エセル編 第7話 砂漠の夜の講義
星霊暦五〇四年一月十三日、日曜日。
カタール砂丘の夜は、音もなく、そして容赦なく冷気を連れてきた。
昼間の灼熱が嘘のように気温は急降下し、吐く息が白く見えるほどだ。エセルたちは、空八兵衛が見つけた巨大な岩が風を遮ってくれる窪地で、身を寄せ合うようにして小さな焚き火を囲んでいた。追っ手の目を欺くため、火の光が北へ漏れないよう南側に向けて巧みに組まれたささやかな炎。その心許ない光が、五人の顔をぼんやりと照らし出していた。
ラクダたちも一行を守るように座り込み、時折満足げに鼻を鳴らしている。昼間のデューンリザードとの遭遇戦の緊張がようやく解けてきたところだった。しかし、ここはまだ旅の道半ば。チャバハル港まではまだ砂の海が続いている。
沈黙の中、エセルは燃え盛る炎の先にある漆黒の夜空を見上げていた。やはりマイムハレムで見る空とは何もかもが違う。木々のざわめきも、虫の音も、川のせせらぎもない。ただ、絶対的な静寂の中に、まるで宝石を砕いて撒き散らしたかのように無数の星々が凍てつくほどの輝きを放っている。
「八兵衛」
不意に、エセルが静寂を破った。
「はいはい、姫様。なんでございやしょう?」
空八兵衛は水筒の水を一口飲むと、ひょうきんな仕草で応える。
「前々から気になっていたのですが……。あなたは、どうしてこれほど正確な時間が分かるのですか? マイムハレムでは日が昇って、真上に来て、沈んでいく。それくらいしか分かりませんでしたのに」
その問いに、八兵衛はにやりと笑うと、燃え盛る焚き火の枝を一本手に取り、地面の砂にいくつかの図形を描き始めた。
「へっへっへ。こいつは良い質問でさあ。姫様、良いかい? 時間の測り方ってやつはな、場所が変わればやり方も変わるもんでね。森の中じゃ、木々の隙間から見える太陽の光の角度や鳥の鳴き声で、大体の時間が分かる。あれはあれで、立派な時計なんでさ」
彼は砂の上に、木々が鬱蒼と茂る森の絵を描いた。
「だが、この砂漠みてえに周りに何もねえ場所じゃ、太陽と星が何よりも正確な時計になる。例えば昼間なら、こうして地面に棒を一本突き立てるだけでいい」
八兵衛は、焚き火の枝を砂に突き刺す。その影が炎の光を受けて長く伸びていた。
「この影の長さと方角を見りゃあ、今が昼のどのあたりかなんて一発で分かりやす。もっとも、あっしみてえなベテランになると自分の影だけで大体分かっちまうんですがね。こいつは企業秘密ってやつでさあ」
おどけて見せる八兵衛に、エセルはくすりと笑った。
「じゃあ、夜は?」
「夜はもっと面白い時計がありまさあ。姫様、空を見てみなせえ」
促されるままに、一行は再び夜空を見上げる。
「あのひしゃくみてえな形をした七つの星が見えやすかい? あれがこの辺りのお天道様の通り道じゃ、夜の始まりにちょうど北東の空に昇ってくる。そいつがぐるーっと北の空を回って北西に傾く頃にゃ、夜が明けるんでさ。あの星の馬鹿でかい針が、一晩かけて空ってやつを半周する壮大な時計なんで」
その分かりやすくもロマンのある例えに、エセルだけでなくイマやハムサ、そしてメルまでもが、ほう、と感嘆の声を漏らした。
「八兵衛は、物知りなのですね」
イマの穏やかな賞賛に、八兵衛は照れくさそうに頭を掻いた。
「いえいえ、あっしなんざまだまだで。百年以上も前にたった一人で世界を船で一周しちまったエルカーノなんていう冒険家や、このエルカドゥールのほぼ正確な世界地図の全体像をたった一代で描き上げたマテオ・コバリッチなんていうとんでもねえ学者に比べたら、あっしの知識なんざ砂漠の砂粒みてえなもんでさあ」
その謙遜の言葉に、しかし一行の彼への尊敬の念はさらに深まった。この男はただの案内人ではない。確かな知識と経験に裏打ちされた本物だ。
褒められるのが苦手なのだろう。八兵衛は少しむず痒そうに頬を掻くと、「待ってました」とばかりに話題を変えた。その視線は真っ直ぐにエセルへと向けられていた。
「それよりも姫様。昼間のあれは見事でやしたな。詠唱も魔法器もなしに風を呼び起こすとは。あれが噂に聞く先天性固有魔法の【マターナ】ってやつで?」
その問いに、今度はイマが静かに、しかしどこか誇らしげに口を開いた。この魔法に関する知識は一行の中で彼女が最も深く、そして正確に理解していた。
「ええ。あれこそが人類の魔法の原点。聖霊がまだ我々と共にあった時代の、古の力です」
イマは遠い目をして焚き火の炎を見つめる。
「かつては多くの者が自らの生命力で聖霊と交わり、奇跡を起こすことができた。しかし長い歴史の中でその血は徐々に薄まっていき、今ではマターナを純粋に使用できるものはごくわずかなのです」
「私やエセルのように、今なおマターナを行使できる者もおりますが、やはり古の方々と比べれば、その血は薄まっています。そのため、私たちの多くは、こういった装具の助けを借りるのです」
そう言って、イマは自らが身に着けているピアスにそっと触れた。それは、アクアマリンがはめ込まれた、美しい装飾品だった。
「【イナウレス】……現代では魔法装具などと呼ばれていますが、古くは神鬼装具と呼ばれたものです。竜民族の角から作られる虹龍石や、力の強い魔法石を触媒とすることで、自身の生命力の消費を抑えながら、マターナの力を効率よく引き出すことができる。約二千年も前に、私たちの祖先が生み出した知恵ですわ。いわば魔法器の前身ともいえる装具ですね」
八兵衛が懐から一枚の護符を取り出して見せる。そこには風の聖霊の名が阿倭独自の文字で記されていた。
「あっしが使うこの魔法護符は、やっぱりそのマターナとは違いやすね。たしか詠唱魔法の原点アルケテロス教の【魔法聖典ネビオム】の一般人向けの簡易版である【一般魔法典グリモア】が阿倭の国に流れついて【陰陽書】っていう名前になったんですが、その陰陽書の知識を元にこうして護符に詠唱文を書き込んで魔法石の力を借りる。今じゃ、この【魔法器】ってやつが世の中の主流でさあ。もっとも、こいつも使い方を間違えれば多くの命を奪い、そして術者自身の命さえも削っちまう危険な代物ですがね」
イマは静かに頷いた。
「ええ。だからこそアルケテロス教は、その危険をなくすためにより安全に魔法を使える【魔法機器】を開発し、一般人にまで普及させるほど魔法を世界に広めた。それもまた、一つの歴史の形です」
「失礼な言い方にはなりやすが、あっしら普通の人間にとって、イマ様達のマターナをみると、稀有な選ばれし者の力みたいで、羨ましく思いやすね」
八兵衛の問いに、イマは静かに首を横に振った。
「いいえ。現代の魔法史から見れば、それはおこがましい考えですわ。私達竜民族は、他の種族に比べマターナの血を色濃く受け継いできました。その力があったからこそ、カナン帝国は二千年もの間、世界の頂点に君臨し続けることができた。しかし、その時代は民衆による魔法の発展により終わったのです」
「そいつぁ、やりきれねぇですね…」
「いいえ、民衆のよりよい生き方を否定しないことも、大切なことですわ。それより八兵衛、あなたが説明していた一般人向けの簡易版である【一般魔法典グリモア】ですけど、どこで初版発行されたのか、ご存じですか?」
イマが、何故かいたずらっぽく八兵衛に質問をしかけた。
「え?普通に考えりゃアルケテロス教が発行したんじゃないんですかい?」
「カナン帝国よ」
「えぇッ?」
八兵衛は、それなりに魔法の知識を持っていただけに、自分の知識が何故間違っていたのかと驚いた。イマはカナン帝国の歴史について当然深い知識があるため、八兵衛はイマの言うことが本当なんだろうとすぐに信じた。
「現在では、色んな国が一般魔法典グリモアを発行しているけども、もともとは当時新興宗教であったアルケテロス教徒による魔法に関する被害や、魔法使用者の死亡の多発、多方面で聖典の闇取引が横行していたために、カナン帝国が取り締まりとして発行したものなの」
「はぁー…筋が通り過ぎて反論の余地もねぇです。」
イマの説明の後に、さらにハムサが話しを足したいと前のめりに話し出した。
「魔法の歴史ですが、私もマイムハレムでヤコブ殿からトーダー教の歴史を伺った時、耳を疑うような話しを覚えています。アルケテロス教の始祖初代教皇ハーダール。彼の師こそが、トーダー教の始祖でもあるヨルディアのベラカであり、アルケテロス教の魔法聖典ネビオムとトーダー教の【聖典クトベム】は、ヨルディアのベラカの教えによるものであったということです」
「えっ……!?」
「そいつも初耳ですが…いやぁ面白え…本当でしたらやばい話しですね」
エセルと八兵衛は思わず息を呑んだ。
ハムサは続けてこたえた。
「聖典にまつわる歴史だけみても、アルケテロス教の始まりがアルケテロス教自身によってねじ曲げ、本家の存在を闇に葬り去り、自らの都合の良いように歴史を編纂してきた、ということですが。私は過去の戦争の歴史からも妙に納得いたしました」
「編纂……? そのようなことが行われるのですか?」
エセルの純粋な問いに、イマは娘の目をまっすぐに見つめて答えた。
「ええ。歴史とは常に勝者や流行の先駆者たちによってのみ記されるもの。それが事実かどうかは、後世に都合の良いように変えられてしまうものなのです」
「お母様……! では、編纂された歴史は本当に歴史と呼べるのでしょうか。私は納得いきません!」
その怒りに満ちた声に、イマは悲しげに、しかし力強く微笑んだ。
「そうね。私もそう思うわ。だからこそエセル。カナン王国が滅んだ今、アルケテロス教が新たな歴史を編纂する前に、私たちが急いでカーヴォード王国へ向かい、その編纂を食い止め、そして正しい事実を次代へと引き継いでいかなければならないのです」
母の言葉が、エセルの胸に重く、そして熱く響いた。
歴史を知る者の責任。
ただカナン王国を復興させるのではない。歪められた真実を正し、未来へと受け渡す。そのあまりにも重い使命のために、自分には力が必要なのだ。
エセルは幼いながらも、そのことを強く、強く感じていた。
重苦しい沈黙が一行を包む。
その張り詰めた空気を破ったのは、ハムサの呆れたようなため息だった。
「……それにしてもメル。あなたはいつまでそうしているつもりかしら?」
ハムサの視線の先。そこには焚き火の前に座ったまま、まるで石像のように固まっているメルの姿があった。その目は虚空を見つめたまま微動だにしない。
「メル? メル! しっかりして!」
エセルが慌ててその肩を揺する。するとメルは、はっと我に返ったように大きく目を見開いた。
「はっ! 敵襲でありますか、エセル様!」
シュバババッ、と常人には見えぬほどの速さでメルは剣の柄に手をかけ、臨戦態勢に入る。そのあまりに滑稽な姿に、八兵衛が腹を抱えて笑い出した。
「姫様、ご安心くだせえ! メル殿はちいとばかし難しいお話が苦手で、気絶しておられただけでさあ!」
「……よくこれで近衛兵になれたものね。次からは戦闘訓練よりも勉学を優先させなければ」
「メルはいつも頑張っていますもの。お疲れ様、メル」
ハムサの呆れ声と、イマの優しい労いの言葉。そしてメルは、主君の前で失態を演じたことに顔を真っ赤にしている。
「も、申し訳ございません! この失態、いかようにもお詫びを……!」
「うふふ。メルがいるから、皆がこうして笑えるのよ」
エセルの言葉に、八兵衛が涙を拭いながら頷いた。
「ちげえねえ! こいつはまたお嬢に一本取られやしたな!」
アハハハハッ!
追われる身の束の間の休息。
四人の女と、一人の男の、温かい笑い声が、どこまでも澄み切った、砂漠の夜空に高く、高く、響き渡っていった。
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