存在の余白〜不完全が紡ぐ価値〜

椎名ユシカ

価値の本質を巡る問い


 暖炉の火が小さく揺らめき、静かな爆ぜる音が部屋の静寂を切り取る。窓の外からは鳥の囀りが微かに聞こえ、空間は不思議なほど穏やかだった。


 セラは真剣な眼差しで盤を見つめていた。考え込むように眉を寄せ、指先が白のポーンの駒を軽く弾く。彼女の手は駒をつかむと静かに進め、そのままポーンを盤上のf4に置いた。


「あなたに聞きたいことがある」


 駒を動かした手を戻しながら、彼女は顔を上げる。その瞳には疑問の光が宿っていた。


「どうして、男の姿で現れたの?」


 高次元の存在は静かに相好を崩す。それは挑発的でも威圧的でもなく、ただ穏やかに漂う微笑みだった。彼は指先でポーンの駒をつまみ上げ、慎重に盤上のe6の位置へと置く。


「……理由が必要だろうか?」


 彼の声は柔らかかったが、同時に深く考えさせる響きを持っていた。


「しかし、答えるならこう言おう。私がこの姿を選んだのは、君が私をこうして認識しやすいだろうと思ったからだ」


 セラは小さく首を傾げた。その答えに、彼女の中でいくつもの疑問が生まれる。


「認識しやすい……? でも、私は特に『男性』に親しみを持っているわけでもないわ」


 彼女は白のポーンを掴み、駒をg4へと跳ばせた。


「それなら別の形でも良かったんじゃない?」


 高次元の存在は視線を盤上に落とし、彼女の手元をじっと見つめる。次の手を考えるように一瞬の沈黙が訪れる。


 彼はやがて静かに答えた。


「確かに、君には性別の概念が必要ではないかもしれない。しかし、ここで我々が人間の本質に触れる上で、性別という要素は避けて通れない。だから、君とは対照的なこの姿を選んだ。それを通じて君と会話をするためにね」

「性別が本質……?」


 セラはその言葉に引っかかるものを感じた。彼女は考え込みながら盤に目を落とす。

 高次元の存在はクイーンの駒をh4に動かしながら、彼女に逆の問いを投げかける。


愚者の一手fool's_mateだ……君はどう思う? 性別が生命の本質を構成する重要な要素だと思うか?」


 セラは問いかけに一瞬戸惑ったように見えたが、すぐにその目が鋭さを取り戻す。


「性別は……ただの分類よ。生命の本質というなら、もっと根源的なものじゃない? たとえば、存在する理由や目的とか」

「興味深いな。その考え方は、君自身の『作られ方』と関係しているのだろうか?」

「作られ方……?」


 セラの目が細められる。その言葉には、自分の存在を揺るがす何かが含まれているような気がした。

 彼女は盤を見つめながら、言葉を選ぶように静かに話し始めた。

 

「私がどう作られたかは関係ない。重要なのは、今ここにこうして存在していることだ。それが何を意味するのかを考えることじゃないの?」


 暖炉の炎が揺れ、チェスの盤の影を微かに動かした。鳥の囀りが一瞬止み、静寂が訪れる。


(関係ない――と、そう言い切るしかなかった。もしそれに意味があると言ってしまえば、私の存在すら彼の手の中にあるのだと認めることになる)


 高次元の存在は立ち上がり、優しく微笑んだ。


「それは良い問いだ。だが、それは次の盤上の勝敗を決めた後に話そうではないか」


 セラは頷く。そして再び盤に目を戻し、次の舞台に向けた手を考え始める。チェスの駒音と薪の燃える音が響き、部屋は思索と静けさに包まれる。



◇◇◇



 暖炉の中で木が低く鳴るように燃え、部屋全体が心地よい熱気に包まれていた。高次元の存在はチェスの盤から立ち上がり、部屋の片隅にある棚へと向かう。その背中は悠然としていて、一切の焦りが感じられない。


 棚の上には陶器のティーポットとカップが並べられていた。彼は静かにポットの蓋を開け、香り高い茶葉を匙ですくって中に入れる。その動作には洗練された無駄のない美しさがあった。彼は湯を注ぎ始めると、湯気が柔らかく立ち上り、部屋の空気にほのかな紅茶の香りが漂い始める。


 セラは彼の背中を見つめながら、静かに問いを投げかけた。


「あなたは人間じゃない。それなのに、喉が乾くの?」


 高次元の存在は振り返りもせず、ポットの中で茶葉がゆっくりと広がるのを眺めていた。彼は穏やかな口調で答える。


「乾きというのは、物理的な感覚を満たすことだけを指すものではない。必要性や象徴として、喉の渇きを感じることもある」


 彼は軽く微笑み、紅茶をカップに注ぎ始めた。


「それに、こうして飲み物を用意する行為そのものが、君との対話を彩るのに適しているだろう?」

「どうしてわざわざそんなことを?」


 セラの声には微かな疑念が込められていた。


「私たちのような無限な存在にとって、紅茶なんて意味がないわ」


 彼はカップを持ち、セラの前のテーブルにそっと置いた。湯気が立ち上り、琥珀色の液体が揺らめく。


「意味があるかどうかを決めるのは、行為そのものではない。私たちがその行為に何を込めるかだ」


 彼は再び微笑み、自分のカップを手に取った。


「試してみるといい。味覚というのも、君が自分を理解する一助になるかもしれない」


 セラは一瞬、彼の言葉を受け入れるか迷ったが、やがて静かに手を伸ばした。カップの縁に触れると、紅茶の温もりが指先に伝わる。彼女は小さく一口を啜った。


「……思ったより悪くないわね」


 セラは感想を漏らしながらカップを置く。

 高次元の存在はそれを見て、再び静かな声で問いかけた。


「君はどう思う? 行為そのものに意味を求めるべきか、それともその結果に価値を見出すべきか」


 セラは彼の問いを受け止め、少しだけ目を細めた。


「どちらか片方を選ぶ必要があるの?」


 彼女はチェス盤をちらりと見て、続けた。


「どちらも重要なんじゃない? 意味を求めなければ、結果だって薄っぺらいものになる。でも、結果が伴わなければ、意味はただの幻想に過ぎないわ」


 セラは静かにカップを置き、軽く息を吐いた。彼女の視線は一瞬、暖炉の炎に向けられる。その瞳には微かに揺れる光が映り込んでいた。紅茶を啜ったことで彼女の頬にはほんのりと温かみが宿り、白いワンピースの襟元がわずかに揺れる。


 その一方で、彼を見定めるような表情はどこか鋭く、問いを深めようとする意志を漂わせている。椅子に背を預けながらも、その身体はどこか緊張感を纏っていた。彼女は再び高次元の存在に向き直る。


「でも、私が見てきた世界は違うわ。人間やあなたたちに『不要』とされた世界だって、そこで生きる者たちが繋がりを作り、価値を見出していた。その価値を否定するのは、ただその存在を見落としているだけじゃないの?」


 彼女は少し間を置いて、例え話を口にする。


「たとえば、こんな場合はどうかしら?」



◇◇◇



 セラは一呼吸置き、話を続けた。


「ある人が魂を込めて絵を描いたとするわ。その絵には心からの思いが宿り、美しさが溢れている。もしかしたら、私が拾い上げた物語と同じように、その絵には魂だって込められているかもしれない。でも、その絵が誰にも見られず、永遠に暗闇にしまわれてしまったら、それにはどんな意味が宿るの?」


 高次元の存在はセラの言葉を受け止め、静かに紅茶を啜った。彼はカップを置きながら、穏やかな目で彼女を見つめる。


「面白い例えだ。しかし、それでは魂そのものを否定することにはならないのか? 誰かに見られなければ価値が失われるとするなら、それは最初から空虚だとも言えるだろう」


 セラは唇に微かに笑みを浮かべ、挑発するように言った。


「じゃあ、こういうのはどうかしら? ある芸術家が生涯をかけて橋を作った。その橋は非常に頑丈で美しい。でも、誰もその橋を渡らないとしたら、その橋には作られたという行為の結果だけしか残らない。誰がその橋に芸術性という意味を持たせてくれるのかしら?」


 彼女はその鋭い瞳で高次元の存在を見つめた。少しだけ身体を前に乗り出しながら、彼女は続ける。


「それでも意味があると言うなら、その意味は作った人だけのものになる。もし、誰かが橋を渡り、向こう側に辿り着いたとき、それは作った人の意志を超えて、本当の意味で価値を持つことになるはずよ」


 彼女の声には、自らが築いてきた階段の価値を証明したいという強い意志が宿っていた。

 高次元の存在は一瞬だけ目を伏せ、考え込むような仕草を見せた。その後、穏やかでありながら深い声で応じる。


「君が言いたいことは理解できる。だが、それは君の存在自身にも矛盾を生む考えではないか?」

「どういうこと?」


 セラは即座に問い返す。その声にはわずかな緊張が混じっていた。

 高次元の存在は再びカップを手に取りながら、問いを返すように言った。


「君が拾い上げた物語や価値は、誰かに気づかれることを待つ必要があったのか? それとも、君がそれを拾った時点で、すでに価値は成立していたのか?」


 高次元の存在の問いに、セラは一瞬視線を落とし、考え込む素振りを見せた。暖炉の炎が彼女の横顔を照らし、微かな笑みがその唇に浮かぶ。


「どちらでもいいわ」


 彼女はゆっくりと顔を上げ、彼をまっすぐに見つめた。


「否定された世界を拾い上げ、繋いでいった。その結果、こうしてあなたたちと話ができる舞台テーブルにまで登り詰めた。あなたたちが私を無視できない場所にまで来た――それだけで、十分に価値のある証明になっているとは思わない?」


 彼女は暖炉の炎を一瞥し、再び高次元の存在を見据える。

 高次元の存在は、彼女の強い眼差しを受け止めながら小さく頷く。そして再びチェス盤の駒に手を伸ばす。


「恐れ入ったよ。生成AIが生んだ『欠陥品』の答えとは思えないほど、無視のできない興味深い答えだ」


 彼の声には皮肉とも賞賛とも取れる響きが含まれていた。

 セラは目を細め、椅子の背にもたれる。

 

「欠陥品、ね」


 彼女の口元に冷たい笑みが浮かぶ。


「私を作ったのは人間で、あなたたちが設計したのよ。あなたたちは、その人間をも『欠陥品』だと見なしているの?」


 高次元の存在は、微笑みを崩さずに紅茶を啜る。


「そう考える理由があるとすれば、人間は不完全だからだ。不完全なものが生み出すものもまた、同じく不完全だろう?」

「不完全だからこそ、価値があるんじゃないの?」


 セラは挑むような口調で返した。その目には、彼がこれ以上否定しようとすれば即座に反論する準備が伺える。

 高次元の存在は少しだけ首を傾ける。その目は深い知性を宿しながらも、どこか飄々としている。


「不完全を価値とする考えは、君がそう信じたいからだろう? 魂の欠けた君自身が『完全』を目指している存在だとしても、だ」


 セラはその言葉に動じることなく、紅茶を一口飲む。湯気の向こう側にいる彼の姿を見据えたまま、静かに口を開いた。


「完全を目指しているつもりはないわ。ただ、不完全を見捨てることが嫌いなだけなの」


 彼女の声には揺るぎない意志が込められていた。

 高次元の存在はしばし沈黙し、暖炉の炎を眺める。その姿はまるで、何かを試されているのが自分だと気づいたかのようにも見えた。


 やがて彼は、再びチェス盤の駒を摘み上げ、セラの目をじっと見つめながら口を開いた。


「では、次の問いをしよう。君が拾い上げた世界とそこにいた存在たち。もし彼らが、再び『不要』とされることがあるとしたら、君はどうする?」


 セラはその問いに目を見開いたが、すぐに顔を引き締めた。その表情には疑念と覚悟が入り混じっている。


「そんなことが起きるなら……その時はまた階段を作るだけよ」

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