背負う責務の重さを本当の意味で理解した。自分たちの存在が知られれば、それがルーアッハ教圏の希望となる一方で、敵にとっては格好の攻撃材料となり新たな戦乱を招きかねない。生きてカーヴォード王国にたどり着くこと。それが今、自分にできる最大の戦いなのだと。
イマは娘の覚悟を感じ取り、遠い目をして頷いた。
「エフェスのお父様、あの時はまだマリアの恋人であったミシュマエル殿が一度だけ、敵の指揮官から奪った魔法通話機を見せてくれたことがあります。手のひらサイズの小さな箱が何百キロも離れた場所と繋がる……。当時も驚きましたが、その本当の恐ろしさにまだ気づいていなかったことが、今となっては本当にもどかしいですわ……」
「はぁ……あの第二次魔法大戦で使われていた、と……」
八兵衛は純粋な知識欲で目を輝かせたが、すぐにやれやれと肩をすくめた。
「昨夜も色々と勉強させてもらいましたが……神聖魔法だの魔法通話機だの、あっしらの知らねえ魔法がまだうじゃうじゃありやすねえ」
その言葉に、イマは夫の最期を思い出したのか、その美しい顔に一瞬、深い悲しみの影が差した。しかし彼女はすぐに女王としての気高い表情を取り戻し、静かに語り始めた。
「アドナインの【神聖魔法】……。私が直接戦場でその力を見たわけではありません。ですが、兵たちの報告によれば、それはこれまでの魔法の常識を全て覆すものであった、と」
一行は固唾を飲んでイマの言葉に耳を傾ける。
「今まで誰も見たことのない巨大な氷の壁を作り出し、触れるもの全てを凍てつかせる魔法。我々をも脅かす魔物の軍勢を、一瞬で浄化の光に変え灰さえも残さぬ魔法。そして……致命傷を負った兵士の傷を癒し、さらには命を落とした者さえも再び戦場に立たせる……蘇生の魔法」
「蘇生……!」
エセルは思わず声を上げたが、一呼吸おいて静かに話し始めた。
「お母様、それは素晴らしいことではありませんか? 人の傷を癒し、命を救う。それこそ魔法があるべき姿だと思うのですが」
「ええ! 私もそう思います! 魔物を灰にするなど、実に頼もしいではありませんか!」
メルも興奮した様子でエセルの意見に同意する。
「氷の魔法ってんなら、あっしは今すぐこの砂漠にでっけえ氷の塊でも出してほしいもんですぜ」
八兵衛の冗談に、場の空気が少し和んだ。しかしイマの表情は晴れない。
「お母様……。その神聖魔法を恐ろしいと感じる理由は、一体何なのですか?」
エセルの問いに、イマははっきりと答えた。
「それは、今あなたたちがその力を聞いただけでも、その魅力に心が囚われてしまっていること。それこそが証拠です」
イマの静かな、しかし鋭い言葉に、エセルははっと息を呑む。
「神聖魔法は、生まれてまだ二十年も経っていない日の浅い不確かな力。その力にこれほどまでに人の心を惹きつける魅力が備わっているということは、もしこれが魔法機器として世界に普及した時、第二次魔法大戦以上の凄惨な争いを生む火種となりかねない、ということです」
イマは言葉を続ける。
「また、【神聖魔法】という言葉もアルケテロス教によるイメージ戦略であり、サルディアヌス一世を【悪魔王】と世論扇動し、それに対しあたかも人を救い導くような力があると名付けたものに過ぎません。そして、【人を蘇らせる魔法】。もしそれが本当に可能だとして、蘇ったその人は、本当に元のその人なのでしょうか。この世界の万物が生まれ、そして死ぬという生命の『循環』。その絶対的な法則を人の手で歪めてしまうことが、私は何よりも恐ろしいのです」
その時、八兵衛が意を決したように真剣な眼差しでイマを見つめた。
「……イマ様。あえて大変失礼なことをお聞きしやすが……」
エセルとメルがぎょっとして八兵衛を見る。しかし彼は言葉を止めなかった。
「もし、サルディアヌス四世様がその魔法で生き返るとしても……あなたはそれを望まない、と?」
その問いに、エセルの心臓が大きく跳ねた。聞きたい。でも、聞いてはいけない。そんな相反する感情が胸の中で渦を巻く。 しかし、イマとハムサの表情に動揺はなかった。 イマは穏やかに、しかし決して揺らぐことのない声で答えた。
「ええ。たとえ我が夫が、そして失われたカナン王国の民が生き返るとしても、私はその魔法を使いません。それはルーアッハ教の……いいえ、私自身の為政者としての信念に反します。そして何より、我が夫は私以上にそれを決して望まないでしょう」
その顔を見た時、エセルは目の前にいるのがただの優しい母ではないのだと改めて悟った。 一つの国を背負い、夫を失い、それでもなお自らの信念を気高く貫き通そうとする、一人の強く、美しい「女王」。そして、その人は私の母なのだ、と。エセルの胸に熱い誇りが込み上げてきた。
ハムサが満足そうにふっと笑みをこぼす。
「……やはり、イマ様はそうでなくては」
八兵衛もまた晴れやかな顔で、深々と頭を下げた。
「……恐れ入りやした。これほど芯の通ったお方はあっしも初めてでさあ。メル殿も、しっかりイマ女王に学ぶんでさあ!」
話を振られたメルは胸を張って答える。
「当然であります! 我が主の意志は私の意志!」
「メル、それだとあなた自身の意志がないみたいだわ」
エセルの素直なツッコミに、メルは途端に混乱し始める。
「え? 女王様の意志が私の意志ではないと? 私の意志とは、一体……」
「メルはメルの意志で生きていいのですよ」
イマの優しい言葉が、さらにメルを追い詰める。
「え? 女王様の意志でなく、私の意志で生きていい、と? 私の意志とは……」
ハムサが呆れたように、やれやれと首を振る。
「エセル様、イマ様。メルをあまりいじめないでください」
「こりゃ先が思いやられやすねえ」
八兵衛の言葉に、メルはここ最近の自分の不甲斐なさを思い出したのか、しょんぼりと肩を落とした。
「ごめん、メル! 嘘だから! 今のそのままのメルがいいから、元気出して!」
エセルが慌ててメルに抱き着いて励ました。 その様子を、イマがふふ、と楽しそうに笑う。そして先ほどの厳格な表情から一転、悪戯っぽく言った。
「意志といっても曖昧なものよ。人を生き返らせるのは本当に反対ですが、私も八兵衛が言うように、この砂漠に氷の魔法があったら快適よね、とは考えちゃうもの」
「へへへ、ですよねぇ」
八兵衛が腹を抱えて笑う。
「え? それは良いのですか?」
今度はエセルが混乱する番だった。イマは娘が困っている顔を見て、心底楽しそうに微笑んでいる。
ハムサが助け舟を出すように言った。
「エセル様。まずは不確かなものを、ご自身の中で確実なものとして見定めてから判断すれば良いのです。変えてはならない『意志』と、時には受け入れねばならない『妥協点』。その線引きを自ら選択することこそが、為政者としての実力を問われるのです」
頭の良いエセルも今回ばかりは難しかったようだ。意志? 妥協点? 線引き? とその言葉を頭の中で繰り返す。 隣でメルも同じように眉間に皺を寄せている。エセルは思わずメルにぎゅっと抱き着いた。
「わー!助けて、メル!」
メルは自信なさそうな顔で、しかし力強く答えた。
「ま…任せてください、エセル様!」
八兵衛が鍋から水をすくい、人数分の木の杯を皆に渡す。
「まあ、こればかりは知識と人生経験ですぜ。多くのことを知り、多くの人と関わらねえと、その選択肢は見えてこねえもんでさあ」
「うー……。頑張ります」
エセルは八兵衛にそう言われ、杯の水をごくりと飲み干した。
一行は交代で見張りを立て、岩陰で束の間の仮眠をとる。 うとうとするエセルの頬を、母イマが起こした風の魔法が優しく撫でていた。 それは、とても心地の良い風だった。
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