第6話
ネーリはあっさりと、王宮に戻ってきた。
手を引かれる間、何も会話はなかった。
男は王宮に入ると特に迷うこともなく一室に入り、「給仕用の服しかないですが」と勝手に衣装棚から服を出し、ネーリに差し出してきた。
「その服では追っ手にばれてしまうから、着替えてください。大丈夫、覗きませんよ」
実際、守備隊に仮装の姿は情報が行っているはずだ。着替えるのは確かに得策だろう。
「あの」
衝立を動かし、少し離れようとした男を呼び止める。
「ありがとう……ございます」
何も聞かず、ここまで連れてきてくれた男に、一応声を掛けた。
鳥の仮装をした男は振り返る。彼は仮面に顔を隠したままだったが、ふっ、と笑う音が聞こえた。
ネーリは急いで服を脱ぎ、着替えた。
二枚の短剣を一瞬どうするか迷ったが、服の中に押し込めて、手放した。
「それはこちらに」
脱いだ服をどうしようかと抱えていると、貴族の男が衝立から顔を出し、手を差し出してきた。
彼は別の衣装ダンスにそれをあっさり押し込めると、窓から外に出た。
「その衣装には豪奢な仮面は似合わないな。これを」
「あ」
何かを言う前に仮面を外され、給仕がつける、簡易的な仮面を手渡された。
「さぁこちらへどうぞ」
顔を見られたと思うから、男だと分かったと思うのに、貴族の対応は何も変わらなかった。肩を抱えられ、窓から庭園に出る。
「あの……、わたしは、城から出なければならなくて」
「大丈夫。私の馬車でお送りしますよ」
彼は大きな手でネーリの手を握ると、歩き出す。すぐそばに、ダンスホールがあった。
さぞや騒ぎになっているはずだと思ってドキドキしていたのに、音楽が聞こえてくる。
なんと人々はまだ優雅に踊っていた。
どうやら騒動がすぐ王宮の外に向かったため、こちらには騒動が伝わってないようだ。
踊る人々の姿にネーリは少しだけ、安心した。もちろん、油断は出来ない状態だけれど。
自分の状況がどうなっていうのか分からなくて、フェルディナントはどうなっただろうとか、イアンはどこにいるだろうとか……そういえば、ラファエルを待っていたのだとようやく思い出して、彼のことだとか、頭の中が悩みでいっぱいになる。
「一曲踊ってくださいますか?」
庭園側からダンスホールに入ると、背の高い貴族は腰を屈め、ネーリの手の甲に唇を触れさせてきた。
「えっ、あ、あの……」
答えられずにいるのを、構わず、男はネーリの手を取り、新しく奏でられ始めた音楽にあわせて、踊り始めてしまった。
――すぐに、ネーリの背が伸びた。
踊りやすい、とすぐに分かった。
この貴族は先ほどまで、いなかった気がする。
彼は非常に背が高いし、踊りもうまく、見栄えがする。ネーリは桟敷から、かなり序盤から夜会を見ていた。その中で彼が踊っていれば、目に付いたと思う。この鳥の仮面も華やかな尾羽が目を引くが、それとなく眺めていたダンスホールの中では見なかったはずだ。
ネーリはまだ、色々な気持ちがざわめいていたのに、何も考えなくても、自然と男がリードしてくれるので、自由に踊れた。
「心配事がある顔をされている。よほど嫌な相手に追われていたようだ。でも仮面をつけているのだから、貴方の素性は分かっていない。今日限りのことですよ」
暢気に彼は、そんな風に声を掛けてくる。
「仮面舞踏会というのは、自分の素性が分からないと思って、大胆な行動に出る人間もいるものです」
仮装の詳細が分かったら、誰であったか、ラファエルは気づくのではないだろうかと、ネーリは考えていた。その時は、ラファエルには話さなければならないだろう。そうでなければ、彼が同伴した人間が仮面の男だなどと、王宮から彼が詰問を受けるようなことがあってはならない。
もう、フェルディナントが外から戻ってくる頃なのではないだろうか?
こんな風に暢気に踊っている場合ではないのに、しかし、どう城から出ればいいのかも分からない。
心は定まらず、ぐるぐると渦巻いているのに、身体は心地よく、リードされていくから、何か、現実感のない夢の中を漂っているような時間だった。
背に手が回り、不意に抱き寄せられた。
身体が重なる。
ネーリは一瞬息をのんだ。
「……そんな不安そうな顔をしないで。
必ず無事に城の外へ貴方を逃がす。。
――俺を信じて」
耳元で彼は囁いた。思わず顔を見上げる。
鳥の仮面がふわ、と尾羽を揺らす。
見通せない仮面の奥で、男の瞳が笑ったのが確かに分かった。
それまで、一歩を踏み出せないでいたネーリが、初めて、恐る恐る一歩を踏み出すと、貴族は嬉しそうに踊り始めた。彼のその感情が、握り合う手や、背に回された手のひらから、ネーリに伝わってくる。
何故か本当にそうなる気がして、何故正体も分からない相手に、そんな風に思ったのかも、不思議だった。
優雅な曲調が、終盤を迎えた頃。
「きゃっ」
不意に貴族が、誰かに当たった。
キョロキョロとしていた、アルテミスの仮装が振り返る。
「アデルさん」
ネーリは驚いた。
「まあ、ネーリさま。良かった。はぐれてしまって、探しておりました、実は何か騒ぎがあったようで……」
仮装を変えていたので最初は誰だか分からなかったようだったが、声でネーリだと分かったらしい。アデライードは安堵したように、歩み寄ってくる。
貴族の男は自然と、ネーリの手を離した。
「ご友人と再会出来たようですね。
では、私はここで消えた方がよいようです」
彼はネーリとアデライードの二人に、それぞれ一礼し挨拶すると、貴族らしく優雅に庭園の方に去って行った。
「あの方は……? お友達ですか?」
アデライードが首をかしげる。
「あ……いや、全然知らない人なんだけど。ちょっと衣装を汚してしまって、彼が着替えを用意してくれたんです」
「まあ、そうでしたの。申し訳ありません、ネーリ様。私が目を離した隙にはぐれてしまって」
「いえ、違うんです。少し……気分が悪くなって、庭園の方で休んでいたんです。すみません」
「まぁ、そうでしたか。いかがいたしますか……? 桟敷でお休みになります? 兄が、お疲れになったら、城にある自分の私室で休んでもいいと言っておりましたわ」
「えっと……、」
ネーリが言葉に詰まったので、アデライードは眼を瞬かせた。それから彼女は微笑む。
「では今宵は、もう屋敷に戻りましょうか?」
「でも……」
「平気ですわ。兄には、城の方から伝言をしていただきますし。ネーリ様が望むようになさってほしいと言っておりましたもの。夜会が無事に終われば、きっとラファエル様も戻ってこられると思います。心配には及びません」
多分これが無事に城から逃れられる、唯一の道で、最後のチャンスだろう。
ネーリは心を決めた。
「ありがとう、アデライードさん。じゃあ……そうしてもいいかな?」
「もちろんですわ。私も慣れない夜会でたくさん緊張いたしました。我が家でゆっくりしたいです」
アデライードは優しくそう笑いかけるとネーリの手を取り、歩き出した。
ネーリは一瞬、振り返った。
鳥の仮装はどこにもいなくなっていた。
……あれはどこの誰だったんだろう?
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