もしかしてそれ、ペットショプで買った?

兵馬俑

第1話

 妙子が朝食の支度をしていると、ケンジがやってきた。オスのアメリカンショートヘアである。夫はマンチカンを希望したが、猫に三十万も払えるかと却下した。ケンジは地元のホームセンターで七万円で買った。生後八ヶ月だった。

「猫がより好みしてどうするの。ほら、食べなさい」

 器に餌を入れても食べようとしない。妙子の足にスリスリし、シーバをせがむ。まったく、なんて贅沢な猫なのか。

「わかった、わかった、ちょっと待ちなさい」

 仕方なくカツオ節をトッピングすると、ケンジはしぶしぶ口をつけた。

 夫は気まぐれで高い餌を買ってくる。ケンジの世話をしているのは妙子なのに、ケンジは夫に懐いている。

 かつお節を食べると、ケンジはさっさとトイレに行ってしまった。当てつけなのか、砂をかく音が激しかった。


 そろそろ良いだろう。妙子はオーブンからアルミに包んださつまいもを取り出した。二つに割り、かけらを千切ってケンジにやる。今朝、情報番組内で流れた「さつまいも大好き猫ちゃん」という視聴者投稿動画を見て、ケンジにもやってみようと思い立ったのだ。

 まあ、そんなことだろうと思ったが、ケンジは匂いを嗅いだだけで行ってしまった。

「あんたはグルメだものね」

 妙子はさつまいもにかじり付いた。美味しくなかった。ケンジが食べるわけがない。

 もう一つを取り出し、かじりつくと、こちらは美味しかった。

 妙子はケンジを探した。ケンジは娘の部屋のベッドにいた。パリパリバー柄の背中を丸め、毛布をふみふみしている。

「ケンジ!」

 妙子はケンジの正面に回ると、平たい顔にさつまいもを突き付けた。ケンジは前足を休めることなく、プイッとそっぽを向く。

「こっちは美味しいわよ」

 ケンジは無心でふみふみを続ける。

「ああ、そう。あんたはシーバがいいものね」


「サッカー台の前に置いてあるアレ、なんなんですか」

 出勤すると、学生バイトの中川朱莉が店長に文句を言っていた。サッカー台とは、購入した商品を袋に詰めるための台だ。妙子はスーパーで働いている。

「萩尾さん、どう思います?」中川が妙子に聞く。「赤堀さん、勝手に募金箱を設置したんですよ」

 赤堀とは、最近入った四十代のパート従業員だ。顔は美人の部類に入るが、いかんせんベリーショートが個性的すぎる。

「募金箱?」

「可哀想な動物の写真と一緒に、『ストップ殺処分』って。別に、そういう活動は立派だと思いますよ。でもあんな可哀想な写真、私……目に入れたくないっていうか……」

「おはようございます」

 ちょうど本人が現れ、中川は口をつぐんだ。

「赤堀さん、申し訳ないんだけど、中川さんと萩尾さんが募金箱はやめた方が良いって言うから、あれ、撤去しても良いかな?」

 店長に勝手に名前を出され、妙子はギョッとした。中川もなんなのこの人……と店長を睨む。

「萩尾さん、理由を教えてくれるかな?」

 赤堀が妙子に問う。中川はともかく、妙子は賛成も反対もしていない。狼狽えたものの、赤堀の自信にあふれた眼差しを見ていたら、無性に腹が立ってきた。

「……だって、具体的に何に使うお金なのかわからないし」

「ああ、それは保護活動費。ペットシェルターの維持にはお金がかかるの。それでね」

 赤堀はカバンからチラシを取り出した。店長が飛びつく。

「今みたいな意見もあると思って、こういうものも作ってみたの。店長、これも貼り付けていい?」

「あ、いや……ちょっとこれは……」

 はっきり断らんかい。

「赤堀さん、うちは公民館じゃないのよ」

 妙子が厭味を言う。赤堀は慇懃に微笑み、「わかってますよ」と言った。

「萩尾さん、動物は嫌い? 殺処分されてもなんとも思わない?」

 赤堀は妙子をまっすぐ見つめて言った。

「萩尾さんは猫を飼ってるよね」

 店長が謎のフォローを入れる。赤堀は大袈裟に驚いて見せた。

「あら、そうだったの? なんだ、言ってよ。どんな柄の子?」

「アメショーだったよね」

 店長が言い、妙子は「はい」と答える。

「ああ……もしかしてそれ、ペットショップで買った?」

 赤堀は困り笑顔になった。他にどこで買うのだ。妙子は質問の意図がわからない。

「そうですけど」

 赤堀はアメリカ俳優のように肩を落とし、かぶりを振った。

「そっかあ……まあ、そうよねえ。課題、いっぱいあるなあ……」

「あの、なんなんですか」

「ううん、大丈夫。萩尾さんに悪気がないことは分かってる。むしろありがとう。こっちの人の感覚がよく分かった」

 お前はどこの人じゃい。妙子は「そうですか」と言って、事務室を出た。相手になりたくなかった。

 勤務を終えて帰宅すると、カバンからチラシが出てきた。「ペットショップで命を買わないで」という文字に、一瞬で頭に血が昇る。

 くしゃくしゃに丸めて壁に投げつけた。おもちゃだと思ったのか、ケンジが飛びついた。バカ猫。あんたのことだよ。妙子は鼻から息を吐いた。ケンジはチラシに夢中である。

 

 ケンジの餌を買いにホームセンターに行くと、ペットコーナーに赤堀がいた。合皮ジャケットに細身のパンツを合わせている。足元はピンヒールだ。ショーケースの前で足を止めた客に、チラシを見せながら保護猫の説明をしている。若い女の客は気圧された様子で赤堀の話に相槌を打っている。

 足が勝手に動いていた。

「赤堀さん」

 普段よりも溌剌とした声が出た。赤堀が瞬きする。赤堀は唇に真っ赤な口紅を塗っていた。妙子が試したことのない色だ。

「あら、萩尾さん」

 赤堀が微笑む。妙子も負けじと微笑んだ。そのまま、若い女を見る。

「ごめんなさいね。この人、うちの職場でも問題になってるの。何回か注意したんだけど、ダメね。こんな場所まで進出しちゃって」

 若い女は「あは」と言葉にならない声をあげ、ギクシャクと去っていった。

「どういうつもり?」

 赤堀は頬を引き攣らせ、体ごと妙子を向いた。

「営業妨害、やめましょうよ」 

 妙子は笑顔のまま答える。赤堀の手から、チラシを一枚引き抜いた。チラシには里親募集の猫の写真が並んでいる。ショーケースと大きさは変わらないのに、ケージに入れられた猫の姿はなんとも痛ましい。裏面には、「ペットショップで命を買わないで」という文字の下、繁殖現場の実情が写真付きで事細かに記されている。

「萩尾さん、現実はこうなの。綺麗な猫や犬が売り場に並ぶ背景にはね、繁殖のために劣悪な環境で、ボロボロになるまで酷使される動物の存在があるの。生まれるのは綺麗な猫ばかりじゃないわ。生き物だもの。売り物にならないような猫は間引かれるの。ひどいと思わない? 人間はどんなに醜く生まれたって無条件に生きることを許されるのに」

「ひどいとは思うけれど、だからってこんなところでチラシ配りなんて非常識よ」

「ううん。非常識なのはペットショップで命を買う人」

 あんた、言ってくれたね。

「うちのケンジはね、売れ残ってたのよ。誰があんなブサイクな猫に七万も払うんですか。うちが買わなきゃねえ、ケンジだって殺処分だよ。あんたそれは良いっていうの? 売れ残った猫は見捨てるつもり?」

「えっと……うん。ひとつずつ説明するね。まず、猫にブサイクとかないの」

「はあ?」

「売れ残ったら可哀想って理由で買うのは、それこそペット業界の思う壺。可哀想だけど、そこは割り切らなきゃ。需要があるから供給されるの。萩尾さん、これからは悪徳業界に加担しちゃダメよ」

 今度は老夫婦がショーケースの前で足を止めた。赤堀がすかさず駆け寄る。チラシを受け取った老夫婦は顔をしかめた。

 あの女には何を言っても無駄だ。あの女の行動や言動は、正義感からきているのだから。そこから放たれた言動に傷つけられても、それはあの女の悪行にはならない。

 妙子はショーケースに並んだ動物を見た。どれも生まれたばかりで、二十万円以上もする。ケンジも最初は二十二万円だった。それが五万円ずつ値下げし、七万円になった。成長するほど安くなっていくケンジが可哀想だった。ケンジは愛想のない猫で、自分が安売りされているとも知らず、いつもフテ寝していた。

 ケンジを買った時、妙子はいいことをした気分になった。それを悪への加担のように否定されたのは、怒りを通り越してショックだった。

 妙子は帰ることにした。ケンジが腹を空かせて待っている。


 自宅前の道路に向かいの住人がいた。妙子はこの老女が嫌いだった。カラスに餌をやるからだ。

「肌寒くなってきたわね」

 老女が話しかけてきた。

「冬場は食べ物が少ないから、野生の生き物にとっては過酷よね。死んだ鳥の胃袋を調べるとね、たいてい空っぽなの。餓死ってこと」

 妙子は脱力した。そうか、この女も、頑固な正義感の持ち主か。

「はあ、そうですか」

 妙子は自宅に入った。もうどうでもいい。自分もたまには餌をやろうか。ケンジはますますグルメで、食べ残しが多くなった。

「ケンジ!」

 ケンジはリビングのソファにいた。妙子は膝をつき、ケンジの狭い額を撫でた。

「あんた、たまには私にも媚びたらどうなの。世話してるのは私なんだからね。あんたを選んだのも私だよ。私は命の恩人なんだよ」

 ケンジはゴロゴロと喉を鳴らした。

「やればできるじゃないの。今日はシーバ。あんたのために買ってきたんだからね」

 ケンジは気持ちよさそうに仰向けにひっくり返った。妙子はケンジの喉をそろりと撫でる。喉の振動が、指先に心地よく伝わってきた。

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