第2話 宴と団らん

厳かな成人の儀が終わりを告げると、ガラーシャの村は張り詰めていた糸が解き放たれたかのように、温かく賑やかな祝宴の空気に包まれた。広場の中央では大きな焚き火がパチパチと音を立てて燃え盛り、その周りに並べられた長机には、山奥の村とは思えないほど豪勢な料理が湯気を立てていた。


大皿に山と盛られた、サラおばちゃん特製の猪の生姜焼き。その甘辛く香ばしい匂いは、子供たちの食欲を否応なく刺激する。色とりどりの野菜サラダに、焼きたてのパンで作ったサンドイッチ。そしてこの地でしか採れない木の実や果物が、籠にあふれんばかりに盛られていた。これほど豊かな食文化がこの辺境の村に根付いているのには理由がある。古の昔、この地を訪れたトーダー教の聖人が、遥か東方の島国、阿倭の国から【醤油】という調味料の製法を伝えたのだ。今では薬草師のエリヤが村のハーブと組み合わせて独自の醤油を作り、それがカラッチ港との細々とした交易を支えていた。

飲み物もまた、村の恵みそのものだった。山で採れた葡萄を絞ったジュース、それを寝かせて作った芳醇なワイン、そしてハーブと果実を湧き水に漬け込んだ天然の炭酸水。都市の暮らししか知らぬ者が見れば、腰を抜かすほどの贅沢が、ここでは日常の風景として広がっていた。


「成人おめでとー! 乾杯ーッ!」


その日の主役であるエフェス、マシュー、モー、マキリたち新成人の少年少女が、木の杯を高々と掲げ、自分たちで乾杯の音頭を取った。


「ってことは、今日からお酒も飲んでよかと?」

エフェスが目を輝かせながら言うと、近くにいた狩人のリーダー、ゲデオンが大きな手で彼の頭をわしわしと撫でた。


「馬鹿垂れ! 酒は『大人』になってからだ。お前たちは今日、ようやく『人と成る』ことを許されただけ。まだまだヒヨッコたい!」


大人たちの笑い声に、エフェスは頬を膨らませる。どうやら成人してもまだ、子供は子供らしい。


「フフン……。思い返せば、我ながら完璧な狩りやったね。自分の才能が恐ろしかばい」

「どの口が言うか。自分のくしゃみで慌てとったのはどこの誰やったかね」


宴の熱気に浮かされ、調子に乗って自慢話を始めたエフェスに、マシューがすかさず冷静なツッコミを入れる。


「いやいや、アレは猪を油断させるための作戦たい!」

「そんな作戦があってたまるか」

「まあまあ。最後はこの俺の『野獣二段切り』が火を噴いてだな……」

エフェスの口が、いよいよ滑らかになってきたその時だった。


ゴスンッ!


まるで熟した木の実が落ちてきたかのような、小気味よくも芯のある衝撃が、エフェスの脳天を直撃した。あまりの痛みに何が起こったか理解できず、彼は頭を押さえてうずくまる。それでも右手に持った葡萄ジュースの杯だけは一滴もこぼさなかったのは、誠に見事な体幹であった。


「一人だけ魔法もろくに使えんくせに、何調子に乗っとるんだい、お前は!」


聞き慣れた母の声に、エフェスは全てを理解した。母マリアの、愛のこもった拳骨である。


「今日くらい優しくしてよ、母ちゃん!」

「仲間に迷惑ばかけたなら、ちゃんと謝らんと!」


そのやり取りは、この村ではもはや見慣れた光景だった。大人たちは酒の肴にするように笑いながら眺め、子供たちは本気で痛がるエフェスに、少しだけ同情の眼差しを向けている。


「ちゃんと猪は狩れたけん、良かじゃなかか!」

「自分の間違いを認められん奴は、まだまだ人として未熟だね。今日の剣の稽古は、いつもの倍にするけんね」

「鬼ば……」

「……ば?」


マリアの紫色の瞳が、すっと細められる。その視線に射抜かれたエフェスは、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。この一言を口にすれば、稽古が三倍になる。長年の経験で培われた処世術が、彼の命を救った。

母子の間に流れる、一瞬の緊張。それを打ち破るように、鈴を転がすような声が響いた。


「エフェス、皆さん、ご成人おめでとうございます!」


声の主はエセルだった。その場にいた誰もが見惚れるほどの美しい少女。彼女が杯を掲げると、それを待っていたかのように子供たちが一斉に歓声を上げた。


「みんなおめでとー! かんぱーい!」

「「「かんぱーいッ!」」」


子供たちの歓喜の声に、マリアも「たく、今日は見逃してやるか」と小さく呟き、母親たちの輪の中へと戻っていった。


「おら、お前たち! 料理はいらんとか! いらんなら、おいが全部食べっけんな!」

ゲデオンが本気で料理を平らげてしまいそうな勢いで言うと、子供たちは我先にと料理に群がった。


「エフェス、今日の髪型、とてもかわいらしいね。ふふっ」

「こ、これは母ちゃんが……!」

「そっちの方が似合ってるぞ」

優しく褒めるエセルと、面白そうに茶化すマシュー。エフェスは顔を真っ赤にしながら、母に櫛で整えられた髪を、いつもの無造作な髪型にぐしゃぐしゃと戻した。


「そういえばエセルは、なんで俺たちと一緒に成人式ば受けんかったと?」

エフェスの素朴な疑問に、エセルは少しだけ表情を曇らせた。


「それは……私が皆と違う国や宗教の生まれだから、かな。国が違えば文化や風習も違うし。私も、私だけの成人式はもう済ませたから」

「ふーん……。エセルはマイムハレムにしかいたことないとに、変な話やね」

「……ええ。本当に、そうね……」


寂しそうに俯くエセルを見て、マシューとモー、そしてマキリが、そっとエフェスに目配せをする。エフェスは仲間たちの意図を即座に理解した。


「エセル!」


エフェスは、再び杯を高々と掲げた。


「エセルも、成人おめでとーッ! かんぱーい!」

「「「イエエエエエエイッ!」」」

「えっ!? えっ!?」


驚くエセルの周りに子供たちが集まり、次々と杯を打ち合わせる。「俺たちは仲間なんだ」と、言葉にしなくてもその温かい輪がエセルにそう告げていた。


「……! うん! 皆、ありがとー!」


エセルの笑顔が、焚き火の光を浴びて眩しく弾けた。


その光景を少し離れた場所から、二人の女性が静かに見守っていた。マリアと、エセルの護衛兵長であるハムサだ。ハムサは、五十歳とは思えぬほどモデルのようにしなやかで、引き締まった体格を持つ美しい女性だった。そのシルバーグレーの髪は、彼女が重ねてきた修練の証のように気高い輝きを放っていた。


「マリア。エフェスは、お前に似て元気でいい子に育ったな」

「元気だけが取り柄の、勉強も魔法も苦手な馬鹿息子ですよ。お恥ずかしい」

マリアはそう言って笑うと、声を潜め真剣な表情で続けた。


「……ハムサ隊長。例のアルケテロス教の開拓軍は、どのような動きですか?」

ハムサの表情から笑みが消える。その瞳には、歴戦の兵士だけが持つ鋭い光が宿っていた。

「メルの情報によると、残念ながら四日後にはこのガラーシャ村に到着するとのことだ。だから明日の朝にはイマ様と村を発つ。長い間、世話になったな」

「いえ……」


「ただ、このマイムハレムは奴らにとって辺境の奥地。我々がここにいることは確実に知らないはずだ。奴らが来たところで『原住民の村』と認識するだけだろう」

「大人たちには決してイマ様たちのことは話さぬようにと伝えています。トーダー教であることも伏せておくようにと。あとは子供たちですが……見知らぬ大人について行かぬよう、教育はしております」


「感謝する。何から何まで、すまんな」

「イマ様とエセル様を、お願いいたします」

「ああ。お前もガラーシャ村のことを、よろしく頼むぞ」


二人は互いの、そして愛する者たちの未来の武運を願い、静かに杯を交わした。





すっかり夜も更け、フクロウの鳴き声と鈴虫の音が静かに響く頃。昼の賑やかな宴が嘘のように、ガラーシャ村は安らぎの夜に包まれていた。


「はあぁ……今日は、楽しかったなぁ」

家の暖炉の前で、エフェスは宴の余韻に浸りながら床に寝転がっていた。


「エフェス。だらだらしとるだけなら、早う寝なさい」

明日の朝食の準備をしながら母マリアが言う。


「はーい」

「はっはっは! そうじゃぞエフェス。成人したとやけん、明日からはざあま勉強が増えるぞ」


暖炉の近くの椅子に座っていた祖父ヤコブが、楽しそうに笑う。


「えー! まだ勉強が増えっと? 嫌だなあ」

「エフェスは、勉強がそげな嫌とか」

「嫌いというか……なんか、難しくて分からんとよね」


エフェスの正直な言葉に、ヤコブは優しく、そして諭すように言った。


「もったいなかね。そいは多分、エフェスが『知ることの楽しさ』を感じたことがなかっちゃな」

「えー。じいちゃんは勉強、楽しかったと?」

「もちろんばい! エフェス、お前は剣や狩りが大好きじゃろ? そいと同じばい。上手くなると楽しかろ? 勉強も、昨日より色々なことができるようになれば、本当は楽しいはずたい」

「うん……でも、俺さ、みんなより魔法ができんくて。なんか、嫌でさ」


昼間の快活な姿とは裏腹に、エフェスは魔法に関して強いコンプレックスを抱いていた。両親は二人とも優れた魔法の使い手だ。それなのに、自分だけが劣っている。その焦りが、彼から学ぶ楽しさを奪っていた。


不安そうな孫の顔を見ながら、ヤコブは確信に満ちた声で笑い飛ばした。


「はっはっは! お前はミシュマエルとマリアの息子ぞ。どう考えても、魔法の才能があるに決まっとるやろ」

「だから、余計に焦るっていうか……」

「よし! じゃあ、じいちゃんがエフェスの友達にも教えとらん、魔法のとっておきの秘策ば教えちゃるけん」

「え? 本当!?」

「本当じゃ。いいか、誰にも教えちゃいかんぞ」


ヤコブは悪戯っぽく笑うと、もったいぶるようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「魔法の……とっておきの……秘密は!……『感謝』じゃ」

「……う、ん?」

極限まで高められた期待と、返ってきた答えのギャップにエフェスは目を白黒させる。


「はっはっは! 分からんじゃろうな! でも、本当のことじゃけんな!」

ヤコブは、混乱する孫の頭を優しく撫でた。

「今は分からんでもよか。聖典も勉強も魔法も剣の稽古も、全てに『感謝』ば繋げることができたら、エフェスは誰よりも強うなれる。本当は父さんのミシュマエルが教えるべきことなんじゃがな。四年も顔を見せんとは、全く……。とにかく、今は母ちゃんの言うことをよう聞いて、焦らず楽しみから学びに変えていけば、大丈夫たい」

「……はーい」


最後の言葉は、なんとなくエフェスにも理解できた。


「そうよー。美人で優しいお母さんの言うことを聞けば、万事解決よー」

台所からマリアが茶化すように言う。


「うえー!」

「なんだその態度は。お母さんは美人で優しいわよね? エフェス?」

「美人かどうかはともかく! 優しくは……なか!」

「はっはっは!」


息子の反射的な反抗に、マリアは楽しそうに笑う。ヤコブもまた、ここにいない息子のことを思いながら、目の前の温かい家族の団らんを幸せに感じていた。


「よし! エフェス! 今日は頑張ったけん、村ば少し散歩してきてもよかぞ」

「え? 本当!? やったー!」

「丁度、月光花やヤマトボタルもよう光っとるけん。今日の夜は綺麗かぞ」

「遅くなったら承知せんけんね!」

「うん! 分かっとる! 行ってきます!」


もともとエセルとの約束のためにこっそり家を抜け出すつもりだったエフェスは、予想外の許可に満面の笑みを浮かべ、夜の闇へと元気よく飛び出していった。



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