第2話
美しい、白い砂浜が見えてきた。
不思議な光景だなあ。
ここだけなんか、違う場所みたいな景色だ。
ラファエルは馬車の窓辺に頬杖をついた。
【シビュラの塔】の近くに、こんな景色がぽっかりと現われることは、何か関連があるのだろうか?
軽快に走る馬車の中で、対面に座るロシェル・グヴェンは落ち着いた様子で目を閉じ、押し黙っている。ヴェネトにも色々な人間がいるが、もしかしたら一番謎めいているのがこの寡黙な男かもしれない。
確か……、
「医者の息子だって言ってたよね?」
数秒後、ロシェルがゆっくり瞳を開き、色の薄い瞳でラファエルの方を見た。
「……なにか?」
「君のこと。前に少し聞いたことがあるけど。父上が、ヴェネト王の病床のお世話をしていらっしゃる宮廷医なんだよね」
「そうです」
しかし、ヴェネト王の真実を知っているラファエルは首を傾げた。
「今は、どう務められているのかな」
「今も変わらず、妃殿下の信任を受け、陛下に仕えております」
抽象的な言い方だった。何かあるのかもしれない。
「妃殿下が今も、私を参謀役として側で使って下さる事実が、妃殿下が私の父を信任下さっていることの証です」
「君はヴェネト出身なんだよね?」
「――ラファエル殿」
ラファエルは青い瞳を対面のロシェルに向けた。
「貴方のことは妃殿下から全て、聞き及んでおります。妃殿下がお持ちになる【シビュラの塔】の管理を望まれる、強い気持ちも貴方にはお話しになった。明確に、あの方が自分の望みを説明されたのは恐らく、私の他には、貴方だけでしょう。この国の誰も、まだ妃殿下の真意をご存じない。王太子殿下でさえ」
それくらいの話を打ち明けられたという自覚のあったラファエルだったが、いざ、私の他には貴方だけと言葉に出されると、息を飲んだ。
「そう。ましてや貴方はフランスを母国とする方。私と違ってヴェネトの民ではない。
それでも貴方に大望を打ち明けられたことは、異例のことです」
一瞬驚きの表情は見せたが、ラファエルは優雅に足を組み替える。
「どこまで妃殿下から、君は聞いたのかな? 僕たちのことを」
「陛下の病床のこと……対面も済まされたと。貴方はフランスの人間ですが、場合によっては祖国に二度と戻らぬ覚悟もおありだということ。
フランス王との親しい間柄、護衛を不要とする、そういう剣を扱われることも聞きました。フランス王に恩義を感じ、祖国を愛しながらも貴方は他に、守りたいものがおありになる。愛する方がいらっしゃると、それだけは聞きました。その方がご無事で、幸せである限り、決して妃殿下の敵にならぬ誓いをお立てになったと。
その名は妃殿下の指輪に刻まれているのだとか。
今すぐにでも知ることは出来ることですが、妃殿下は指輪の件は、今は封じておくおつもりのようです。貴方は他国の方ですが、妃殿下に誠実にお仕えになった。ですから、貴方の忠義への信頼として、詮索はしないと。そうすることで、ご自分が無差別に殺戮を行う暴君でないということを、貴方に示しておられるのかもしれません」
「うん。多分そんな感じだろうね。だってその気になればヴェネト王妃様が、私に信頼されてるか、そうでないかなど、関係は全くないだろうから。今はむやみに何もかも暴く必要はないとお考えなんだろう。その方の名は、私にとって、妃殿下に対する秘密ではないのだと、私は示したかっただけなんだよ。
君にも心に想う方が一人くらいいるだろう。
気の合う友人のことや、大好きな家族のことは、他人に話すことも面白いだろうが、
真実の愛は、人間は、秘めておきたいものなんだよ。
一つの美学だ。別に秘密ではない。
信念を持って生きる人間は――その人間の言動を見ているだけで、その信念が語らずとも分かるものだからね。私にとって、たった一人、裏切れない方がいる。命を懸けて守りたいと思う方が。そういうものを持っている人間だと、妃殿下に示したかっただけだ。
だからその名を、あえて暴くというのも、無粋な話だろう?
私の意図を、妃殿下は尊重して下さったよ。感謝している。
私はヴェネトにいる限り妃殿下や陛下の臣下だ。
そうすることで、あの方は臣下の意志を尊重する顔もお持ちなのだと、私にお示し下さった」
「――そうです。妃殿下については今や、各国が様々な憶測を行っているでしょうが、そういう一面もお持ちの方なのです」
「私はこれからは、君と協力し、妃殿下の大望の為に尽力せよと命じられた」
「私にも、同様のことをお命じになられました。ですから今日のようなことも、驚きではないわけです」
「臣下が主君の全てを理解するというのも、ある意味おこがましいものだけれど。私は陛下との謁見で、今まで分からなかったある程度のことが、妃殿下に対して理解出来たように思う。それに比べれば、君の方が余程まだ謎めいてる所がある」
「私に謎などございません。妃殿下を理解なさったというのなら、私はその大望を実現するために、命じられたことを、全てなすだけの人間だということもご理解下さって結構です」
「それは理解出来るけど。何故君がそれほど妃殿下の信頼を受けているか、そこがいまいち分からないんだよ。優秀な助言役だとは思うけど、君は貴族でもなければ軍人ですらないんだろう?
いや。私は出自をとやかく言うつもりはないんだ。
でもこの、神聖ローマ帝国やらスペインやらもうろつくヴェネトで、頼れるのは君だけなら、もっと信頼したい。君が妃殿下の信頼を受ける理由は、本当に父親が陛下付きの宮廷医だったという事実だけか?」
「……何故私のようなものが、と不自然に思われるのは当然でしょうが、実際その事実だけです。私の父が、私の父でなければ、私は王宮にすら存在することが出来なかった人間なのですから。
私の家庭は父と私の二人きりだったので、父の側にいたいだろうと、妃殿下が取り立てて下さったのです。元々父の助手などもしていたので」
「では……なんというか、フランス風の聞き方になるけれど、君は妃殿下の慈悲で取り立てられた人間であり、決して恋愛感情めいた理由はないわけだね?」
「私にとって妃殿下は、母親よりも尊い場所におられる女性です。触れようなどと、考えたこともありません」
はっきり返され、ラファエルは肩を竦めた。
「それは。気に障ったなら謝るよ。君をひどく信頼し気に入っておられるなと思っていたからね」
「……それに、妃殿下は陛下を深く愛しておられます。あの方の一途な愛情は、不意に現われた人間などに向けられることはありません」
ふと、ラファエルはロシェルに目を向けた。
セルピナ・ビューレイが愛情深いかどうかは、ラファエルの中ではまだ結論は出ていない。特に彼女とヴェネト王の関係は、彼にとってどう見るかは微妙な問題だった。あれが一つの愛の形だと言われればそうなのかもしれないが、愛する者を骸のままにしておくことが、果たして愛情深さと繋がっているかは分からない。
王太子が戴冠後、国民には崩御を知らせると彼女は言っていたが、その気になれば秘密裏に埋葬をすることだって出来たはずだ。少しの秘密も、あの部屋から漏らしてはいけないと警戒してのことだと思うけれど、そう考えると王妃が守りたかったのはヴェネトの玉座であり、その為に愛する者の死を隠蔽することも容易かったということになる。
だとすると、セルピナが重視したのは自ら、もしくは王太子が権力を揺るぎなく掌握することであり、玉座に固執することで、死んだ夫への愛情など、無残な骸がそこにある事実と一緒に捨て置くことは容易であったのかもしれない。
……しかし、ヴェネト王が玉座の掌握をこそ願ったのなら話は別だ。
自分が死んでも、それを伏せ、息子が戴冠するまで玉座を安定させてくれと望んだとしたら、王妃の行動は、夫への愛だ。そこが分からないから、判断は下せない。
いずれは見えてくるものがあるだろうが、今はまだ。
「……全てを速やかに理解することは出来ないかもしれません。
ですが、妃殿下の愛情をお疑い下さいますな。
ラファエル殿。
あの方は誰も彼も愛する方ではありません。
この方こそ、という人を選んで愛される。
貴方もその一人となった。
あの方は自分が愛した方の裏切りは、決して許すことは出来ない方」
そこが自分と彼女の違いだなあ、とラファエルは思う。
ラファエルは愛した人間に、愛を捧げた。
それは自分の事実であり、受け止めるかどうかは、相手に委ねられている。
自分の愛が真実でも、最も愛されないことはあるし、愛情が、鬱陶しいと思われることすら、現実にはある。だがそうされた時に相手を憎むようでは、結局、愛する力が弱いのだ。
ラファエルは自分の愛情で相手を束縛など、決してしたくなかった。
貴方の側にいることが幸せだと、愛する人間からそう言われることが一番の望みだ。
仮に愛されなかったとしても、相手を憎んだりしてはいけない。
自分の力が及ばなかったのだと、受け止めるだけだ。
勿論、愛される自分であろうとする努力は最後までするけれど。
(最後の最後には、誰しも、神の審判を受けるものだ)
その審判は、静かな心で聞き、受け止めなければならない。
「裏切った時は、私には死んでもらうとはっきり言われたよ。
でもこうも仰った。そうなることを、望んではいないと」
ロシェルは頷く。
「真実でしょう」
「ロシェル。妃殿下を疑うわけではないが、君に問いかけることくらい、私は許されるんだろう?」
「許されております。私が全ての問いにお答えするかは別の話ですが」
「そう。では聞こう。ヴェネト王のことが知りたいんだ。妃殿下もあまりそのことは、お話しにならない」
「では、お話しになりたくないと思われているのでしょう。状況を思えば、当然なのではないでしょうか」
「お二人の思い出話なら」
ラファエルは微笑む。
「妃殿下が話す気になられた時に聞くよ。そういうことじゃなくて、要するに彼の……背景さ。分かるだろう?」
「前王には王子がお生まれにならなかったので、外から王宮に入られたお血筋のことですか」
「ヴェネトの方なんだよね?」
ラファエルがそう聞くと、どこまで彼が知らないのか、ロシェルは理解したようだ。
確かに、今まではラファエルも、ヴェネト王のことをとやかく詮索する気にはならなかったのだろう。だから今は基本的な情報を知っておきたいというのは当然だった。
「ヴェネトの有力貴族の方です」
「六大貴族の一つかい?」
「いえ。陛下の実家がその権威を楯に政に物を言うことは好ましくないと、六大貴族……【青のスクオーラ】に入ることは、ご実家が辞退なさいました。陛下のそのような助言があったと聞いていますが」
ラファエルは少し考えた。
ロシェルにどこまで手の内を話すかと考えたが、泣いていたネーリの涙を思い出した。
ヴェネトから運命はとっくに解き放たれているのに、愛情でそこに留まっている、彼の綺麗な涙を。
王妃はロシェルと協力し、尽力せよと命じた。
ならば、今は無闇に疑わず、そうするべきだ。
「……答えたくないのなら答えなくていい。
妃殿下から、【シビュラの塔】には扉を開く者が存在すると聞いた。
陛下がその方だったのか、と疑問に思っただけなんだ」
ロシェルは腕を組み直した。
「貴方の疑問は尤もだと思います。
ヴェネトにとって、今、最も重要な存在ですからね。
ですが、私はお答えしない方がいいでしょう。
しかし妃殿下から貴方に、近いうちお話はあると思いますよ。
妃殿下は貴方をお側で使おうとなさっています。
探すものも、望むものも、敵も、
つまりは貴方には話すはず」
敵。
はっきりとロシェルが言った。
その『敵』がもし、自分の愛する者と同じ名前だったら、王妃は元よりこの男とも斬り合うことになる。
ネーリの為ならラファエルは剣を抜いて戦う覚悟はあるが、斬りかかる相手としては確かに、このロシェルという男は、まだ謎めいていて不気味な所がある。
敵の正体は冷静に見極めなければ、鋭い剣先にも意味は無い。
「それもそうだ。君がここで私に話すことも、私が君に問うことも、
それこそ無粋というものだね。私の問いは忘れてくれ」
承知しました、というようにロシェルが頷く。
前回はここまでしか来なかった。
森を抜け、なだらかに下って行く。
【シビュラの塔】のある島へと、一筋の道が続いている。
不思議な地形だ。
塔自身も、常に霧に覆われているのも奇妙だった。
周囲を島に囲まれた、外界から侵入を阻む、天然の要塞のような地形。
そこに、この天魔の塔は立っている。
気の遠くなるような古代の時代から……。
「妃殿下は前王である父上を愛しておられたかい?」
初めて見る景色を眺めながら、ラファエルはごく自然に聞いていた。
深く愛しておられました、とその言葉だけが返った。
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