エセル編 第9話 魔物の仮説と魔物の味

星霊暦五〇四年一月十四日、月曜日。


夕刻、陽が西の砂丘へと傾き始め、灼熱の空気がようやく和らいできた頃、一行は再びチャバハル港への道を歩み始めた。ラクダの影が長く、長く、赤茶けた砂の上に伸びている。


「しかし、妙でさあ」

先頭を行く空八兵衛が、独り言のように呟いた。


「怖いくらいに順調すぎる。こういう時こそ、不慮の事故だったり、とんでもねえ魔物が出てきたり、ましてやアルケテロス教の兵隊に追いつかれたりするもんで」


その言葉に、エセルは不思議そうな顔をした。

「そういうものなのですか?」


するとイマ、ハムサ、そしてメルまでもが、まるで示し合わせたかのように口を揃えた。


「「「そういうものです(わ)」」」


四つの声が綺麗に重なる。大人たちがここまで断言するとなると、それは疑いようのない真実なのだろう。エセルは妙に納得しながら、昨日の出来事を思い返していた。デューンリザード。あれが彼女が生まれて初めて間近で見た「魔物」だった。


「皆様にお聞きしたいことがあります」

エセルは、決意したように顔を上げた。


「ガラーシャ村では魔物の授業をエフェス達と受けましたが、実際に魔物が出たという話は一度も聞いたことがありませんでした。昨日のデューンリザードは私にとって初めての魔物との遭遇です。ですが……その姿はただの大きなトカゲのようにも見えました。魔物とは、一体何なのでしょう?」


そのあまりにも素朴な疑問に、メルが待っていましたとばかりに答えた。


「エセル様。魔物とは、生物が『瘴気』に侵された【悪鬼化生物】を指す言葉であります。狂暴化し無差別に他の生物に襲い掛かるようになった悪鬼化生物は、特に【グール】と呼ばれるのです。ですので、デューンリザードという種族そのものが魔物なのではなく、昨日我々が遭遇したのはグールと化した、つまり魔物になったデューンリザード、ということでありますな!」


得意げに、しかしどこか誇らしげに説明するメル。

「メルは物知りなのですね! すごいわ!」

エセルの素直な賞賛に、メルの頬がわずかに赤らんだ。八兵衛も今回は茶々を入れることなく、うんうんと頷いている。その姿は、まるで妹の成長を喜ぶ兄のようだった。


ハムサがその説明に、静かに言葉を続けた。

「生物が悪鬼化する兆候は、まず目に現れます。焦点が合っていなかったり、不気味な色に充血していたり。もっとも、その動きや放つ気配そのものが尋常ではないので、目を見るまでもなく分かるようになりますが。それは人間とて例外ではありません」

「瘴気……。では、マイムハレムやレイブードヤアル(迷いの森)に魔物がいなかったのは、その瘴気がないからということなのですか?」


エセルの鋭い問いに、メルがうっと言葉に詰まる。

「そ、それは……瘴気の影響なのですが……その、瘴気とは……」


助けを求めるようにメルがハムサを見る。しかし、ハムサはふいっと顔をそむけた。八兵衛も、「瘴気は瘴気ですぜ」とお手上げの様子だ。


その時、それまで静かに娘たちの会話を聞いていた女王イマが口を開いた。


「エセル。あなたの祖先……賢帝サルディアヌス一世が、その生涯をかけて研究し書き記した書物があります。アルケテロス教によって今は禁書とされている、【魔法白書】という書物が」


イマは遠い砂丘を見つめながら、語り始めた。


「その書によれば、瘴気とは『生命のエネルギーに反する空間、または物質』と記されていました。サルディアヌス一世自身もその正体を完全には証明できなかったようです。しかし彼は一つの仮説を立てました。『戦争の跡地など、魔法が過剰に使用された場所で瘴気は発生する』と。……それこそが、魔法の工業化を進めるアルケテロス教が魔法白書を禁書とし、賢帝を『悪魔王』と責め立てた本当の理由なのです」


「……とんでもねえ話がまた一つ。いや、もう驚きなれやしたが……」

八兵衛が心底感心したように唸る。


「そいつが、あっしらが【魔法白書】なんて代物を聞いたこともなかった訳でさあ」

「ルーアッハのアカデミアでは誰もが学ぶ書物ですが……そもそも書物そのものが高価ですから、一般の民でその名を知る者は少ないでしょう」


ハムサの言葉に、八兵衛がからかうように突っ込んだ。

「そりゃ誰も知らねえ訳ですぜ。ですが、そのアカデミアで学んだであろうハムサ殿やメル殿くらいには、瘴気のことをちいとばかし説明してほしかったですなあ」


その言葉に、ハムサは珍しくばつが悪そうな顔をした。

「……私もメルのことを笑えないな。すまない、メル」

「は、ハムサ隊長は素晴らしいお方です! 八兵衛、貴様ッ! 私のことは構わんが、ハムサ殿を愚弄するとは口が過ぎるぞ!」

怒るメルを、八兵衛はひらひらと手であしらいながらイマに向き直る。


「とにかくだイマ様。瘴気ってやつが魔法が発展すりゃあ増えるかもしれねえ代物だとすりゃ、こりゃ魔物は増える一方ってことですかい?」

「ええ。ですが、一般人が生活のために魔法機器を使う程度では瘴気は発生しません。むしろ瘴気が霊体化した【瘴鬼(レイス)】を寄せ付けないために、火の魔法機器が使われることもある。今更、人々の生活に根差した魔法を全て否定するのは非現実的ですわ」

「一筋縄ではいかねえ難題ですな」

「政治とは、いつでもそういうものよ。魔法白書というたった一つの問題提起で、アルケテロス教はあれほどまでに大騒ぎをしたのですから」


瘴気、魔法機器、政治問題。エセルにはまだ完全には理解できないことばかりだった。しかし、一つだけ確かなことがあった。自らの祖先である賢帝サルディアヌス一世が遺したその【魔法白書】を、自分は学ばなければならない。


「お母様。私もいつか皆さんと一緒に、その魔法白書を学ばせてください」

その決意に満ちた言葉に、イマは優しく、そして誇らしげに微笑んだ。





一行がチャバハル港の巨大な城壁を水平線の向こうに捉えたのは、太陽が最後の輝きを放ち、砂漠を茜色に染め上げる頃だった。午後七時。なんとか日没までにはたどり着くことができた。


しかし、夜間は通行許可の申請が厳格になる。城門の前には同じように足止めを食らった商人たちのラクダや馬車が長い列を作っていた。


「まだかなぁ……」

エセルは退屈そうに呟いた。


「あともう少しと思うと、とんでもなく時間が長く感じるもんですぜ……と、言いたいところですが、やはり焦りやすね……」

八兵衛が苦笑いする。メルが、「どうにかならないのですか!」と詰め寄るが、「メルの姐さん、勘弁してくだせえ……」と八兵衛は完全に尻に敷かれていた。


「こういう時は、ご飯にしましょう!」


イマの唐突な提案に、皆がきょとんとする。

見れば、しびれを切らした他の商隊も焚き火を囲み食事の準備を始めていた。おかしいことでもないらしい。


メルが行列に並び続け、残りの四人は他の商隊に紛れるようにして再び焚き火を起こした。今日の夕食は、昼間に八兵衛が手際よく切り分けたデューンリザードの尻尾の塩焼きだ。


「……あの、魔物の尻尾って食べられるのですか?」

エセルの不安げな問いに、八兵衛が肉を炙りながら答える。


「まあ、どれだけ瘴気にやられてるかで変わると言っちゃあなんですがね。魔物じゃなくても毒をもつ生物はいるんで、それとあんまり変わらねえですぜ」

言い得て妙だった。


やがて肉が焼きあがり、香ばしい匂いが立ち上る。エセルは恐る恐るその一切れを口に運んだ。


(……美味しい)


ぱりっとした皮の下から、鶏肉のように淡白で、しかし滋味深い肉汁がじゅわっと溢れ出す。砂漠の厳しい環境で鍛え上げられた生命の味がした。


「メルにも持っていってあげないと!」

エセルは、今まで待機していたあまりの退屈さにじっとしていられなかった。


「エセル様お待ちください。そういった役目はわたくしが…」

「わたしが、メルに持っていきたいの!」

ハムサの制止を振り切り、熱々の肉を布に包むと、行列の先頭で待つメルの元へと駆けだした。


その途中のことだった。

背後から複数のラクダの足音と金属が擦れる音が急速に近づいてくる。

振り返ると、そこにはカラッチ港で見たあのアルケテロス教の兵士たちが十名ほど、こちらを睨みつけていた。


部隊長らしき男が叫んだ。


「関所に入る者、全員に告ぐ! これより緊急の身辺調査を行う! 我々が探しているのは、カラッチで我らが兵に手を出した不届き者の女たちだ!」


エセルは思った。

(皆が言うように……本当に、そういうものなのですね……)


心臓が早鐘のように鳴っている。しかし、その心は焦りよりも、むしろ奇妙な納得に満たされていた。


旅の鉄則。順調すぎる時こそ、後でろくなことがない。

その言葉の意味を、彼女は今まさにその身をもって体験した。

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