エセル編 第6話 砂丘の洗礼

星霊暦五〇四年一月十三日、日曜日。


夜明けの訪れを告げるのは、鳥のさえずりではなかった。

カン、カン、と高く澄んだ鐘の音が港に朝の始まりを知らせる。それは漁を終えた船が持ち帰った獲物の、競りの開始を告げる合図だ。続いて石畳の道を転がる車輪の硬い音、積み荷を運ぶ男たちの威勢のいい掛け声、そして空腹を主張するウミネコたちの甲高い鳴き声が、波のように次々と押し寄せてくる。

故郷ガラーシャ村の静かな朝とは全く違う、無秩序で、それでいて生命力に満ち溢れた音の洪水。その中でエセルはゆっくりと目を覚ました。


「おはようございます、エセルお嬢様」


すぐそばで柔らかな声がした。見上げると、護衛のメル・カヴァがすでに身支度を整えて微笑んでいる。昨日と同じ、旅人用の簡素な革鎧に身を包んだ凛々しい姿だ。


「おはよう、メル」


エセルも挨拶を返し、まだ少し重い体を起こす。一行のうち男性である空八兵衛は別の部屋だが、イマ、エセル、メル、そしてハムサの女性四人は同じ宿屋の続き部屋に泊まっていた。


「いつでもお食事の準備はできております」

「ありがとう」


礼を言い、エセルはまだ寝巻のまま寝室から居間へと続く扉を開けた。すると部屋の中央にあるテーブルには、すでに母であるイマ女王が腰を下ろし、窓の外の喧騒に静かに耳を傾けていた。傍らでは侍女頭のハムサが、慣れた手つきで朝の茶を準備している。


「おはようございます、お母様」

エセルが声をかけると、イマはゆっくりと娘に視線を向けた。その目にいつもの優しい光はない。


「エセル。服はともかく、まずは顔を洗いなさい」


凛とした、しかし有無を言わせぬ強い声だった。エセルは一瞬、言葉に詰まる。メルが慌ててイマの前に進み出た。


「イマ様、大変申し訳ございません! お嬢様の身支度は私の責任にございます!」

「いいえ、メル」

イマは、その忠誠心を制するように静かに手を上げた。


「朝の身支度は、大事な一日のはじまりです。それを自身で完璧にこなせるまでは成人になったとは言えません。メル、これよりあなたからエセルに成人としての立ち居振る舞いを改めて指導するように」

「は……はいッ! 精進いたします!」


背筋を伸ばし、兵士のように応えるメル。エセルは母の真剣な眼差しに気圧され、俯いた。

「……お母さま、申し訳ございません」

「ここがあなたの住まいなら目をつぶっています。ですが、私たちは今、外の世界にいるのです。外へ出るということは、その土地の方々への礼儀を重んじるための作法を身につけなければならないということ。これは貴族の作法云々ではありません。人としての基本的なことです」


いつもより一段と厳しい母の言葉。しかし、その声色には怒気はなく、ただ娘がこの先一人でも生きていけるようにと願う母親としての深い愛情が滲んでいた。 エセルは何も言い返せなかった。母の言葉が全て正しいと分かっていたからだ。その沈黙を反省と受け取ったのか、イマの表情がふっと和らぎ、その口元に小さな笑みが浮かんだ。


「分かったなら着替えてきなさい。ハムサの料理が冷めてしまいますよ」

「はい!」


エセルはぱっと顔を上げて元気よく返事をすると、メルのいる寝室へと駆け戻った。


「さ! 急ぎましょう、お嬢様!」

弾むような声で後を追おうとするメルを、ハムサの落ち着いた声が呼び止めた。


「メル。違うわ。急ぎ、焦らず、確実に。給仕の仕事も戦いと同じ。確実な仕事が一番早く、慌てた分だけ失敗するものよ」

「は……はいッ!」


ハムサの言葉に、メルは再び背筋を伸ばした。彼女の真っ直ぐな性格と若さゆえの未熟さを、ハムサは的確に理解しているようだった。

二人分の足音が寝室に消え、居間に静けさが戻る。イマはハムサが淹れたばかりの温かい茶を、静かに一口飲んだ。


「今日は一段と厳しくありませんか、イマ様」

「外の街で朝を迎える作法を身につけさせるにも、外でなければできない教育もあるわ。……メルにもね」

「さすがは女王様でありますね。メルへのさりげないご指導も」

「ハムサは意地悪ね」

そう言って、イマは悪戯っぽく笑った。

「……ん、このお茶美味しい」


隣の部屋でエセルの心は澄み渡っていた。母に言われた通り、まずは桶に汲まれた冷たい水で顔を洗い、眠気を完全に追い払う。次にマイムハレムから着てきた柔らかい下着を脱ぎ、旅のために用意されたより丈夫な布でできた下着を身に着ける。肌を守るための薄いが目の詰まった長袖のシャツ。動きやすい厚手のズボン。そして硬い革で作られた編み上げのブーツ。一つ一つの衣服をハムサに教わった通り、皺ひとつなく紐の結び目一つまで丁寧に、確実に整えていく。最後に長く美しい髪をきつく三つ編みに結い上げると、鏡に映る自分の姿はもう寝ぼけ眼の少女ではなかった。厳しい世界の荒野に今まさにその第一歩を踏み出そうとする、一人の旅人の顔つきになっていた。





一行がカラッチの宿屋を出発したのは、朝の九時を少し回った頃だった。空八兵衛に先導され、昨日とは違う街の裏手にある家畜商へと向かう。そこには一行が昨日まで乗っていた頑健なラバの代わりに、より背の高い奇妙な生き物が五頭待っていた。

こぶのある背中、長いまつげ、そしてどこか達観したような顔つき。


「八兵衛、この子たちは?」

エセルが初めて見るその動物を指さして尋ねた。


「ラクダ、と申しやす。チャバハルへ向かう道はカタール砂丘と呼ばれる砂漠地帯を南西に越えなけりゃなりやせん。ラバも達者なもんですが、砂漠越えとなるとこいつらには敵わねえ」

空八兵衛はラクダの首筋を優しく撫でながら、丁寧に答えた。

「奴らの足の裏は砂に沈まねえように平たくて柔らかい。背中のこぶにゃあ栄養を蓄えておくこともできやす。何より一度にたくさんの水を腹に溜め込めるんで、乾燥に滅法強い。砂漠の旅にゃ最高の相棒でさ」

「へえ……」


エセルは感心したようにラクダの大きな瞳を見つめた。故郷では決して見ることのなかった、世界の広さを象徴するような生き物だった。


「さあ皆の衆、参りやしょう! 真っ昼間の砂漠は地獄でさ」


空八兵衛の掛け声を合図に、一行は新たな相棒の背にまたがり、チャバハル港へと続く南の道へと歩みを進めた。


カラッチの街を抜けると、昨日までのレイブードヤアルの鬱蒼とした森の風景は嘘のように消え去っていた。赤茶けた大地が広がり、背の低い乾いた草と棘のあるアカシアの木が点在する荒野へと景色は一変する。そして、さらに進むにつれてその大地さえもが、なだらかな砂の丘へと姿を変えていった。

カタール砂丘。風が砂の表面に描く美しい風紋が、どこまでも、どこまでも続いている。


「わあ……!」


ラクダの高い背からの眺めは、エセルがこれまで見たどんな景色よりも広大だった。全てを遮るもののない、どこまでも続く砂の海と一点の曇りもない青い空。その圧倒的な光景に、エセルは故郷を追われた身であることを一瞬忘れ、胸がすくような解放感を覚えた。 だが、その解放感はすぐに、胸にぽっかりと穴が開いたような虚空の寂しさへと変わった。 エフェスはガラーシャ村で元気に過ごしているのだろうか。彼もこの空を見ているのだろうか。エセルは、ついこないだまで過ごしたガラーシャ村を果てしなく遠くに感じた。


日が昇るにつれて日差しは容赦なく肌を刺し始めた。日焼けを防ぐために頭から被った布の上からでさえ、ジリジリと焦げるような熱を感じる。マイムハレムの穏やかな太陽とは違う、生き物の命を奪うことさえ厭わない無慈悲な太陽の力。エセルは世界の厳しさを、その肌で感じていた。


正午を少し前に、一行は空八兵衛が目星をつけていた巨大な岩が作り出す日陰で休憩を取ることにした。


「涼しい……」


灼熱の砂漠の中で、日陰がこれほどまでに心地よいものだとはエセルは知らなかった。岩に背を預け、乾いた喉を水筒の水で潤す。


「砂漠の暑さはただ暑いだけではありませんよ。湿気がない分、日陰に入ればこうして涼むことができるのです。これも砂漠を生き抜く知恵の一つですね」


ハムサが故郷を懐かしむような目で遠くの陽炎を見つめながら言った。彼女がカナン王国のはるか南西にある砂漠地帯の出身であることは、エセルも聞かされていた。


「イマ様、エセル様、お水をどうぞ」

話している間に、空八兵衛が薄い鉄製の鍋を用意し、懐から取り出した一枚の札を鍋の上にかざした。阿倭の国に伝わるという魔法護符だ。護符が淡い光を放つと、何もない空間から清らかな水が生まれ鍋の中を満たしていく。


「ありがとうございます」


エセルは礼を言うと、木製のコップでその水を汲み、まずは母であるイマへと差し出した。イマもまた「ありがとう、エセル。ありがとう、八兵衛」と二人それぞれに感謝を伝えた。


その様子をハムサが微笑みながら見ていた。

「さてエセル様。ここで砂漠で生き残るためのもう一つのお勉強です」

「はい、ハムサ先生」

「なぜ八兵衛殿はわざわざ鉄の鍋にお水を注いだのでしょう? そのまま魔法で飲めるようにすれば一番早いのに」


ハムサの問いに、エセルはうーんと唸った。

「えっと……汲みやすくするため? ……というのは、きっと引っ掛けよね。うーん……」


悩むエセルに、ハムサは優しく答えを教えた。

「魔法で作られたお水は、あまりにも綺麗すぎるのです。不純物が全くない。それだけを飲み続けるとかえって体の調子を崩してしまうことがあるのですよ。ですから、こうして鉄の鍋に入れることで体に必要な毒ではない成分をお水に少しだけ含ませるのです」

「へええ!」


目から鱗が落ちるような話に、エセルは感嘆の声を上げた。すると空八兵衛がにやりと笑って付け加えた。

「それと汗をかいた分だけ塩分も摂らねえと、体が動かなくなりやす。だからこの水には塩も一つまみ加えてありやすぜ。まあ塩は鉄を錆びさせちまうんで、後でしっかり洗い流さなきゃなりやせんがね」


朝の身支度から始まった外の世界での学び。その一つ一つが今は水のように、エセルの乾いた心と体にすうっと染み込んでいく。 知らなければ、生き物はいとも簡単に死んでしまう。世界の厳しさと、それを乗り越えるための知恵の尊さをエセルは、この砂漠で学んでいた。


陽が傾き始め、砂丘の影が長く伸び始めた午後三時過ぎ。一行は再びラクダにまたがり、チャバハルへの道を歩み始めた。


昼間の灼熱は幾分和らいだが、乾いた風は依然として肌の水分を奪っていく。単調な景色とラクダの規則正しい揺れが、心地よい眠気を誘う。エセルがこくり、と舟を漕ぎかけたその時だった。


「――お嬢様、お客様のようです」


前方を歩くメルの、静かだが張りのある声が響いた。 エセルがはっとして顔を上げると、進行方向の砂丘の向こうから土煙を上げてこちらへ向かってくる一団が見えた。ラクダが四頭、その上には二人ずつ、合わせて八人の男たちが乗っている。その誰もが錆びた剣や歪んだ槍を手にしていた。


「メル、あれは?」

「おそらくこの辺りを縄張りにしてるゴロツキでしょう。昨日カラッチで絡んできた兵士たちと同じ匂いがします」


メルはこともなげに言う。その口調には迫りくる脅威に対する恐れなど微塵も感じられなかった。一行の誰もが慌てた様子はない。ただ空八兵衛の目が、獲物を定める鷹のように鋭く細められただけだった。


やがてゴロツキたちは一行を取り囲むようにラクダを止め、下卑た笑みを浮かべた。


「へへへ、こんな砂漠のど真ん中で女子供だけとは運がいい。金目のモンとそこのお嬢ちゃんたちを置いていきな」

リーダー格の男が、黄ばんだ歯を見せて笑う。だが、その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、事態は誰もが予期せぬ方向へと転がった。


「――ッ!?」


男の足元の砂がまるで生き物のように盛り上がったかと思うと、中から巨大なトカゲが姿を現し、その屈強な脚に食らいついたのだ。


「ぎゃああああッ!」


甲高い悲鳴が砂丘に響き渡る。それを皮切りに、次々と砂の中から同じようなトカゲ――デューンリザードが姿を現し、混乱するゴロツキたちに襲い掛かった。


「な、なんだぁこいつらぁ!?」 「腕が! 俺の腕があっ!」

阿鼻叫喚の地獄絵図だった。砂色の鱗を持つデューンリザードたちは、驚異的な顎の力でいともたやすく人間の腕や足を噛み砕いていく。ゴリゴリ、という骨まで砕くおぞましい音がすぐ間近で響き渡る。


「デューンリザード……砂丘に潜む厄介な魔物でさ」

空八兵衛が眉一つ動かさずに解説する。


「どうやらこいつら、知らずにデューンリザードの縄張りに入っちまってここまで追われてきたってとこでしょう。奴らは縄張り意識が強い。一度怒らせるとどこまでも追ってくる。戦闘になるなら、砂の中に潜られる前に一気に叩くのが肝要でさ」


目の前で人が、自分たちと同じ形をした生き物が無残に食い殺されていく。マイムハレムでは決して見ることのなかった、あまりにも生々しい「死」の光景。エセルは、その光景をラクダの上からただじっと見つめていた。その小さな唇からぽつりと言葉がこぼれた。


「……この状況は、デューンリザードに感謝すべきなのでしょうか?」


それは恐怖に震える少女の言葉ではなかった。冷徹なまでに状況を分析する為政者の言葉だった。そのあまりに冷静な反応に、護衛たちが変に感心したような声を漏らす。


「エセル様は、大物になりますね」とハムサ。

「ちげえねえ」と空八兵衛。

「喜んでいいのか悪いのか、難しいわね」と母イマが苦笑する。

「いえ、ここは歓喜すべきでしょう」とハムサは真顔で返し、メルはごくりと唾を飲んだ。

「……エセル様、さすがです!」

「―なんか全然褒められてる気がしないわ!」


その時、生き残ったゴロツキの一人が恐怖から逃れるようにエセルのラクダへと向かってきた。


「助け――」

その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。 エセルが、右耳に着けたピアス――自身の虹龍石で作られたイナウレスに無意識に指を触れた瞬間。 詠唱も魔法器も何の前触れもなく、ゴロツキの足元から突風が巻き起こったのだ。それは、まるでエセルの心を代弁するかのような祝福にも似た、あるいは嘆きにも似た風だった。風に煽られた男は体勢を崩し、背後から迫っていたデューンリザードの顎の餌食となった。


「……なっ!?」

空八兵衛が驚愕に目を見開く。魔法器も使わず詠唱もなしに魔法を発動させる。それは血統と才能に恵まれた、ごく一部の者にしかできない先天性固有魔法【マターナ】の領域。この幼い姫がこれほどの力を秘めていたとは。


「へっ、あっしも ちいとばかしいいところを見せやすかね!」


驚きを感心へと変え、空八兵衛は懐から一枚の魔法護符を取り出すと印を結び、風の聖霊の名を短く呟いた。護符が淡く光ると、残りのゴロツキたちの足元から竜巻が巻き起こり、彼らを宙へと舞い上げた。 残るはデューンリザード五体。だが、それはもはや脅威ではなかった。


「――そこまでです!」

メルの鋭い声と共に閃光が走る。彼女の抜き放った剣は、一瞬で一体のデューンリザードの首を刎ね飛ばしていた。


「ふっ!」

ハムサもまた見とれるほどの流麗な剣さばきで、二体のデューンリザードをまとめて肉塊へと変える。残りの二体もメルとハムサの連携の前に、なす術もなくあっという間に砂丘の亡骸へと変わった。


「……とんでもねえお二人っすね」 空八兵衛が呆れたように呟く。

「おほほほほ♪ 本当に二人とも元気ねぇ」 まるで何事もなかったかのように、イマが優雅に微笑んだ。


「ちょっとばかりイマ女王の実力も久しぶりに拝見したかったのですが」とハムサが言うと、イマは悪戯っぽく返す。

「みんなが張り切るから出番がなかったのよ」

「自分もハムサ隊長から女王様の武勇伝を色々とお聞きしておりました!」

「……ハムサ?」

「私は何も話しておりませんよ。メルが勝手に言っているだけです」

「た……隊長!」


和やかな(?)やり取りが交わされる中、空八兵衛はまだ息のあったゴロツキを素早く捕縛し、猿轡を噛ませる。メルがその男から手早く事情聴取を始めた。


「……なるほど。やはりカラッチのアルケテロス兵に雇われたただのチンピラのようですね。我々の足止めを命じられたと。そして後から本隊が追ってくると」


メルの報告に空八兵衛は頷いた。

「厄介なことになりやしたね。とにかくチャバハルへ急ぎやしょう」


彼はそう言うとデューンリザードの亡骸から手際よく尻尾の肉を切り分け、食料として確保する。そしてゴロツキたちが乗ってきたラクダに目をやった。

「こいつぁいい。足にもなるしチャバハルに着きゃあいい値で売れる」


空八兵衛は生き残ったゴロツキたちを縛った縄を解くと、岩陰を指さした。


「命が惜しけりゃあ、追っ手が来るまであの岩陰にでも隠れてな。てめえらの運が良けりゃあ助かるかもしれねえ」


それは最低限の温情だった。 一行は新たに手に入れたラクダを連れ、再びチャバハル港へと向かう。夕日が彼らの長い影を赤黒く砂丘に焼き付けていた。


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