Angelo di Selse ep.2


「セルセはオペラの題名だよ。ジョージ君、オペラに関する知識はある?」

「ないです。オペラなんて貴族しか観劇する機会のない物ですし、僕等みたいな平民には程遠い世界なので」

「そっか。それじゃあカストラートという存在は知っているかい?」

「いいえ、カストラートって何ですか?」

「少年期の美しい歌声は替えが効かない。少年の麗しい歌声を維持し続ける為に、イタリアで普及したのがカストラートなんだよ」

「……」



 嫌悪感を表情に滲ませたまま、バスタブの輪郭を手で撫でたアレクは白色の液体へと視線を落とした。透明な水が張られていれば、誰もが振り向いて二度見する程に端整な容姿をしているアレクの顔が水面に映るはずなのだが、生憎、白く濁っているそこにアレクの顔が浮かぶ事はない。


 「そのカストラートという存在を作る為には、これが必要なんだ」そう言葉を続けたアレクに、ジョージもバスタブへと双眸を投げた。やはり彼はまだ何も理解できないらしく、依然としてそれはそれは不思議そうに首を傾げている。



「少年期の歌声を残す為に声変わり前の少年をミルク風呂に浸からせて、アヘンを嗅がせ感覚が麻痺している最中に去勢手術を行い、その手術に成功した者のみがカストラートになれる。カストラートという存在はそういう存在なんだよ」

「去勢…手術ですか?」

「そう。手術に失敗して命を落とす者や、感染症になり亡くなる者。カストラートにする為に歌が上手かどうかも分からない少年が犠牲になった例も数え切れないんだよ」



 近隣の国で現実に行われている末恐ろしい話に、想像しただけでジョージは気分が悪くなった。それと同時に、どうしてこんなにもアレクがカストラートに詳しいのかジョージは気になった。



「少年期に去勢手術をすると男性ホルモンの分泌が止まり、男の成長に付いて回る声変わりが回避できるんだ。成長ホルモンは分泌され続けるから背は大きくなるし、肺活量も大きくなる。つまりカストラートになった者は、少年期の美しい声を持ったまま大人になれるという訳なんだ」

「……」

「但し、男性としての機能は全て失う」

「それって…」

「ジョージ君が想像している通りだよ。生殖機能は喪失するから子孫を永遠に残せない。カストラートという存在はある種、男でも女でもない中性的な存在なんだ」



 思い切り頭を殴られた様な衝撃にジョージは襲われた。そんな非人道的行為がイタリアでは当たり前に行われている事がにわかには信じられなかった。否、信じたくなかったのだ。


 一体何人の少年が犠牲になったのだろうか。そう考えると、哀しみや怒りすら覚える。大人の身勝手な都合に振り回されて少年が犠牲になる許し難い話だ。それにしても、どうして今アレクサンダー警部はこのカストラートの物語を披露したのだろうか。


 冷や汗をハンカチーフで拭いながら暗闇の空間を彷徨っていたジョージの視線は、アレクの手が触れている白色の液体が張られたバスタブに再び留まった。それから数秒後、恐ろしいシナリオがジョージの頭を駆け巡った。



「ちょっと待って下さいアレクさん」

「どうしたの?」

「まさか…まさか…そのバスタブって……床に散乱している道具って…まさにそのカストラートを生み出した道具なのですか?」



 言葉を口にする事すら全く恐かった。スコットランドヤードの中でも腕利きの警部であると名高いアレクが何の理由もなくカストラートの話をするなんて有り得ない。そのアレクの手が置かれているバスタブに注がれた白い液体。カストラートの話を聴いた今、ジョージの目にはそれがミルク風呂に見えてならなかった。


 こうしてスコットランドヤードの人間が捜査に訪れているのに、床に横臥したり壁に凭れたまま暗闇へ虚ろな双眸を向けたままの美少年達の奇怪な姿。アヘンを注入する為に使われると噂では聴いた経験のある「プラバ」という名の注射器と思しき道具も、冷たい床に幾多にも散乱していた。



 ジョージの問い掛けに対し、アレクは口を開かぬまま顔を更に険しくさせた。それは無言の肯定であった。



「そんな…そんな…我が英国でこんな事が行われているだなんて…」



 すっかり足が竦み地面に尻餅をついたジョージは、カストラートを生み出す為に造られたこの空間に目を見開いた。連続美少年誘拐事件に着任する様に命じられた際は何て地味で華のない事件なんだと思っていたジョージだったが、これは切り裂きジャックなんかよりもよっぽどショッキングな事件だと胸の内で声を上げた。


 さっきアレクがコートを掛けてやった少年も、あの赤毛の綺麗な少年も、あの緑色の瞳が印象的な少年も、彼も、彼も、彼も、彼も……皆カストラートになる為だけに去勢手術をさせられた子なのだろうか。否、そうに違いあるまい。どの子も皆、精神を患っている様に見える。



「この邸宅の主、トンプソン伯爵はオペラの悪魔に魂を盗られたと周りから囁かれる程に幼い頃からオペラにご執心でね、そのオペラへの情熱は、こうして自らの邸宅の地下にこんな悍ましい空間を造るまでに異常だったんだよ」

「し、しかし、トンプソン伯爵はロンドン市内の孤児院へ資金援助を惜しみなくする数少ない平民にも優しい貴族なのではないのですか?」

「ジョージ君、君はこの事件現場を目の当たりにしてもまだそんな妄言を吐くつもりかい?」



 普段から穏やかで物腰が柔らかく英国紳士を具現化した様なアレクの冷徹な声に、ジョージは本能的に恐怖を覚えた。そしてその一方で、何故アレクがここまでトンプソン伯爵に詳しいのか疑問に思った。


 そもそも、このトンプソン伯爵の邸宅にこうして捜査できている時点からジョージは不思議だったのだ。伯爵が犯人だったとして、こんな凄惨な現場を易々とスコットランドヤードに提供するはずがない。


 しかし実際、アレクもジョージもこうして踏み入る事ができている。だからジョージはさっき、どんな魔法を使ったのだとアレクに問うていたのだ。



 寒い冬だというのに、ジョージの背中にはさっきから冷たい汗が伝っている。この事件の捜査に自ら買って出たせいでアレクはスコットランドヤード内からは変人扱いを受けていた。世の中が切り裂きジャックで騒がれていて、新聞の一面を飾る毎日だというのに、アレクはそれに微塵も興味や関心を寄せる事なく地道にこの事件を追っていたのだ。


 だからなのだろうか、事件現場に立っているにも関わらず、アレクは毅然とした態度で恐怖心をまるで見せない。



「トンプソン伯爵は異常なんだよ。彼がどうして孤児院の援助をしているのか、その理由も至って単純で明白じゃないか」

「そ、その理由って何なんですか」



 喉が針で刺されているみたいな痛みを覚える中、ジョージが問い掛けた。



「歌の上手な美少年を見つけやすくする為。それだけだよ」



 口角だけを上げてアレクが答えた。


 暗闇に包まれた地下室には、沈黙が暫し流れた。確かにアレクの発言は筋が通っていた。資金的援助をし続けていれば孤児院には次から次へと家を失ったり親を失った子供が集まってくる。ティータイムを楽しみながら待っているだけで、トンプソン伯爵の獲物は自ら罠に掛かっていたという訳だ。



「トンプソン伯爵は狂気に冒されているんだ。僕の大切なクイン…自らの麗しい弟すらも手に掛けるくらいに彼は狂ってしまっているんだよ」

「ちょっと待って下さい、クインって誰なのですか…「やぁ、アレク。現場は抑えられたようだね」」



 第三者の声が、アレクとジョージの会話を引き裂いた。絡まっていた二人の視線が解け、声のした方へと滑る。暗闇の地下室に灯る蝋燭ろうそくの火を手にしているその男を見つけるのにそう時間は掛からなかった。



ep.2 End


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