Angelo di Selse ep.3
頼りない灯火だったが、男が酷く端整な顔をしている事を証明するには十分な明るさだった。突如地下室に現れた男に吃驚していたジョージだったが、すぐに相手が見覚えのある人間だと気づいた。
「貴方は!!!ステュアート公爵!!!」
小鹿さながらに覚束ない脚を必死に立たせたジョージが、深々と頭を下げると相手の男は被っていた帽子を軽く持ち上げて会釈した。ジョージが驚くのも無理はない、ステュアート公爵と呼ばれた相手の男は、ロンドン市内で不動産王として名を轟かせているジェームズ・ステュアート公爵だったからだ。
王族に比較的近い貴族の家柄でありながら、決して驕らず誰にでも分け隔てなく優しいと噂されている人間なのだ。ステュアート公爵は医師の免許も所有している程に博識な人物で、医療を受けられない貧しい子供の治療だけを無償で施しているという話も有名だった。
それだけでなく、スコットランドヤードの捜査にこれまでも快く協力してくれた恩人だった。そんな男の登場に、これっぽっちも表情や態度を変えないアレクにジョージは更に驚いた。
「トンプソン伯爵をイタリアで上演されるオペラに招待した甲斐はあったかな?」
「ええ、ご覧の通り」
「そのようだね。彼等は皆、トンプソン伯爵によってカストラートになる為の処置をされた子かな?」
「恐らく。スコットランドヤードに応援を要請して大々的に捜査しないと詳細は分かりかねるけれど、間違いないかと」
「そうか。トンプソン伯爵には正当な罰が下る事を祈っているよ」
「それより、トンプソン伯爵から彼の情報は?」
「ああ、ちゃんと吐いてくれたよ。この屋敷の最上階の一番奥の部屋。そこにクイン・トンプソンは幽閉されているみたいだ。まだ僕は彼に会っていない、アレク、君の目で確かめて来ると良いよ。ここは僕が引き受けよう」
「ありがとうございます、お兄様」
大きく頷いて走り出すアレクの段々と小さくなる背中に、頭の中が混乱し切っているジョージは口をあんぐりと開けて唖然とした。「お兄様」間違いなくアレクは今、ステュアート公爵に対してそう言ったのだ。
「ジョージ君、だったかな?新米警部だと聴いているよ、うちの弟が振り回したみたいだね、ごめんね」
「弟!?!?アレクサンダー警部は、ステュアート公爵の弟さんなのですか?」
「困った弟だよ、愛の為に家を捨てて、自らの地位を隠しながらスコットランドヤードに勤めているんだからね」
「ああそうだ、この事は他のスコットランドヤードの人間には秘密だよ」そう付け加えて唇の前で人差し指だけを立てたステュアート公爵に、ジョージはたじたじになりながらもコクコクと首を縦に振った。
「君にだけ特別に、アレクがスコットランドヤードに在籍している理由を教えるね」地下室に遅れて現れた執事に美少年達に毛布を提供するようにと指示を出した後、ステュアート公爵はミルク風呂に視線を落として表情を強張らせた。
嗚呼、こうして見るとアレクサンダー警部と実によく似ている。ジョージは美しい姿のステュアート公爵を眺めながらそう思った。
「トンプソン伯爵は三歳の時に観劇したオペラに心を奪われて以来、美しいオペラの世界に心酔していたんだ。特に彼の心が囚われた物がカストラートの歌声。まだ成熟していない少年だけが有する歌声に魂を売ったトンプソン伯爵は、ロンドン市内の歌の上手な美少年を次々に平然と誘拐した。それだけでは飽き足らず、自らが孤児院を支援しそこに集まる美少年までも誘拐した。目的はただ一つ。彼がカストラートのみで構成されるオペラを創りたかったからなんだ」
「……っっ」
「なんて傲慢な人間なんだと思ったかい?けれどね、この国の貴族なんて大概はそんな物だよ。暇を持て余すが故に残虐な思考を巡らせる人間が生み出されたんだろうね。実にこの国の貴族階級は腐敗し切っているよ」
ステュアート公爵の美しい横顔からは哀愁と憤りが溢れていた。それを前にしたジョージは何と声を掛けて良いのか分からず口を噤む事しかできなかった。
「僕の家は昔からトンプソン家との交流があってね、特に僕の弟のアレクとトンプソン伯爵の弟のクインは仲良しだったんだ。二人の仲の良さが友人の域を超えている事に僕は気づいていたけれど二人が幸せなら応援しようと決めていたんだ。クイン・トンプソンは誰もが息を呑むまでの美少年で、聴いた者の心を奪う歌声の持ち主。それが全ての悪夢の始まりだったんだ」
「……」
「トンプソン伯爵は、弟のクイン・トンプソンをカストラートにした。そして彼を独占する為にクイン・トンプソンは病死したと世間に発表し、この屋敷に幽閉したんだ」
「そんなまさか」
「ジョージ君は、この現場を見ても僕の話が嘘だと思う?」
「……いいえ、思いません」
「アレクは愛するクインの訃報にかなり心を痛めて、何年も塞ぎ込んでいたんだ。絶対にクインは生きていると呟くアレクは亡霊にすら見えたけれど、ある日ステュアート家を尋ねてきたメイドが僕達に教えてくれたんだよ。クイン・トンプソンは生きているってね」
ステュアート公爵の話の続きは以下の通りだ。
そのメイドはトンプソン家に雇われたメイドだった。しかし現在の当主であるトンプソン伯爵の両親が不慮の事故で死亡したのを機に解雇されたのだった。彼女はクイン・トンプソンをカストラートにするべく行われた恐ろしい処置を目撃した唯一の証言者だった。
それを知ったトンプソン伯爵が彼女の首を容赦なく切った。もし情報を漏洩させればすぐに本物の首を切ってやるという脅し文句を付けられて。
ep.3 End
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