第一章 マイムハレムの空
第1話 成人の儀
第一章 マイムハレムの空
はじめに言葉はなく、ただ混沌があった。全ては一つであり、一つが全てであった。
──アヴェストルグ:創世の書 第一章一節
星霊暦五〇四年一月八日、火曜日。
鬱蒼としたレイブードヤアルの森の中を、一匹のマイムハレム猪が悠々と歩いていた 。温暖な気候に恵まれたこの地では、冬でも食料に困ることはない。猪はのどかに尻尾を揺らしながら、好物の木の根を探して地面を掘り返している。その姿は散歩を楽しむ瓜坊さながらであったが、瓜坊のように小さく可愛らしい形状ではないのが、逆に妙に滑稽であった。
その猪を、二十メートルほど離れた草陰から息をひそめて狙う小さな人影があった。模様が入った真っ赤な一枚織りの布の上着と半ズボンを身にまとい、花緑青色のメッシュが入った金髪が良く目立つ十一歳の少年、エフェスだ 。彼は腰に下げた鋼のショートソードにそっと手をかけ、今にも飛び出そうと機を窺っている。
彼の背後では、同じく赤い衣装を纏った親友のマシューが、狩猟弓をゆっくりと引き絞っていた。灰色髪の真面目な少年は、その目に冷静な光を宿し、低い声で古の祈りを紡ぎ始める。それは、風の精霊シルフィードの力を借り受けるための詠唱だった。
「御生命の御息吹である風の聖霊よ、御身は全てを包み我らの隣におられ給う。時に御息吹は全ての頬を優しく撫で、時に激しく全ての穢れを流し給う 」
マシューの矢の先端に、淡い光の渦が生まれ、空気が僅かに震える。狙いは完璧。あとは放つだけ。「疾風矢(ウインドアロー)…」その、全ての感覚が研ぎ澄まされた刹那──。
「ハッ……ヘァ……ヘブシッ!」
草の穂先が鼻をくすぐり、エフェスは盛大なくしゃみを迸らせた。
静寂は破られた。驚いた猪は声の主とは逆方向へ一目散に逃げ出し、マシューが思わず放った矢は、大きく的を外れて木々の間に消えた。
「あっ、いっけね!」
「エフェスのアホーッ!」
マシューの怒声が森に響く。エフェスは自らの失態を取り返すべく、舌を出しながら猪の後を追った。
「こらッ! 待たんか!」
鬱蒼とした森の中を、エフェスは驚くべき速さで駆け抜ける。木の根が複雑に絡み合う地面も、低く垂れ下がった枝も、彼にとっては障害にすらならない。帯剣した剣の揺れを巧みに抑え、しなやかに、そして颯爽と獲物を追いかける様は、熟練の狩人のそれだった。八十メートルほど追いかけたところで、エフェスは森の奥で待ち構える仲間たちに、ありったけの声で呼びかけた。
「すまん!モー! そっちに行った! ばり速かぞ!」
猪が突進する先で、二人の人影が身構えていた。一人はモー。牛の亜人種の血を引く、体格の良い少年だ。もう一人はマキリ。カマキリの血を引く、気の強そうな少女である。二人は動じることなく、冷静に祈りの言葉を唱え始めた。
「合点承知の助」
モーの落ち着いた声に、マキリの凛とした声が重なる。
「御生命の御血と御体である水と土の聖霊よ、御身は我らを潤し、また支え給えり。時に御血は全てを飲み込み清め、御体は全てを崩し土に変え給う 」
『岩石飛水爆(ロックスプラッシュ)!』
二人の詠唱が終わるや否や、猪の目前の地面が轟音と共に割れ、巨大な土壁が水飛沫を上げながらせり上がった。
「フゴッ……」
全速力で突進してきた猪は、為す術もなく土と水の壁に激突し、衝撃で朦朧としながらよろめいた。
「よし! もらったばい!」
その一瞬の隙を、エフェスは見逃さなかった。
『野獣二段切り(ビーストスラッシュ)!』
大地を蹴り、獣のように低い姿勢で懐に潜り込むと、ショートソードを逆袈裟に振り抜き、猪の喉元を切り裂く。鮮血が舞うのも構わず、流れるような動きで剣を持ち替え、開いた傷口に渾身の力で突きを叩き込んだ。動脈と気管を正確に断たれた猪は、もはや抵抗らしい抵抗もできず、巨体を横たえて息絶えた。
「よっしゃあ! やったぜ!」 エフェスが勝利の雄叫びを上げる。
「やった! やった!」
「上出来やね!」
モーとマキリも、無邪気に喜びの声を上げた。少し遅れて追いついたマシューだけが、やれやれとため息をつきながらも、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「たくっ、いいところだけは持っていくんだから」
これが、彼らの日常だった。
◇
狩りを終えた子供たちが向かうのは、エイディン大陸の北東部に位置するマイムハレム地方の中心にあるガラーシャ村。外界とはハールコテルゲドラー山脈によって隔絶された、千人ほどの住民が暮らす辺境の楽園だ 。
村に戻ると、大人たちが総出で猪を解体場所まで運んでくれた。狩人のリーダーである熊の亜人種、ゲデオンがエフェスの頭を大きな手でわしわしと撫でる。
「おう、エフェス! 今日の猪は上物やけん。サラの奴に頼んで、お前たちの祝宴のために、とびっきりの生姜焼きを作らせてやっけんな!」
「本当!? やったあ!」
サラの作る猪の生姜焼きは、村の名物であり、エフェスの大好物だった 。
村の広場には、すでに人々が集まり始めていた。今日は、エフェスたち十二人の子供が、大人として認められるための「成人の儀」が執り行われる日なのだ。広場に集う人々は、牛の角を持つ者、虫の触角を持つ者と、その姿は様々だが、誰もが鮮やかな赤い衣服を身に纏い、額や目の下には、トーダー教徒の証であるフェイスペイントを施している 。多様な種族が、一つの信仰の下に、一つの家族として暮らしている。それが、このガラーシャ村の姿だった。
やがて、村の長老であるヤコブが、厳かな面持ちで広場の中央に進み出た。彼はエフェスの祖父であり、この村のトーダー教の司祭でもある。ひざまずいた子供たちを前に、ヤコブは澄んだ声で祈りを捧げ始めた。
「御生命よ、あなたは我らと共におられます。ここマイムハレムに集いし若者たちの誓いの言葉をお受け取りください」
その声に合わせ、エフェスたちも声を揃える。
「御生命よ、我らは生涯あなたに感謝し続けることを誓います。我らはあなたと一つであることを紡ぎ、学び、教え、愛することに励んでまいりました」
祈りの言葉は、トーダー教の聖典【クトベム】の一節だ 。この村では、その教えが今も色濃く息づいている。
「御生命よ、今ここに用意された供物は彼らが用意した捧げ物であります。しかし、あなたが事前に彼らにご準備された物であることも、私たちは知っております。あなたの恵みに感謝し、この供物を再び我らが受け取ることをお許しください」
儀式は進み、子供たちが一人ずつヤコブの前へ進み出る。ヤコブは祝福の水を指先につけ、それぞれの額の印章にそっと触れていく。エフェスの番が来た。
「御生命である聖霊の祝福を、彼エフェスに新たにお与えください。あなたの聖霊を伝い、健やかなる知恵が彼から紡がれ、生命の人と成りますように」
額に触れた、ひんやりとした水の感触。祖父の温かく、威厳に満ちた声。仲間たちの少し緊張した面持ち。そして、広場の隅で自分の儀式を真剣に見つめる母マリアの優しい眼差し。
エフェスは、胸に込み上げてくる熱いものを感じていた。自分は、この村で、この人々と共に生きている。その当たり前で、かけがえのない事実が、何よりも尊いものに思えた。
厳かで、しかし温かい祝福に満ちた成人の儀は、滞りなく終わった。 この後には、村を挙げての盛大な祝宴が待っている。エフェスは、昨夜、幼馴染の少女と交わした約束を思い出し、胸を高鳴らせていた。
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