第3話
「お兄様。どう思われて?」
「うん?」
護衛とチェスをしていたドラクマ・シャルタナが、妹に問いかけられ、一瞬遅れて振り返る。
「なにがだい?」
妹は暢気に返した兄に、呆れた顔を見せる。
「なにがだい、じゃありませんわ。お兄さま。チェスなど家でどれだけでも出来るでしょう。何しに来たと思ってますの」
「しかし……こうも仮面で顔を隠されては、見目がいいか悪いかも分からないよ」
「ラファエル・イーシャが桟敷から消えて、もう一時間は経ちますわ」
「妃殿下とご一緒なのだろう。じきに現われるさ」
「妃殿下はもう桟敷にいらっしゃいます。王太子がいらっしゃるわ。ラファエル様は遠慮するでしょう。会場にもいない」
「彼の桟敷は空になったのか?」
「美女が二人、談笑中」
「一人は例の、屋敷にいる娘だろう。妹だと彼が言っていた。もう一人は誰かな。珍しいな、彼が桟敷に特定の女を伴うのは。妹も異母妹で、母の身分が低いそうだ。社交界に慣れていないので城にあまり連れて来るのも哀れだと思い、控えてると聞いた。確かに仮面舞踏会ならば、身分は関係ない」
「フランスの友人でしょうか。随分親しそうですわ」
オペラグラスをさりげなくそちらにやって、レイファ・ドラクマが呟く。
「こらこら、あまり詮索するのは無粋というものだよ」
「詮索ではありませんわ。今やあの方は妃殿下の特別なご寵愛を受けるお一人。
ヴェネトを守護する【青のスクオーラ】として、動向は把握しておかなければ、かえって失礼でしょう。アルテミスとセレネの仮装ね。さすがにいい趣味をしていらっしゃる」
「妹の知人だろう」
「お兄様、随分悠長にしていらっしゃいますのね? 貴方の縄張りにあの神聖ローマ帝国の小賢しい監査が入ったというのに」
「なあに。他所から来た人間には何も嗅ぎ出せんさ」
「……そうかしら」
レイファはオペラグラスをスッ、とずらした。
まだどこか、幼い様子で階下の様子を親し気に話している二人の娘、その煌びやかな仮装から突然、この場にはかえって目立つ、黒衣の衣装。
チッ、と思わず彼女は舌打ちが出た。
いつからかは分からないが、三十分ほど前からずっとあそこにいる。
「あの無粋な黒衣。仮装でも分かりますわ。絶対に神聖ローマ帝国軍の回し者よ。ずっと私たちを見てる」
「華やかな君の衣装に見蕩れているんだよ。レイファ」
「馬鹿ね。お兄様。あれは貴方を見ているのよ」
ドラクマはチェスの手を止め、軽く手の甲を振った。
護衛が一礼し、新しいワインを取りに行く。
「ディエスの画廊に調査が入ったのは由々しきことよ」
「神聖ローマ帝国の犬どもが、私を逮捕するって? 馬鹿馬鹿しい。大体、一体何の罪で?」
ドラクマは戻って来た護衛が注いだワインの美しい色合いを確かめ、喉に流し込んだ。
「私は彼らを愛でているんだよ。愛されるべき、特別な容姿と素質を持った彼らを、相応しい場所に飾り、金を使い、何の不自由もさせていない。彼らは私の許に来るまで、その特別な素質に敬意も払わられず、底辺の環境でこき使われていた。私はそのような所から救い出し、保護したのだ」
レイファは頬杖をつき、溜息をつく。
「確かに、金は使ってますわね」
「大切に慈しんでいるのに、非難されることなどないよ」
「私は嫌な予感がするわ。妃殿下があの、フェルディナントを嫌って下さったから、早々にあんなもの、帰国させて下さると期待したのに。あの連中がいなくなるまで、ヴェネトを出ようかしら」
「おいおい、私を置いて行くのかい?」
「お兄様がその気になれば、身の回りの世話をする女なんていくらでもいるでしょう。私は貴方の為に日々尽くしているのに、貴方は感謝するどころか、妃殿下に口うるさい妹だと私の悪口を言って遊んでいるんですもの。こんな国にいても何にも得しないわ。遠い異国にだって美形は山ほどいるわよ」
「分かった分かった。私が悪かったから。お前には感謝しているよ。私と違ってよく周囲のことを見てくれてる。妹だから、少し悪く言って苛めたりするが。この世で一番信頼出来る人間はお前なんだ。頼むからヴェネトを出て行くなんて言わないでくれ。私の身の回りのことを頼めるなど、お前しかいないよ」
妹の肩を抱き寄せ、優しく背を撫でる。
「だったら出来た妹だと妃殿下に仰ってください。わたくしこの前、あまり兄上を困らせてはいけませんよ、なんて言われましたわよ」
「分かった分かった。次の機会に存分に誉めておく」
「まったく……」
もう一度見遣ると、黒衣の男は消えていた。
レイファはようやくオペラグラスをテーブルに置き、ワインを飲んだ。
「……目障りな男ね」
彼女は仮面の下で、目を細める。
「お兄様もでしょう?」
「うん?」
「例のネーリ・バルネチア。最近全く教会に現われないのに、街で時々見かけるわ。あの男と楽しそうに歩いているそうよ」
「彼はいつだって楽しそうにヴェネトの街を歩いている子だよ。お前も知ってるだろう」
「前はね。――忌々しい、あの男。後を尾行させようとしても必ず勘付くから全く近づけないわ。きっと駐屯地にいるのよ」
「絵を描いているんだろう」
「貴方の肖像画を頼んだのに。フラれましたわね、旦那様」
「無闇に私を傷つけるのはやめてくれるかな?」
ふん、とレイファは首を反らした。
ドラクマは小さく笑う。
「構わないよ。それに美しい蝶というものは、多少捕まえるのには苦労するものなんだよ。
だが、それがいいんだ」
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