第4話


 フェルディナントの本気の怒りを、全身に感じる。

 彼は優しい人だったから、ネーリはそれを向けられて戸惑った。

 話し合おうと言われた時、心が動いた。

 でも、あまりに今まで語ってこなかったことが多く、城下で斬り合った時の記憶が蘇り、神聖ローマ帝国駐屯地での、幸せな記憶が蘇り、失えないもののことを思って、言葉が出てこなかった。

 斬り合いになったあとも、ネーリはずっと考えていた。

 話すべきか、否か。

 自分の闇の所業を彼に知られたくないなど、実に滑稽で、浅はかな自尊心のことなのに、何も持っていない自分がいつの間にか、こんなにも多くの失えないものを持っていたなんて、気づかずに来ていた。

 ここが王宮ではなく、あの時のような城下で、二人きりだったなら、話せたのだろうか?

(殺せるわけない……)

 確かに、さっき、仕留められる瞬間があった。

 でも。


(殺せるわけないよ! フレディ!)


 本当は、傷一つ負わせたくない。

 もうヴェネトのために失いすぎてるフェルディナントに、自分は少しの傷も、負わせることは許されないのだ。

 相手が悪すぎる。手出しを出来ない相手。

 しかし、フェルディナントは優れた剣士だから、傷を負わせるか、気を失わせるか、とにかくどうにかしなければ逃げおおせることは出来ない。

 四方を壁で覆われた気持ちがした。

 どうしたらいい。

 どうしたら……、

 その時だった。


 ぱちぱち……、


 絶望に覆われていたネーリの耳に、妙な音が届いた。

 ここは水の庭らしく、水の流れる音がずっと聞こえていたけれど、その中でもよく分かる、異質な音。そちらを見ると、人がいた。ここは上から水の庭園を望めるように、一段場所が低くなっている。

 上にも王宮の中央から続く花の庭園があり、美しい橋の所に、なんと人がいた。

 貴族だ。

 仮面をつけ、豪奢な仮装をして、今宵の舞踏会の観客だろう。

 絶望的な斬り合いを続けていたネーリは一瞬、戸惑った。

 普通は人がこれを見たら、悲鳴を上げて逃げ出す。

 しかしよく見ると、すでに十人ほど集まっている彼らは仮面をつけながらも笑って、拍手などをしていた。

 その意味が分からず、戸惑っていた所に、

「答えろ‼」

 フェルディナントが怒りを込めて打ちかかってきた。

 響いた剣撃にどよめきが生まれ、そして、拍手が響く。

 その時、ネーリは気づいた。見世物だと思われているのだ。

 この仮装の纏いに、今日の仮面舞踏会の一種の余興だとでも思われているのかも知れない。なんという暢気な発想だと呆れるよりも早く、ネーリは全身の力が、不意に抜けた。

 よく、祖父が言っていた。

 自分が戦って、戦果を上げて港に戻ると、王都ヴェネツィアの人々がそれは喜んで出迎えてくれるのだと。彼らの喜ぶ顔が嬉しくて、海の上が一番幸せだけれど、港に戻る時も楽しくて好きだと彼は笑っていた。

 自分の守るべき民が、自分の戦う姿に目を輝かせてくれる。

 そうあるうちは、自分も戦いを楽しんでいいのだと。

『あいつらの笑う顔が、戦う為の、勇気になる』

 そうだった。

 いつの間にか、戦うことを恐れる気持ちが大きくなっていた。

 でも戦うことは、奪うばかりじゃない。

 守るための戦いだってある。

 これは奪うための戦いじゃない。

 別にフェルディナントを、傷つける必要はないのだ。忘れていた。

(そうだったね、おじいちゃん)

 ネーリは目を輝かせて、前を見据えた。

 立ち止まっていた場所から飛び退り、間合いを取り、二本の短剣をそろえて水面を浚った。水飛沫が上がり、フェルディナントがたじろぐ。ネーリは身を翻した。

「待て!」

 前方に円形の、特徴ある離宮が見えてくる。

 側に上階への階段があった。ネーリはそちらを選び、階段の途中でフェルディナントを待ち構える。

 フェルディナントは一度、階段の下で立ち止まり、怪訝な表情を見せたが、ネーリが刃を投げつけると、躱して、階段を駆け上がってくる。

 短剣を短く持ち、打ち合った。

 人の気配。

 大衆の空気にもいろいろある。

 恐怖。

 歓喜。

 ネーリは打ち合いながら、離宮を見下ろす展望台の縁に飛び乗った。


 ――サッ、と記憶が蘇る。


 祖父や【有翼旅団】の人たちに、剣を教えてもらった時のこと。

 足場の悪い場所で戦えるようにと、船の縁に立ち、相手と対峙する。

 踏み外して何度も海に叩き落とされた。

 それすら、遊びのように何度も何度も繰り返したこと。

 ネーリは大人達の剣術を瞬く間に吸い込み、会得した。

 どんな剣を見せれば、彼らが喜んでくれるか、分かっていた。

 狭い足場でよくそんな飛び跳ねられる、と大人達が笑う。

 フェルディナントの剣を躱し、上空から、刃を振り下ろす。

 すかさず避けたフェルディナントが追撃に出てくる。

 彼も、鮮やかな剣技を使う人だったから、貴族達は沸き立った。

 人が増えて来ている。

 面白いことをやっているようだと、誰かが広めている。

 仮面の下で、ネーリはくす……、と笑った。

 さっきまであった恐怖が、消えていく。

 庭園の彫像や、噴水を壁のように使いながら、フェルディナントと打ち合う。

 王宮の方で鐘が鳴った。

 幾つかあるアーチ状の噴水が、定められた時間に一斉に水を吹く。

 集まった貴族達が歓声を上げ、拍手が沸き起こる。

 フェルディナントはその時初めて、人が集まっていることに気づいたらしい。

 戸惑った表情を一瞬見せた。

 ネーリはその一瞬を、見逃さなかった。

 噴水の縁に立って構えていた彼は、瞬間的に華やかな水飛沫の中に飛び込み、刹那視界を水により遮られたフェルディナントに襲いかかる。

 斬りかかるのではなく、彼の、肩に足を掛けた。

「!」

 彼の肩を足場に、思い切り飛んだ。

 フェルディナントが衝撃で体勢を崩す。剣を支えに、転倒だけは免れたが、振り返った時、ネーリはそこに立っていた騎馬像に飛び移っており、そこから更に、飛んだ。

 集まって楽しんでいた群衆の頭上を飛び越え、柔らかく着地すると、そのまま駆け出す。

 群衆が壁になって、フェルディナントの姿が見えなくなった。

 すぐ側にある薔薇庭園に入る。

 ここは王宮から見下ろした時美しい模様になるよう、切りそろえられているため、そこにいると迷路のようになっている。

 ネーリは駆けながら、考えていた。

 どう逃げるか。

 王宮側はすでに守備隊が動き出しているはずだ。

 それに王宮の近衛団にはイアン・エルスバトがいる。

 彼はフェルディナント同様、ネーリでさえ、簡単に打ち倒せない実力を持った相手だ。

 近づくのは危険すぎた。

 海に飛び込んで逃げるしかない。

 ヴェネト王宮は城壁に囲まれている。つまりそれを超えなければならない。

 南側の城壁は固められているだろう。北だ。

 今逃げてきたが、あちら側に活路がある。

 反転しそちら側から海に逃げるべきかもしれない。

 離宮の先は山の斜面だが――、そう思い出した時、【月の離宮】の幻想的な外観が蘇った。

(……ぼく、あそこに見覚えがあるような気がする)

 遠くで、警笛が鳴った。

 ハッとして身を、薔薇の木の陰に潜めた時だった。


 くす……。


 すぐ背後で笑う音が聞こえ、ネーリは慌てて振り返る。

 そこに、いつの間にか、人が立っていた。

 仮装をしていて、今宵の客だろう。

 華やかな赤い尾羽が揺れる。鳥の仮面だ。


「こんなところで美しい【|月の女神セレネ】に会えるとは。

 しかもどうやら、嫌な男から逃げている途中らしい。

 よろしければ、手をお貸ししますよ。お嬢さん」


 身じろごうとしたネーリは、止める間もなく腕を引かれる。

「薔薇の棘が危ない。さぁこちらへ」

 背の高い貴族だ。

 彼が振り返ると、鳥の仮面に付いた長い尾羽が優雅に揺れた。



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