第3話

「……あいつ最初からシャルタナが怪しいって確信があったんだな」

 今夜の獲物だってさ。イアンも時々ああいう言葉遣いをする。だから軍人は好きじゃない。

 向こうの桟敷に目をやると、丁度遠目にレイファ・シャルタナと視線が合った。

 優雅な様子で、いつものように会釈をされたので、ラファエルも優雅に挨拶を返した。

 あの人たちも嫌な奴に目を付けられちゃったねえ。

 そうは思ったが、ラファエルはまだ、シャルタナ家への疑心はそれほど深くはない。そういう顔を、彼らが見せていないだけかもしれないが。

 妹のレイファの方は、高い金で好みの人間を雇っている。それは別に周知の事実だ。

 だが彼女はそういう雇った人間にも、すこぶる評判はいい。

 大切にしてもらっている、と言う人間が多く、シャルタナ家で働けることを羨ましがる人間はたくさんいる。

 彼らは名誉も名声もある。

 豊かな暮らしをしていて、これぞと思った人間がいれば、何も無理に攫って来る必要はないと思うのだ。相応の金を払い、相手を納得させ、同意を得て自らの側で働かせることは、彼らにとって簡単なことだ。

 だけど、とラファエルは思う。


(確かに……金で全ては思い通りにはいかない。特にジィナイースは、自分で描きたい絵を描く画家だ。金を積まれても描きたくない依頼は、彼は断わるだろう。そうなって来ると、どうにかして手に入れたいと、画策することもあるのだろうか。あのリストに載っている人間たちは、買収に応じないような相手なのかもしれない)


 ラファエルにはよく分からない世界だ。

 気に入った相手が嫌がればそこまでの話だ。

 好かれなかった自分に力が無かったと諦めるしかない。

 現在ラファエルにはあまりそういったことは起きなかったけど、子供の頃はそういうことは多かったから、分かる。諦めるということだって、場合によっては必要だ。

 しかし、ドラクマは温和な性格の人物で、彼が意のままにならない人間を、ならず者のような警邏隊を使ってどうにかしようとしている図が、今のラファエルには思いつかなかった。

 だが、人間の欲というものは、確かに底知れない。

 彼にも表に出さない顔があっても、別におかしくはない。

 しかしこの件にはネーリ・バルネチアの名前があった。

 これはラファエルとて、無関心でいるつもりはない。

(僕なら別に彼らに声を掛けたって全然不自然じゃないからなあ。一度私邸を訪ねてみようかな。美術品が見たいとか言えば絶対快く見せてくれると思うし)

 そう考えながら、ふと、もし本当にあの一族が、何かネーリに害を成そうとしているとしたら、自分はどうしたらいいのだろうかと思った。

 勿論彼を庇護し、守る。そんなことは当たり前だ。ラファエルが不安なのは、心の方である。


(ジィナイースをもし、殺したり傷つけようと企む奴がいたとしたら……)


 多分、憎むと思う。殺したいとさえ願うかもしれない。

 ラファエルは人に対して、殺したいと思うほどの憎しみを抱いたことはまだない。

 王妃セルピナ・ビューレイの顔が過った。

 彼女がネーリにどんな言葉をかけ、どんな脅しを掛けたのか、まだ全ては分かっていない。だがローマの城に幽閉する以外に、道を提示しなかったとするなら、一切の生活の援助をしないという意味でも、死んでも構わないという意図がそこにはあった。

 ジィナイースはユリウスと死に別れた時、まだ幼かったのだ。

 教会の助けがあったとはいえ、ヴェネトを一人で回ったりなどして、危険が無かったわけではない。


(俺はジィナイースを死なせてもいいと思った女と手を組んだ)


 ネーリは今は踊る気は無いようで、窓辺の隅に寄り掛かって、佇んでいる。

 だが、踊る気の無い様子の【月の女神セレネ】の仮装をした彼に、周囲から視線が注がれていた。

 男たちも、女たちも、彼を気にしているのが分かる。

 彼は昔から、どこにいても人の視線を惹き付ける、そういう所があった。

 ネーリは彼らには視線をやらなかった。無視をしているのではない。何かを考えているのだ。憂うような雰囲気が、伝わってくる。心がここに無いのだ。

(なにもかも、話してほしい)

 ネーリは幼い頃、ラファエルの手を取ってどこへでも連れて行ってくれた。

 だからラファエルもそうするつもりだ。ネーリが望めば、どこへだって一緒に行く。

 海の上は嫌いだし船も苦手だけど、ネーリが遠くに行きたいというのなら、遠い遠い世界の果てまでだって、船で行く覚悟だってちゃんとある。

(君が話してくれれば)

 一緒に来てほしいと願ってくれれば、どこへだって行くのに。

 音楽が終わった。

 アデライードが男性と別れ、桟敷の方を見上げて小さく手を振った。

 笑顔でそれに答え、ふと視線を戻すと、数秒前までそこにいたネーリの姿が無い。


「……ジィナイース?」


 ラファエルは階下を見回した。彼がいればすぐ分かる。

ダンスホールから、消えた。

 ラファエルはすぐに桟敷を飛び出していた。


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