第4話
ダンスホールに面した庭を歩いていると、端までやって来た。
海が広がっている。右手は市街だ。
弓なりに浅瀬を北へ伸ばす、ヴェネトの地形。
ずっと遠くの正面当たりが、干潟の家だろうか。
いつも、ここを、外から描いて来た。
何枚も何枚も。
ネーリは城を出たことを後悔していない。
ここに残れば出来たかもしれない豪勢な王宮の暮らしに想いを馳せるよりも、ヴェネトを歩き回り自由に描き続けた十年が無かったのかと思うことの方がずっと怖く、恐ろしい。
左手の森の向こう……今日も霧を纏って頂上が見通せない、天魔の塔がそびえ立っている。
【シビュラの塔】さえ火を噴かなかったら、ネーリは幸せだったのだ。
孤独でも、友人がいて、絵があり、ヴェネトが穏やかな姿を見せてくれれば。
(でも、あの塔が動かなければ、きっとフレディがこの地に来ることもなかった)
ラファエルやイアンも同じだ。国の輝かしい守護職に着く彼らと、ヴェネトの城下町でささやかに絵を描く自分などと、彼らは決して出会わない運命だっただろう。
運命の悪い側面だけ見てはいけない。
泥の中から生まれる花のように、突然現れる喜びや幸せもきっとあるから。
フェルディナントとの出会いを、ネーリは感謝していた。
もうすぐ完成するあの森の絵も、彼と出会うことが無かったら生み出されなかった絵だ。
(でも……)
悪夢に魘されるフェルディナントの姿を思い出す。
彼も、彼の家族も、何の罪もないのにある時、一瞬で未来を奪われた。
(そういうことで、僕は、【シビュラの塔】の存在を肯定したくない。あれが殺戮をしなかったら、フレディがこの地を訪れず、僕たちは会えなかったかもしれない。
でも、もしそうだとしたら、会えなくてもいいよ。
彼が大切な家族と国を、あんな形で失わないで済むなら、僕たちは出会えない運命だったとしても、それでいい)
組み合わせた指先に力を籠める。
(だから、塔の現状を、僕はどうしても確かめに行きたいんだ)
「ジィナイース」
閉じていた瞳を開き、振り返る。ラファエルがそこに立っていた。
駆けて来たらしく、ネーリが振り返ると呼びかけを間違えたことに気付き、ハッとした。
「ごめん……ネーリ」
ネーリは小さく笑った。
「どうしたの、ラファエル」
「君の姿が見えなくなったから、どうしたのかなって思って……」
ラファエルは側までやって来る。あたりに人気はない。
「……ネーリ……。塔へ行くつもりか?」
「行くなとは、言わないんだね」
ネーリは【シビュラの塔】の影を見遣った。
幼いころ、光の花に導かれて、苦労もせずあの塔の前に辿り着いた。
今はこうして目に見える位置にいるのに近づくことさえ出来ない。
近づくなら、命がけだ。実際、自分はもう一度命を失いかけた。
「……言っていいなら、……言うよ」
「ラファエル。君ならきっと、時が来れば――きっと誰も傷つけず、あの塔の前に行けるんだと思う」
まるで予言のように、彼はそう言った。ラファエルは息を飲む。
あの時もラファエルは王妃と塔へと向かっていた。彼ならきっと、本当にあの地へ、そのうち自然と導かれるような気がネーリはした。その時を自分も待てばいいのかもしれない。そうすれば扉が今開いてるか、開いてないかくらいは、分かると思う。
何度もそのことを考えた。
確かにそれは、以前は一つの目的だったと。しかし扉が開いていればその先どうするかをすぐ考えなければならないし、閉じていたから全てが大丈夫というわけではない。
扉をすぐにでも開ける者がいたとしたら、今閉じていたって意味はない。
今や扉を確認することは一つの通過点に過ぎない。
ネーリが引っ掛かっているのはあの『声』だ。
自分を呼び続けていた、あの声。
考えないようにしていたけど、自分を欺くことは出来ない。あの声は確かに【ジィナイース】と自分を呼んでいた。
だから、ラファエルに頼むことに意味があるのか分からない。
自分自身が行かなくてはならないような気が、強くするのだ。
驕っているわけではなく、あの声は、幼い頃は自分を呼んだが、いつしか呼ばなくなった。その理由が、あの巨大な扉の前に立てば、分かるような気がするのだ。
未来を考えれば考えるほど、【シビュラの塔】は、あれが以前のように意味を成さない、建造物になった確証を得るか、それか、崩れ落ちて破壊されるまでにならないと、穏やかに暮らす未来なんて、思い描けなくなる。
「君を頼って、その時を待っていれば、分かることがあるんだと思う。でも、それって僕は何もしてない。フレディも、ラファエルも、イアンもみんな【シビュラの塔】が動いた時、何かをしようとこの地に集った。僕は絵を描いて、守られるだけで……それって間違ってないかな……」
「間違ってないよ。ネーリ。俺も、フェルディナントもイアンも国への義務がある。騎士としての務め、軍人なんだ。君はそうじゃない。君が戦わなきゃいけない理由はないんだ。 君は城での生活も捨てて、生きてきた。
ヴェネトの人々と、一緒に暮らして来た、普通の市民だ。
彼らには罪はない。【シビュラの塔】を何とかしなきゃいけない義務もない。あれは王宮の人間が勝手に撃ったものだ。市民には止められなかった類いのものだから、それで彼らが過酷な運命を背負うことはない。これからも幸せに暮らしていていいんだ」
そうは思えない。
多分、ラファエルの言ってることは事実だし、間違いじゃないと思う。
それでもそうは、思えないのだ。
少なくとも自分が、何もしないでいい存在だと、どうしてもネーリは思えない。
「ネーリ……俺を見て」
ネーリと視線が交わらないことが不安になり、仮面を外してネーリのも取り、見つめ合った。
「ユリウスの血を引いているからといって、お前がヴェネトの先頭で戦わなきゃいけないことなんか絶対に無いんだ」
ネーリは息を飲んだ。
そう、どこかでずっと思ってたこと。
自分はあの人の血を引くから、何かをしなければいけないと思っていた。
別に誰がそう言うわけでもないのに、たった一人で思ってた。
何かをしなければならない、と。
『お父様はお前には何一つ残さなかった』
多分、戦うことが……。
ヴェネトの為に戦うことが、たった一つ、ユリウスとの接点だと思っていたのだ。
唯一それだけが、自分とあの人を繋ぎ続けてくれると。
それすら出来ない自分になったら、本当に何の繋がりもなくなってしまう。
(でも、おじいちゃんはそれを望んだのかな)
最初から、全ての繋がりを無くしてもいいと思って。
(僕にはこれ以上何も関わらないで欲しいと思ったの?)
例え自分の平穏な人生を願って言ってくれたことでも、ネーリには、祖父にお前も一緒に戦ってくれと言われるより、お前はもう何もしなくていいと言われる方が、悲しかった。
本当に、見放されたような気がする。
「ネーリ」
ネーリ右目から小さな涙が零れて、ラファエルは狼狽えた。
「……分かってる……」
結局、あれほど自分を可愛がってくれた祖父が、自分に何も残さず、ある日消えてしまったことを、自分は認めたくないのかもしれないと思った。それがただ一つの事実だとしても、そんなわけないと意固地になっているだけで。
何かヴェネトに、亡き祖父の想いが残っている気がして、誰もそれを受け取らないなら、自分が拾い上げようと思った。
それこそが、思い上がりに過ぎないのかもしれない。
自分がこの地を去り、二度とヴェネトの地を踏まなければ――王妃セルピナの怒りは鎮まり、【シビュラの塔】も鎮まり、二度と火を噴かないのかもしれない。
(僕がここにいるから、ヴェネトもフレディの母国も)
慌てて抱きしめるようにしてきたラファエルの腕の中で、彼は呟いた。
「僕も昔みたいに、何もかも幸せに生きて行きたい。【シビュラの塔】の生きてる世界で、またあれが、誰かを殺すかもしれない不安の中で、君や、フレディに守ってもらいながら、笑いながら……――、楽しい未来を……」
反対側の目からも涙が零れて、ネーリは目を強く瞑った。
「思い描きたいよ。未来を」
そんなことが本当に出来るなら。
「ネーリ」
ラファエルは一瞬、涙が込み上げた。彼が泣いているから、自分は泣いてはダメだと思って堪えたけど、ネーリの涙はそれほどラファエルの心を抉った。幼い頃、一度も彼の泣き顔を見なかった。泣いているのはいつも自分の方で、ネーリは温かく笑いかけてくれた。
それなのにヴェネトに来てから、これで彼が泣いているのを見るのは二度目だ。
ネーリが、今、自分の明るい未来が見通せないくらい苦しんでいることを、自分は気づいてやれていなかった。
(俺はただ嬉しくて)
彼にここで会えただけで、もう何もかも大丈夫だと安心しきった。
いつかフランスに一緒に帰って、仲良く暮らす未来さえ、ラファエルは見通せていたから、だから何の不安もなかった。
彼を不安の中に一人きりにしていたことを、心の底から悔いた。
同時に、ヴェネト王宮から何の恩恵も受けていない、それどころか王妃から存在を、排撃されてるにもかかわらず、ヴェネトの為に何かをしたいと願ってる、彼の心の強さと優しさを、改めて尊敬した。こういう人だったから、ラファエルは十年離れても彼を想い続け、この地に会いに来たことを思い出す。
彼との出会いでラファエルは変われた。
未来を想うことも楽しいことを知った。
でもそうあることだけを願ったわけじゃない。
ラファエルの願いはそんな風に思わせてくれた真実の友と、ずっとこの先も一緒に歩んでいくことだった。
その、ただ一つなのだ。
「ジィナイース。」
誰にも聞こえない小さな声で、ラファエルは呼んだ。
ユリウスはよく言ったものだ。
この先ジィナイースに何かあったら、僕が守るとラファエルが言うと、お前になんか守られる必要のない強い子だおととい来やがれと、そんな風に笑われた。
彼はジィナイースが、自分の後を継ぐ者として、何の迷いもないようだった。今より幼いジィナイースにも、彼は何かを強く見い出していたのだ。
あの偉大な男が、何も彼に残さず死んだということが、ラファエルは信じれない。今でも信じていない。きっとジィナイースのことを、ユリウス最後の最後まで信じて、愛し続けて、幸せになって欲しいと思い続けたはずだと、そう強く思う。
今もし、あの男がここにいたら、手に届くほど側にいるのにジィナイースを泣かせている自分を見て、また鼻で嗤うだろう。
お前などに守れないと、あれほど言っただろう、と。
「分かった。君の気持ちは分かったから。泣かないで」
顔を覗き込む。
「【シビュラの塔】を今から見て来る。まだ夜会は始まったばかりだ。行って帰って来る時間は十分あるよ」
ネーリの瞳が驚いて、ラファエルを見上げている。彼は微笑いかけた。
ネーリが戦うことを望むなら、自分も共に戦うことを願うだけだ。
彼の剣は、国でも王でもなく、ただ一人を守るために備わったものだから。
ネーリが喜んでフランスに戻り、そこで絵を描いてくれるならラファエルも平穏を望んだが、彼が戦わなければならないと思っているのなら、自分もそう、思おう。
「大丈夫。忍び込んだりしない。王妃に頼んで、見て来る。彼女は怒ったりはしないよ。別に見に行ってもいいと、言われたこともあるんだ。でも、俺はその時は、今はそうする必要はないと思ってしまったから、行かなかった。
ヴェネトに来て、たちまち王妃に気に入られて、王宮に居場所が出来た。
君にも会えて、多分……幸せすぎたんだな。
君がそんなに苦しんでるのに、暢気になり過ぎた。
そんな俺が『信じて』なんて言ったって、確かに言葉に力がない」
ネーリの目元をハンカチで丁寧に拭いてやってから、仮面をつけ直してやる。
「すぐに見て戻るから、心配しないで待ってて。踊る気にならないなら、桟敷で眠っていてもいい。王宮には俺の私室もあるから、ゆっくり過ごしたいならアデライードに言ってくれ。部屋に案内させる。
彼女には、城の人間を君に気安く近づけないようにとちゃんと言ってあるから、心配しないでいいし、僕の私室に探りに入る人なんかいないから大丈夫だ。そんなことしたら、その人は王妃様に怒られちゃうからね」
自分の仮面もつけ直し、ラファエルは仮面の下で片目を瞑ってみせた。
「ラファエル」
歩き出した彼を、引き止めるようにネーリが足を止めた。
しかし、ラファエルが優しく腕を引いて、また歩き出す。
「心配しないで。俺ももう、何もかも無力なわけじゃない。
力を示すよ。そのかわり俺が【シビュラの塔】の前まで行き、見て来ることが出来たら、信じて欲しいんだ。一緒に力を合わせて、出来ることもあるって。一人で戦わないって約束して。この先も、俺は君の側で、ずっと一緒に戦うから」
「本気で、言ってるの?」
「勿論。大丈夫。途中までは前にも行ったことがある。だけど王妃が一緒だったから、ちょっと格好つけたんだ。ヴェネトの聖域なら遠慮しますってね。だから見ようと思えば見えた。王妃は俺を信じて、見て来ていいよと必ず言ってくれるはずだ」
確かに、王妃と一緒にいるラファエルを森で見た。
彼は嘘は言っていない。無理も言ってないのだろう。
「ラファエル……」
「昔は君がこうやって、どこにも行けなかった俺の手を引いて、色んな所に連れ出してくれた。今は、俺が君の手を引けるようになった」
嬉しいよ。
彼は優しく笑った。
「ラファエル」
庭先に、アデライードの姿があった。少し心配そうに佇んで、二人を待っている。
「……扉を……」
ラファエルの手をネーリは握り締めた。
「塔の扉が閉じているか、開いているかが知りたい」
一瞬、覗き込むように必死な光で、自分を見上げて来たネーリの瞳を見下ろしてから、ラファエルは微笑んだ。
「分かった。ちゃんと見て来るよ」
ネーリの手の甲に軽く口づけて、彼を待っていたアデライードに預ける。
「アデライード。少し僕は出て来る。ネーリを頼むよ。桟敷でゆっくりしてもいいし、疲れたら、王宮にある僕の私室を使ってもいい」
ラファエルが告げたのはそれだけだったが、アデライードは全てを理解したようだった。
「かしこまりました」
頷いて、ラファエルはダンスホールに戻った。女性たちから熱い視線が注がれたが、優しい笑みを浮かべたまま、彼はホールを通り過ぎ、外へ出て行った。切なげな溜息がホールに零れる。
「ネーリ様、大丈夫ですか? 一度、桟敷へ戻りましょう」
優しく、アデライードが声を掛けてくれた。
【シビュラの塔】が三国を滅ぼした後、誰もその場所へ行ったことが無い。
そこはどうなっているのか。
(ラファエル)
彼は王妃は許可すると言い切った。
そう思えるだけの確信が彼にはあるのだ。
幼い頃、水の幻視と共に自分の前に現れた、あの美しい
彼の覚悟を聞いた。
彼がもし本当に【シビュラの塔】を見て来れたなら……。
希望を打ち砕くように、王妃セルピナの憎しみの籠った眼差しを思い出す。
どうかあの目が、ラファエルに向きませんように。
ネーリは強く、祈った。
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